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疑問は日常に溶けていく

これは、あるライターさんが記事のなかで綴られたことばです。

”疑問は日常に溶けていく"

その記事は家畜動物(経済動物)のことや、動物を食べること、ヴィーガンに関する記事だったのですが、このテーマでなくても、すべてに通じる核心をついたことばだと感じました。

疑問は日常に溶けていく。

いま、私たちは生きています。そして、生きているということそれだけでいくつもの疑問が生まれます。

それは、一見取るに足らない日常のちいさなハテナだったり、人生の機転となるようなおおきなハテナだったりします。

いったい私たちは一生のうちで、どれくらいのハテナを頭に浮かべているのでしょう。そのハテナたちに対してどれだけ真剣に向き合っているのでしょう。

そして、その中でどれだけの疑問ハテナが日常の空気となって溶けていってしまっているのでしょうか。

そこには、ただ忘れたいと思う心理が働いたり、あるいは"慣れ"が関与しているかと思います。

疑問は日常に溶けていく。

とても核心をついたことばで、決して日常に溶けてほしくない価値あることばです。私たちは毎日を過ごすなかで、あたり前と思っているものをそれぞれの価値観でとらえています。そのため自分の価値観や得意分野、おかれている環境のことにかんして、そもそも疑問を浮かべることすらしないことが多くあります。

「ずっとこうしてきたから」
「だって、そういうものでしょう?」

そうした”日常に溶けこんだあたり前”の感覚は、だれかに問われてはじめて疑問ハテナに変わる。そのひとの頭のなかにはじめて「あれ、これっておかしいのかな?」とハテナが浮かぶ。そんなことも少なくないはずです。

たとえば、農家さんが自分たちでつくった野菜や果物を「ずっとこうしてきたから」という理由で、同じ方法で扱いつづけてきたということ。

それはべつに悪いことではないのだけれど、少しもったいないと思う部分もあります。かたちの悪い野菜を廃棄してしまうのではなく、直接レストランなど飲食店に持ちこんで売る(契約する)という方法だってあるわけで…。

けど、これまでずっと同じ方法、ルートで売ってきた農家さんたちにとって、かたちの悪い野菜=欠陥商品=廃棄というあたり前(常識)がある。だからこそ疑問を抱かない。

しかし、そこへマーケティングの視点を持った第三者があらわれ、「それってもったいなくないですか?」「もっと活用できますよ」といわれる。そこではじめて「たしかにそうかもしれない」と、手にした不格好なにんじんを見つめて思い直すわけです。

あたり前を疑わない。
このことがどれだけ怖いことか。

先日、ある記事を目にして痛感しました。

日常に溶けていくのは疑問だけじゃない

疑問は日常に溶けていく、ということばを目にした瞬間、本気で止まりました。なにがって、息が。それは一瞬ではあったけれど、猫目はたしかに息を呑んで画面に綴られたことばをくりかえし、くりかえし、心でなぞっていました。

その瞬間、やはり日常に溶けてしまっていた熱意を思いだしたんです

毎日の空気に溶けてしまった疑問や、当事者以外のだれの目にも触れない出来事を伝えたい。そのために自分は小説を書きたいんだった。

だれにも知られることのない事実
あたり前だと勘ちがいしてしまっている奇跡
もう触れることのできないものたちへの感謝

そうした簡単にはつかめない、目に見えないものを問いかけるために小説がある。数年前に小説を書きはじめた頃にはきちんと手にしていた熱意を、忘れかけていた想いを、あらためて思い返すことができました。

だれにも知られることのない事実を表現する尊さを太宰治に教えてもらい、もう触れることのできないものたちへの感謝を伝えることをいまは亡きポメラニアンに教えてもらい、そうして先日、あたり前だと勘ちがいしてしまっていた日常の奇跡をあるライターさんに教えてもらいました。

猫目は、心からそのライターさんを尊敬しています。

正直にいってライターさんの書いた記事をこれほどのめりこんで読んだのははじめてかもしれません。自分がライターだというだけに、この事実に(この事実の発見には)かなり衝撃を受けました。

いったい自分はこれまでなにを書いてきたのだろう。その先にいる読者のことを考えることは大切なことにちがいない。けれど、それ以前に伝えたいことや訴えたいこと、問いかけたいことをしっかり文字にして届けていたのだろうか?

いわゆる読者が求めている情報ものばかりを気にかけ、追いかけ、発信してきたのではないか?

読者の悩みや抱えている課題を解決すること。それはもちろん大事なことなのだけれど、ときに課題をそのまま問いかけとして、つぎのだれかに伝えていくこともまた重要なのではないか。

そもそも、そこに答えなんてないのだし、「これが答えだ」といい切るよりも「自分はこう感じた」「自分だったらこうだ」といったふうに、限りなく広がる解答のうちのひとつの答えとして表現すること。そこにこそ価値があるのではないか。

そんなふうにWeb上の記事で考えさせらたのは今回がはじめてでした。自分の浅はかさに痛感しましたし、同時に情けないなとも思いました。

でも、だからこそ、ここから本当の意味で真剣に向きあい、すべての媒体に思いをこめてことばを綴っていきたいと決意することができました。

日常に転がっているあたり前を疑う。
問いかける。
疑問を残す。

書いて届けるためのツールは小説だけじゃない。Webの記事も含めてすべてに真剣に向きあっていく必要がある。書く、というのはそういうことだ。

このことが日常に溶けてしまわないよう、今日、ここに綴らせていただきました。本日もさいごまでお付き合いいただきありがとうございました。


さいごになりましたが、5月から7月にかけて猫目noteトップ画像に使わせていただきました「なな @ note と Kindleの応援団長」様と、そのすてきな作品に心からのありがとうをいわせてください。

あまりに好みの作品・・・1ヶ月だけお借りしようと思いつつ、なんやかんやで気がつけば2か月以上が経過していました。

その間、猫目の記事を「なな @ note と Kindleの応援団長」様のページにてご紹介いただけたこと、非常にうれしく思います。ほんとうにありがとうございました!


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