05/08/2020:『In The Light』

旧市街の入り組んだ路地裏は、丘の斜面に無理やり町を作った結果、上り下りにかなりの苦労を要する。人がちょうどすれ違えるくらいの道が、地中の蟻の巣を空の下に取り出したみたいに立体的に重なり合って、そこへ好きなように建てられたアパートがさらに地区の構造を複雑にしていた。

道を隔てた隣人ーこれを隣人というのかはわからないけどーは窓を開けて腕を伸ばせば物を交換できるくらいの距離にいて、物干し紐を互いの窓の鉄柵に渡しては、アーケードを覆う万国旗みたいに洗濯物が干されている。時折窓枠に紐付きのバケツをぶら下げている家があって、これはなんだろうと思ったけれど、ある時、自転車で野菜を売り歩ている八百屋さんが、バケツに人参やブロッコリーを入れて、それを3階から丸っこいおばさんが引き上げているのを見た。そして野菜を取り、もう一度バケツをおろし代金を支払う。

「信頼関係、というか、それぞれがもうそれぞれの一部なのかしら。」

と、道を歩きながら彼女は言った。

すると窓の上からおばさんが優しく手を振ってくれた。

僕らはもちろん、振り返した。

                 ・・・

僕の友人関係はそこまで広いという訳ではないけれど、ちらほらと外国人の友達もいた。きっとそういう大学にいたから、知らず知らずに僕のいたコミュニティも国際色の濃いもんいなっていたのだろう。

彼は太い眉毛の下に茶色い瞳を持っていて、細長い手足をゆっくりと動かして歩く人だった。もみ上げから顔全体にヒゲが繋がっていて、話している時も例えば笑顔なのか泣いているのか、少し分かりにくいことがあった。

「でも、笑顔と涙は、時々同じですね。」

と、よく彼は言った。

彼の故郷は日本から遠い大陸の果ての国で、大昔、そこからたくさんの船が日本までやって来ては、物を運び込み、そして積み出していた。文化と人の交流、物と価値の交換。もう何百年も前のことだ。

「その時からの、縁ですね。」

と、何かにつけて話していた。

国の大学で彼は写真学を専攻しているらしい。どんな学問かいまいちわからなかったが、実践と理論という二つの柱があることは間違いないだろう。それが学問というものだ。

「動いている時間を止めることは本当はずるいことです。だって、僕らにはできませんから。でも写真にはそれができます。」

日本へは夏季語学留学プログラムで来ていただけだった。日本語は第三外国語として勉強していたらしい。過不足なく思っていることを正確に伝えることができるレベル。特に写真のことを話すときは生き生きしていたが、同時に歯がゆそうでもあった。

「言葉はもっとすごいですね。写真がなくても、イメージ、シェアできますから。」

「そうだね。でも、それぞれの頭のイメージは、僕らがお互いに依存した上で話をしないと、ちぐはぐになってしまうこともあるよ。」

彼は少し考え込むようにしてから、

「依存。それは、信頼、ですか。」

と、訊いてきた。

「うん、そうとも言う、時々。」

「そうですか。」

と、遠くを見ていた。

                 ・・・

入り組んだ路地裏とは言っても、時々は広いスペースもあったりして、でもそんなところは大抵テラス席のある食堂かカフェだった。午後いっぱい歩き回っていた僕らは、休憩しようと一軒のカフェに入った。

アパートの一階部分をそのまま切り抜いたような入口を潜ると、左手にキッチンがあって、イスとテーブルが適当に配置してる。壁中に昔の写真が飾ってあった。白黒の写真、セピア色の写真、冷たいフィルターのかかった写真。エスプレッソマシンの陰から店主が顔を出した。

「天気もいいし、外に座りなよ。」

と、メニューを渡してきた。僕らはそのまま店を出て日陰になっている席に着いた。

「それで、この後はどうするのよ。その写真の景色、まだ探すの。」

僕らは一枚の写真を片手にずっとこの辺の路地を歩き回ってきたのだ。

縦長の枠、建物に挟まれた細い階段が下に伸びている。途中の踊り場には二脚の椅子とテーブルが一つ置かれていて、きっとお店屋さんーきっとカフェーなんだろうけどちょうど日陰になっているから、入口がよく見えない。反対側の壁には日が当たっていて白くパンする寸前まで明るい。階段の先に海が見えた。海の色よりも薄い青空が上半分に広がっている。

「あいつが言うには、この地区のはずなんだよなぁ。」

彼は日本を出発する前に、この写真を僕に託した。

「それ、僕が初めて撮りました。僕の国、街です。キレイですね。」

そのまま国に帰るもんだと思っていたので、会いに行くよ、と伝えた。でも彼は、せっかくアジアまで来たんだからと、帰国がてらしばらく旅に出た。

「写真、たくさん撮りますよ。」

と、楽しそうにしていた。連絡先を交換していたので、何度か気の無いメールを送ってみたのだが、返信はなかった。果たして生きているのかもわからない。

この国に来たいと言い出したのは彼女だった。日本や世界の喧騒から、真反対のところへ行きたい。そして、それは手つかずの自然ではなくて、人間の営みがある静寂が理想だ、と。

僕はこの写真を見せた。

「それなら、あいつの国に行ってみないか。こんな感じらしいよ。」

「よさそうね。」

そうして、僕らはこのテラス席にいる。

「いや、今日も本当にいい天気だね。さて、何飲む?」

店主が店から出て来た。恰幅のいい体に禿げ上がった頭。スラックスにポストマンシューズを履いている。

「僕はビールかな。どうする?」

「んー、私は白ワインがいいわ。」

店主は微笑んで席から離れようとした。

「あ、そうだ。すみません。僕ら、実はこの場所を探しているんですけど…。」

写真を手渡すと、

「んー、そうだね。たぶん…、ちょっといいかい?」

と、言って、持ったまま中へと消えていった。

西日が遠くから丘に差し込む。雲が動いて、それに合わせるようにして路地裏の壁の模様もスライドする。僕らの座るテーブルは足元が少し明るくなった。

「はい、ビールと白ワイン。オリーブはサービスだよ。」

店主は盆からそれぞれを置いて、そのまま隣の席からイスを抜いて僕らの前に座った。

「おい、お前も出て来なさい。」

店の中から店主の奥さんだろうか、同じくらいの年齢で薄緑色のエプロンをした女性が出て来た。遠目で見たら、店主とどちらか見分けがつかないほど、2人はよく似ていた。

彼女も席に着くと、

「この写真の場所ね、ここからもう少し行ったところよ。ねぇ。」

と、店主と2人して写真を眺めながら話し出した。

海からの風が、取り込んだばかりの布団のように暖かく包み込んだ。

僕らは顔を見合わせる。

「これも信頼の一部かしら。」

「うん、そして僕らはもうその中に入り込んでいる。」

グラスを持ち上げ、口元に運ぶ。

すると太ももに水滴が落ちて、そこだけ少し冷たくなった。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

なぜだろう、手放すことができないんだ。

The Lumineersで『In The Light』。


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