22/08/2020:『プール』

川 今 1

水上タクシーは左右に1人ずつしか乗れないくらい狭くて、それが8列も並んでいるから狭いというか細いと言ったほうが正しいかもしれない。板を重ねた船底にまた板を渡して座席を作り、簡単なアルミパイプを柱にした屋根が僕らを守ってくれている。

「ほら、日本製のモーターだから大丈夫さ。」

と、黄色いビーサンを履いた船頭は歯を見せて笑った。

水は濁っていて、氷で薄まったアイスカフェオレみたいだ。両岸のマングローブがずっと行く先まで川を縁取っている。時々目の前ーと言っても遠くの方ーを鳥が横切ったり、脇では魚がバシャンと跳ねたりした。

外国から来た人は僕だけのようで、他の乗客はみんな現地の人のようだ。買い物袋を下げたおばさんや、行商の2人組、斜め後ろの親子連れは子供の定期検診で街に出ていたという。

「すみません、どうしてこんな船に乗っているんですか。」

と、隣に座った僕と同世代か少し年下に見える女性が声をかけて来た。服装は現代風だが、黒く真っ直ぐな髪とそれに合わせるような凛々しい眉毛、浅黒い肌にきめ細かな肌はきっと森のコミュニティの出だと思った。

「はい、私は学生で、週末の度にこうして森に帰っているんです。」

と、彼女は答えた。

僕はただ旅をしていて、「ここまで辿り着いただけなんだ」と答えたが、

「だからと言って、あんな村に行くことないのに。」

と、言った。

「でも、まぁ、いいでしょう。おもてなししますよ。」

とも言ってくれたので、僕は少し安心すると、モーター音を聞いたままずっと川波の揺れに身をまかせることにした。

                 ・・・

大学 少し前 1

大学に入って3年が経とうとしていた。少なからずできた知り合いたちは、それぞれスーツを着て就職活動というものを始めており、面接対策や履歴書対策、インターンシップ対策など、色々な対策に身を投じていた。一体、就職活動のプロセスの中でどれくらいの数の対策を打つ必要があるんだろう、と不思議に思った。

そう感じていたのは僕だけじゃなかったようで、僕の唯一の親友だった彼は、

「信じられないな、そんなこと。」

と、言った。僕らはいつものように裏手の喫煙所にいた。

ちょうど夏が始まりそうな風の強さと雲の大きさの天気で、僕らは2人ともスウェットを履いたまま、ただ大学に来ているだけだった。

「英語ではjob-huntingっていうだろ。だったら1人でこっそり森の中へ入らないと。あるいは覚悟を決めて草原に繰り出したり、命をかけて犬ぞりを走らせるべきだ。みんなで一斉にするなんて、それはハンターのすることじゃない。」

と、彼は間をおかずに言った。

彼はもう自分の未来をしっかりと捉えようとしていた。

一年生の夏、野生のサイの保護活動に従事する国際自然動物団体に飛び込みでボランティアへ行った彼は、その後も定期的にーというか、長期休みの度にー現地へ足を運んでいた。毎回届く手紙や写真付きメールが僕としても楽しみで影ながら応援もしていたので、卒業後は全てを引き払ってアフリカで生きていくということを聞いたときは、特に驚きもしなかった。むしろ嬉しさが強かった。

「で、お前は?」

と、彼は紙コップのコーヒーを一口すするとこちらを見ずに訊いた。

「うん、色々考えてはいるんだけど。取り敢えずは、一旦ここから外れてみようと思う。」

色々考えていたのは本当で、でもこのままでいることにはハッキリとした疑問を抱いていた。そんな時は、進むか止まるか外れるか、その3つしかなくて、僕の中で進むことは難しかったし、止まることももう継続したくなかった。

