10/07/2020:『Tom's Diner』

スケートボードが立派な移動手段として確立していることが僕にとっては新鮮だった。日本にいた頃は自転車に乗って学校へ行っていたし、周りの友人もみんなそうだった。でも、今僕がいるこの街では道は有り余るほど広くて、水の流れが止まるくらいに平坦だ。だから、自転車を買うまでもない。板にホイールを付けて出来上がり、スケートボードでいいのだ。

「波に乗るようだから、私は好きだわ。」

彼女は僕と肩を並べて言った。彼女はスエードのスニーカーと黒いスキニーを365日毎日履いていた。そして夏はタンクトップ、冬はライダース。

「目的地に向かってまっすぐ移動しているようで、でも畝りながら進む。すごく哲学的に感じるの。」

ナイロンの安いリュックを背負って大学まで行く。大学校内でもゆったりとした歩道を板に乗って走る。歴史学部棟の前の売店で、オレンジジュースを買う。ラベルも貼られていない、蓋もペラペラとしたボトル。この国では広く伸びる道路と同様、オレンジも果てし無い数だけ栽培されている。

僕はそのまま教室へ入った。

                 ・・・

パーティーへは手ぶらで行かなければならない。そういうドレスコードがあるわけではないのだけれど、学生が密集したアパートで飽和状態まで酒を飲み、踊り回るような集まりでは荷物を持っていることは圧倒的に不利だし、何よりただ邪魔だからだ。

「落ち着いたパーティーだよ。」

と、聞いていた。言葉にもまだ自信がなかった僕は、何と無くタバコの他にも暇をつぶすものを、と思い一冊本を持って行くことにした。

誰かの友達のいとこの知り合いの彼氏の誕生日、とかだった気がする。僕がなぜ招かれたのかもわからないし、

「もしよかったら覗きにこいよ。」

というのをお誘いと受け取った僕が間違っていたのかもしれない。

アパートに着いて350mlの瓶ビールを受け取ると、僕は早速厳しい夜になることを予感した。広いリビングの窓際にはDJがいて、長テーブルに置かれたスピーカーからは柔らかめのヒップホップが流れていた。女性の声で、同じメロディーを繰り返す昔の牧歌のような曲だった。

友人はまだ来ていなかった。

そのリズムに乗りながら、部屋の中央ではグラスや瓶を片手にリズムに乗っている人たちが溢れていた。気持ち良さそうだったけど、それぞれが誰かと輪を作っていて、1人でノるには少し躊躇う。

僕はそこを横切って、ベランダへ出た。木板を渡したベンチと灰皿があった。せめて友人が来るまでは待っていようと思って、火を付けて本を開いた。

「あなた、歴史学部の図書館にいたでしょう。」

振り向くと見たことのない人だった。黒い髪を肩で切りそろえ、正義感の強い眉と切れた鼻梁が僕の瞳を捉えた。スエードのスニーカと黒いスキニーを履いていた。

「うん、いたよ。週末に読まなきゃいけない本を探していたんだ。」

「でも、私が見たときは本なんか探していなかった。必死にノートと辞書にかじりついていたわよ。」

留学して来て3週間。僕は授業について行くのに精一杯で、まだ自分の知的能力に言語レベルが釣り合っていなかった。だから、レジュメを読み込んでいた。

「私は、真正面の席にいたわ。この学校でアジア人は少ないからあなたはよく目立つ。よくも、悪くも。」

この国は長い間独自に守って来た文化や政治を守って来た。単一民族国家であること、信仰深いこと、そしてどこの語族にも属さない難解な言語がそれを可能にした。しかし50年前の隣国による軍事介入によってそれは見事に打ち崩された。

オレンジの木々が明るい分、その後の50年間は暗く陰鬱なものだった。

「私も苦手なの、こういうの。だからここへ逃げ込もうかと思ったら、昼間のように先にあなたが座っていた。」

僕は少し左にずれ、彼女のためにスペースを空けた。横に座ると彼女は足を組んで、僕が読んでいた本を覗くと、

「どうしてこんなにも広大な国があんなにすぐに占領されてしまったのかしら。」

と、聞いてきた。彼女はこの国の人だが、もうその時代を知らない世代だ。当たり前にある今は、外から来た僕が見るよりも透明に見えるのだろう。

史上では圧倒的な軍事力の差が原因とされていた。それは裏返すと、それまでも隣国にいいようにされていたことを表している。自分たちは軍などを持たずとも、彼らがいるから大丈夫だ、それに仲良くやっているし。という日々がただ単に終わっただけだ。

平らな道は戦車や兵隊が動きやすいし、オレンジ畑など空から爆弾を落とせば一瞬だった。そうやって隣国は占領を始めた。

でも、50年経って和解がなされると、それまでのことが無かったかのような毎日が戻って来た。平らな道にはスケートボードが溢れ、野にはオレンジが戻った。隣国がもたらした文化ー強者の文化ーは、何一つ残らなかった。単一言語が打ち勝ったのだ。

「でも一度染められたものが、また元の色を戻すなんてあり得るのかしら。」

「白いシャツにできた染み、ブリーチされた髪、ペンキを塗った遊具。染められ方にも様々ある。そして、いつか染色は消える。この国はきっと本当の意味で染められていなかったのかもしれないよ。」

タバコの火がベランダの向こうへと流れて行く。

こうして僕と彼女は出会った。

                 ・・・

ベルが鳴り教室から出ると、彼女が経っていた。外まで一緒に歩いた。

「私は何もない透明なんだわ。でも、あなたは外から来たから色がある。」

夏に日差しが講堂の白い壁をさらに白くしていた。僕は飲み干したオレンジジュースのボトルをゴミ箱へ捨てた。

「でも、僕の国では僕は透明で、君の方に色が付いているよ。」

僕はこのあと図書館へこうと思っていたが、このまま彼女と一緒にいくことにした。彼女もスケートボードを持っていたから。

アスファルトにボードを滑らせる。前を行くグーフィースタンスの細い足がクロスしているように見える。8つのホイールが広い歩道を鳴らす。DNA配列のように、ミツバチのダンスのように、僕らは波に乗りながら進んで行った。

僕は右足を蹴りスピードに乗ると彼女の波にシンクロするように左右に揺れる。

透明だと言っていた彼女の背中がオレンジ色に見えた時、少し追い風が吹いて、

僕をその色に染めていった。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

ぼんやりとカフェに座って、巡る街並みと行き交う人を眺める。

Suzanne Vegaで『Tom's Diner』です。


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