05/07/2020:『Time Is On My Side』
家 1
「できるだけゆっくりと乳化させてください。」
テレビではペペロンチーノの正しい作り方というテーマで料理番組が進行していた。キビキビとしたイタリアンのシェフがフライパンを振っている。
「時々傾けながら、残った汁にとろみが付いているのを確認します。それが乳化のサインです。」
細めの麺にニンニク、唐辛子。ぐるっと巻きつける様にお皿に盛り付けると、パセリをふって完成、そしてCM。
テーブルには今朝煎れた紅茶が冷めたまま置いてあって、リモコンや灰皿にぶつからない様に足を乗っける。
開けた窓から吹いてくる風は、久しぶりに乾いた感触で、空も起きた時より随分と明るくなっていた。
昨日、絵葉書が届いた。
地球の裏側の知らない国の知らない町。先月までこの6畳半で一緒に暮らしていた弟は60Lのバックパックを背負って旅に出た。
空港までお見送りに行ったのだが、前日は意気揚々と準備していたわりに、当日になっていざ入場口の前に立つと、彼は生まれたての子鹿の様に震えていた。
そして、
「これから旅に出るにあたって、その旅からいつ帰るかわからないということが、俺を子鹿にさせるんだ。」
と、笑っていた。
餞別として、彼にシャツをプレゼントした。厚めのコットンと象牙ボタン。着丈は長くして、両サイドに深いポッケを遇らった紺色のシャツだ。胸のポケットにもボタンがついていて折り返して止める様になっているところが目を引く。
僕が着ていたシャツを彼は偉く気に入っていた。だから同じデザインの色違いを仕立ててもらった。
僕のは白。
彼のは紺。
そして今、6畳半の壁には白い方だけがかかっている。
絵葉書には、
「これからどうしようか。歩き出せないことが俺を苛立たせるよ。兄に分かるか、この気持ち。」
と書いてあった。
・・・
大学 1
大学までは原付バイクで30分程だ。中古で買ったバイクは燃費がよくて毎日往復しても給油は週に一度で済む。セルフで入れるガソリンスタンドは無人で味気ないが、細身の自動販売機が出迎えてくれるところがいい。
メッセンジャーを背負ってキックスターターを踏み込んだら、ハーフメットの顎紐の内側からイヤフォンを通して曲を選ぶ。
アクセルを回す。
夏休み中の研究室には誰も来ていなくて、僕は窓際の自分のデスクに向かうが、バッグを投げ出すとそのまま後ろのソファーに横になる。
「あぁ、そうだった。」
来る途中に図書館に寄り忘れた。タバコとカードキーを鞄から出して研究室を出た。
・・・
家 2
絵葉書の写真は、きっと弟が滞在しているであろう町の市場を収めたものだった。吹きっさらしの広場に並んだテント。そこに野菜、果物、香辛料、肉、魚などそれぞれの持ち場をしっかりと守りながら陳列されている。
買い物かごを持って物色する主婦、仕入れにきたレストランの店主、走り回る子供たち。食材も人もいっぺんに凝縮されている。
僕は弟がこの市場を歩いている姿を想像した。
紺色のポケットに両手を突っ込み、ただ宛もなく歩き回る。さすがにもう子鹿のようには震えていないだろう。この市場のどの店で買い物をしたのだろうか。孤独に旅をする人間にとって、市場でのコミュニケーションは他者との繋がりを確認できる貴重な機会のはずだ。
乾いた山肌に吹きすさぶ風。市場の外に出ればそこには荒涼とした赤土の道が続いていて、彼が寝床にしている安宿までは襟を立てても風が冷たく吹きすさぶ。
アパートのベランダに出てタバコに火をつける。
この雲は向こうへ流れていくのか、それとも向こうから飛んで来たのか。
絵葉書をかざして見比べても、違いはわからなかった。
・・・
大学 2
書庫には何万冊と貴重な本が保存されていて、それぞれアルファベットと数字で振り分けられた棚に並んでいる。入り組んだ階段を上り下りして、少しカビ臭い通路を進んでいく。最後に開かれたのがいつかも分からない大きな辞書や、手袋をしないと触れることができない挿絵集、デジタル保存されている古代の地図などここにあるのは通時的ダイナミズムを感じさせるものばかりだ。
背表紙の素材、装丁のデザイン、記された書名、静謐に並んでいる様でゴロゴロの個性のある顔ぶれは、絵葉書の市場を思い出させた。
広い市場を一人歩く。左右に首を降りながら、時折棚に近づいてそっと本を取り出す。
パラパラとページをめくると、書き記された文字の熟成された香りが漂って来て、変色した紙面からは一人の書き手と幾千の読み手とのやり取りが浮かび上がる。
僕は市場を進んでいく。
静かで音のない雑踏をかき分けながら。
・・・
家 3
CMが明けて料理番組は来週の予告を流し始めた。
コンソメを考え直すというテーマで、1からじっくりと作る過程を取り上げるらしい。
「しっかりとした素材選び、ここにも着目していきましょう。」
先ほどパスタを乳化させていたシェフがウィンクを投げると、番組は終了した。
僕はもう一度絵葉書を手に取ると、一人テントに顔を突っ込みながら孤独に歩く弟の姿を探した。
裏返して、彼のメッセージをもう一度読む。
「これからどうしようか。歩き出せないことが俺を苛立たせるよ。兄に分かるか、この気持ち。」
「よくわかるさ。」
小さく呟くとタバコの火を消して、壁に掛かった白いシャツを羽織った。
さっきの見た雲はもうどこかへ行ってしまっていた。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
流れる時間だけが、寄り添ってくれる。
The Rolling Stonesで『Time Is On My Side』です。
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