「それはいい案だね。一緒にくるか?」

と、親切心からか、そう投げかけてくれた。

「いや、君がそっちに行くなら、僕は反対側に行くよ。」

そして、その足で僕は休学届けを出しに学生課へ向かうことにした。

「ここで待ってるよ。」

と、彼はタバコを灰皿に投げ入れると、鞄から文庫本を取り出した。

                 ・・・

川 今 2

エンジンの回転数が落ち着いてきて、そのまま岸から少し飛び出た桟橋に張り付くようにしてボートが止まった。降りる乗客は半分くらいで、残りはここからもっと奥へ行った集落まで向かうらしい。

「下りましょう。ここが私の村です。」

と、彼女に促されて僕はそのまま桟橋へ足をかけた。僕は60Lのバックパックを背負っているのだが、彼女も同じくらい大きなスーツケースを持っていて、僕が少し驚いた顔を見せると、

「一週間分の洗濯物と街のお土産です。」

と、言って小さく笑った。

桟橋向かいの道にはバイクが何台か停まっていた。僕みたいな格好の人は珍しいらしくー格好、というか風貌。顔、肌、体格、その全てだろうー、みんな悪びれもせずに僕を凝視している。

その中で一台、ピックアップトラックが目に入った。どうしてこんな泥だらけのジャングルで白い車を買ったんだろうと思ったが、泥にまみれてすでに全体が茶色く染められていた。

「父です。乗ってください。」

僕は開いたサイドドアから手を差し出した。彼は握手をしながら軽くうなづくと、笑顔を見せてくれた。僕も同じように返してあげた。

そのまま車に乗り込むと、川を離れて森の中へと続く道を進んで行った。

「これからどのくらいここにいることになるんだろう。」

僕は自分のことなのに、どこか他人事のような気持ちでいた。森の緑は闇に吸い込まれていきそうなくらいに濃く渦巻いていて、なのに途中に咲く花が熱を帯びたかのように鮮やかに咲いていた。

明らかに僕はどんどん今までいたところから外れていっていることを感じていた。

「私たちの家はもう10分くらい行ったところです。」

と、助手席の彼女が僕を振り返った時、薄く口紅を塗っているのに気がついた。

僕はなるべくそこを見ないように、

「うん、ありがとう。」

と、言った。

                 ・・・

大学 少し前 2

学生課には人がほとんどいなくて、それでも僕の父と同じくらいの人が対応してくれた。休学届の空欄を埋めていると、

「どうしてまた休学を?」

と、訊いてきた。どう答えたもんかなぁと思ったけど、

「んー、ちょっとこのままじゃ違う気がしただけで。」

と、言うだけにした。

「そっか、わかる気がする。私も君と同じくらいの時に、色々と見失うことや迷ってしまうことが多くてね。しばらくぼーっと休む期間を設けたっけなぁ。」

と、懐かしむように言った。今まで全く関係のないような人だと思っていた事務員さんが、急に互いの領域内で再会した昔の友人のように感じられた。

「手続きはこれだけ。お疲れ様。いい時間をね。」

と、最後には優しく声をかけてくれた。僕はいつもよりも丁寧にお辞儀をして自動ドアを出た。

空はミネラルウォーターのように透き通っていて、いつも歩いているキャンパスの中庭の芝生もそれに合わせて輝いていた。

喫煙所へ戻ると、彼は何本目かのタバコを吸っているところだった。

「おかえり。どうだった?」

「うん、優しかった。」

「優しかった?」

僕は事務員のおじさんの話をかいつまんで説明した。

「そうか。それはよかったね。俺までいい気分だよ。」

と、彼は微笑んだ。

中途半端な午後の時間ーと言っても講義中ーには、人の通りがなく僕らは空白に取り残されたかのように、無音の風と明るい日差しの中にいた。それはまるで透明なガラスケースを上から逆さまにして被せたみたいで、中と外は境界がなく同じに見えるが、でも僕らがいるこの場所は確実に外とは異なる空気の流れがあった。

「早速、準備するか。」

と、言うと彼はタバコを灰皿に投げ入れてメッセンジャーバッグを肩にかけた。

「うん、そうだね。」

僕らはそのまま駐輪場へ向けて猫背のまま、ゆっくりと歩き出した。

ガラスの壁にぶつかるかと思ったが、そんなことはもちろんなかった。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

秦基博で『プール』。


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