28/07/2020:『Last Smile』
南の対岸 1
気温は30度を超えていて、明るい空が全力で広がっていた。大学の授業の後、一度シャワーを浴びて、天井のファンを全開したまま昼寝をした。割と気持ちよく目覚めたと思ったのだが、こうして午後のバス停にいると、その時の爽やかさはもうどこかへと消え去ってしまっていた。
青い市バスを何台も見送る。
この国には日傘がない。だからみんな雨傘を太陽に向かって差している。僕としては何と無くコメディ感が否めなかった。でも、老若男女問わずみんな真剣に差しているもんだから、
「そういうライフスタイルなんだろうな。」
と、思うことにした。
そして、彼女も真っ赤な雨傘を差してやってきた。
「やっぱりそうなんだ。」
と、思わず口に出してしまった。
「何がやっぱりよ。ほら、バスがきたわよ。」
彼女は僕の手を引くと、バスへと乗り込んだ。
・・・
北の対岸 1
私はもうこんな寒い国はこりごりだった。一年の半分以上は太陽が貧弱で、気が滅入るくらいの曇り空。シロクマ並みの防寒服を着ないと外は歩けない。湖の反対側にあるスーパーまでは、スケート靴を履いて買い物に行く。嘘ではない。
雪を被った湖面は完全に凍りついていて、手で払うと透き通った水面が、その氷の床の先へとどこまでも深く続いている。
ブーツに刃を付ける。靴のサイズよりもひと回り大きく切った板の底に鋼の刃がついていて、それをぐるぐると紐で縛る。そうすると、わざわざ靴を履き替えることなく湖面を滑る準備が整う。
右足を湖面に差し出す。体重を自然に乗せると、音もなく滑り出す。そして、頃合いを見て左足と交代させる。また音もなく、体は前に進む。
実際に音は鳴っているのだろう。でも、周りに何もない湖の上では、音はすべて氷に吸い込まれていく。私の耳に届き脳で響くのは凍てつく風の音だけだ。
「早くここを出ていきたい。この湖よりも広くて、明るい世界へ。そして卵や牛乳ではなく、もっと刺激的なものを買いに行きたい。」
それでも私の成績、この家庭環境ではこの村からは出られないだろう。
氷の上をすんすんと進んでいく。音のない、真っ白な湖面。
「だったら、このまま一生湖の上にいたいわ。陸に上がることなく、雪にも濡れることなく。ただ、凍った湖面に。」
私は声を出さずに、話しかける。ただ、氷の上を滑りながら。
・・・
南の対岸 2
この町には遊ぶところはあまりないから、必然的にみんなこのモールへ集まることになる。買い物をしたり、映画を見たり。フードコートはその辺のサッカーコートよりも広く、無数の人を飲み込んでいく。
バスは地下駐車場にあるモール専用停留所まで潜り込んでいった。そこで乗客は料金を払って降りる。
僕がそのまま昇りエスカレーターの方へ行こうとすると、
「ほら、あれ。あれ何。」
と、彼女にまた手を引っ張られた。
胸の高さの壁に囲まれたハズケットコートくらいのスペース。そこだけ真っ白い照明が照らされていて、やたら眩しい。サーカスの入り口みたいな空気ビニールをくぐる。そこはスケートリンクだった。
「わぁ、私初めてよ。こんなのができていたのね。」
彼女はこの南国で生まれ育ち、そして留学生としてやって来た僕と出会った。そして、いつも冬や雪というものに対して無条件の憧れを抱いていた。
いつか、
「雪のように白いお尻ね。」
と、彼女は本当は黄色いはずの僕の肌を撫でながら言った。彼女は褐色の体をさらけ出して、僕の横に寝ていた。
僕らは入り口で係員に足のサイズを告げるとそれぞれスケート靴を受け取り、そのまま横のベンチに腰掛けている。
「私はこのうざったい太陽にも、背中を流れる汗にも本当は飽きてきているの。生まれてからずっと、こうして日に焼けてばかり。着る服は半袖、かけるのはサングラス。そして雨傘を差して歩く。ねぇ、頭がおかしくなると思わない?」
そうして、彼女はいきなりリンクへと飛び出した。
締まった褐色のふくらはぎが交互に氷の上を滑る。真黒い髪と蛍光色のネイルが白いリンクに映える。
「本当に初めてなのかい。」
そう言いだして、僕も一歩を踏み出した。
「ん?何か言った?」
と振り返った彼女を見ようとしたら、もう天地がひっくり返っていた。
・・・
北の対岸 2
スーパーが見えてきた。湖の一番狭い対辺。それでもこの冬景色では、互いの岸が見えることはなく、今日みたいにスケートで渡るのは時間がかかる。
徐々に近づく岸。もうすぐ向こう岸がこちら側になり、出発してきた側が向こう岸になる。でも、反転したはずの世界なのに、ふと湖へ目をやると、地平はどこまでも白く広がっているから、反転も入れ替えも、その実態は感じられないまま先ほどから見えるのは同じ景色だ。
杉の木に雪がかぶさっている。白い枝葉と茶色い幹。魚の骨のように細く、そしてタフだ。何百年も同じように冬を迎え続けてきた骨の集合体。
凍った湖の下にいる魚群れと、視界に迫る杉の木たち。
どちらがこの先、より長く生き残っていくのだろう。
少なくとも最初に消えていくのは私だ。
岸に着くと紐をほどいて、スケート刃をブーツから外す。まだ誰にも踏まれていない雪が、足を踏み込むたびにキュッと音を鳴らしたり、ザッと深く足を捉えたりする。寂れた建物、雪を払って入る。スーパーは蛍光灯が半分しか付いていなくて、それは外と同じくらい冴えない光量だった。卵と牛乳をカゴに入れる。余ったお金は自由に使ってもいいことになっているから、私は店内を物色する。
冷凍庫が奥の方に並んでいる。海鮮ミックス、加工肉。大きいものから、部位ごとに切り分けられたものまで、多様だ。
そして、そのまま移動していくと、今度はフルーツの冷凍庫がある。
カラフルな写真がプリントされたパッケージ。海、空、パラソルの下で、大きな果実を頬張る人々。この山には生涯生えてこない果物たち。
私は扉をあけて、一つを手に取る。原産国は、地図でしか見たことがない遠い南の国。カットされた実の瑞々しい色は、冷凍だとしても私の心を暗い空から遠ざけてくれた。
そのままレジに向かい会計をすませる。
向こう岸になった私の岸を見遣る。岸は湖からの風に舞う雪に遮られている。
私は再びブーツにスケート刃をくくりつける。
右足を氷の上に乗せる。
籠の中で冷凍フルーツが揺れて、ちらちらと私の目を誘う。
左足に体重を乗せ換えた。
遠く遠く、南の国の対岸まで、風を切るように滑り出す。
・・・
南の国 3
リンクには僕らしないなくて、あらかた滑り終わるとそのまま氷の上にへたり込んだ。ジーンズ越しに氷の冷たさが伝わる。彼女は薄いワンピースだけなのだが、そんなこと気にもしていない風でいる。
「冷たい氷の世界で生きる人たちは、日々をどう過ごしているのかしら。」
僕は北国の陰鬱で寂しい冬のことを考えた。太陽が昇らない、霞みがかった空と視界に広がる白、グレーの杉林、凍りつくまつ毛。
「もしかしたら、南国のことを思いながら生活しているかもよ。」
「ちょうど、今の私たちのように?」
「うん、ちょうど、今の僕らのように。」
凍った湖を渡るスケート靴。湖面を滑る音は全てに吸収され、ひたすらに対岸を目指して進んでいく。
「私たちが対岸を夢見るように、向こうもこちら側を眺めているのね。」
そうして、互いの岸を出発して、入れ違う。
対岸に着いた時に気づくのは、ただ対岸がこちら側になっただけで、振り返ると対岸がまた対岸としてある景色だけだ。
リンクに手を置く。
蛍光灯に照らされた真っ白い氷はツルツルしていて、手を離すと水滴が指を濡らした。
どこにいても僕らは対岸を思いながら生きていくんだろう。そして、意を決して今いる場所を出発し対岸に辿り着いたとしても、また振り返り、対岸を眺めるのだ。
営みは繰り返される。
彼女の方を見た。
すると、
「そろそろ行きましょうか。」
と、彼女は立ち上がった。
そして白い光に照らせながら、凍った対岸へと滑り出した。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
いつだって、君は向こう岸で。
LOVE PSYCHEDELICOで『Last Smile』。
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