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結局のところ「幸せ」ってなんなの?

 「考えることは楽しい」との心の歓喜を声を大に、窓の外へ思い切り叫びたい衝動に駆られている猫目です。皆さま、こんにちは。

 今回のブログより、猫目の友人にお尋ねしました「今いちばん関心のあることは何ですか?」の質問より選定した「10のテーマ」を2022年現在の猫目がお答えします。


テーマを語る目的は・・・
①思考を高めるためでもあり
②友人のお役に少しでも立ちたいためでもあり
③二十代後半の自分の考えを記録するため
でもあります。皆さま。是非ともお立ち寄りくださいませ。

 記念すべき第一回目のテーマ『幸せとは何か』をくださった方は、元コンビニ店長などをしていた方です。現在はマッサージ師として活躍されており、野外キャンプなどが趣味と、なかなかの自然派な男性です。そんな彼はヘビースモーカーでした。が、なんと最近ではピタリと煙草を止めてしまったのですよね。これはすごい。お酒は相変わらずお好きなようで。お酒の弱い猫目は羨ましい限りです。すみません。本題とは無関係の情報でした。では、本題です。

結局のところ「幸せ」ってなんなの?

 皆さんも一度は考えたことがあると思います。「幸せ」についてです。とても難しい題材です。先に述べておきます。幸せを簡単に説明します!というふうなことはこの記事では一切申しません。

 皆さんご存知の通り、幸せというのは、そんなに簡単なものではありません。扱うのが難しい。しかし幸せを思考することには大きな意味があると思います。当然といえば当然です。人生の目的には「幸せ」になることが含まれており、自ら「いいや僕は不幸になりたくって仕方ないんだ」なんて人はかなり少数でしょうから。

 ここで一度、辞書にて「幸福」を調べさせてください。辞書にはこう記されています。

[名・形動]満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。「幸福を祈る」「幸福な人生」「幸福に暮らす」
                     (Weblio辞書より引用)

 不満がなく、たのしいこと……なるほど。今日も明日も明後日も。今年も来年も再来年も。一切の不平が生じず永遠に楽しい。そんなことがあれば確かに人間は幸せなのかもしれません。「慣れ」という感覚すら排除してしまえば向こう百年あなたの幸せは続くことでしょう。

 が、

 本当に幸せは続くのでしょうか? また、これらが満たされたら幸福だと、自信をもってそう言えるのでしょうか? わたしの幸せとあなたの幸せとは同じものなのでしょうか? 幸せの定義から外れたらそれは不幸なのでしょうか? はたして幸せは多数決で決まるものなのでしょうか?

 この記事はある種で問いかけです。

 なんの不満も不平もなければ幸せは感じます。しかしきっと一時的でしょう。今日の幸せが明日の幸せとは限らない。そういう気もします。反対に今日の不幸は一カ月後のあなたを幸せへと導いてくれるかもしれません。

 この記事は問いかけです。白状します。猫目はこの議題に向き合ったとき、はじめは幸せの答えを出そう。そう思っていました。

 しかし

 それは困難を極めています。誤解を恐れずに言うと、幸せの答えはどうしたって猫目一人で見出すことが出来ません。その理由はいたって簡潔です。極論を述べると、百人居たら百通りの幸せが存在すると猫目は思ったからです。しかしせっかく頂いたテーマです。ですので今日はとことん「幸せ」に向き合っていきたいと思います。幸せの解剖です。

 幸せとは何ですか。そういう問いかけに多くの人はこう答えます。

① 裕福

② 地位

③ 権威

④ 達成

 他にもあります。しかしこれら3つは特に代表的な例に過ぎません。典型的と言っても差し支えないでしょう。では、それらは本当に幸せと呼べるのでしょうか? 幸せを考えるとき、もっとも重要なのはその本質を探ることです。つまり幸せについて思考を深めて考えるということが本当の幸せを問う上で重要だと思うわけです。深めていきます!幸せを!(言ってしまった)

「幸せ」の数は無限 ー未知数ー

 突然ですが、幸せは、長い目で見たときの幸せと直感的な幸せが存在すると思います。たとえば猫目はポメラニアンと戯れている時は「何もかも失っても構わない!」と思うくらいの幸せを感じます。イルカなどの生き物と触れ合う時もそうですね。そこには動物との通じ合う力(共鳴)が作用しているのかもしれません。これが直感的な幸福です。その他にも・・・

・書いた小説に素直な感想をいただけたとき
・電車の中で若い人がおばあちゃんに席を譲っている場面に出くわしたとき
・散歩中にあたたかい風に吹かれているとき
・美味しいものを食べているとき

 などなど。あげればたくさんあります。これ以上猫目の幸せ談を聞くのは骨が折れると思いますので、このへんで止めておきます。しかし思い返してみただけでも以外と「幸せ」は日常に潜んでいるのものです。

 世界中が核兵器を放棄することや、災害が起こらないこと、生き物との共存や平和など、もちろんそういうことは大きな幸せに違いありません。しかし、まず抑えておきたいこと。それは人間というものは「自分本位」で思考が汲まれている生き物であるということ。だからこそ、さらりと出てくる直感的な「幸せ」というのは案外にも自分の周辺に多いのだと思います。

 そうなると「幸せ」とは人の数(意識)の分だけ存在することになります。始めに言わせてください。幸せに正解はないし、正解と思えることも他者からしたら不正解であったりします。なにが言いたいのか。それは。

 幸せというものは全人類にとって不確かなモノ、であるということです。テーマに『幸せとは何か?』ということを取りあげておいてその実で「幸せに答えは無い」と申しますと、あなたは気落ちするかもしれません。

 しかし「幸せに答えは無い」ということを念頭に置くことは、幸福の意義を深堀りするのに欠かせない要素となってきます。「幸せはこうだ!」「これこそが幸せだ!」そういう幸福の概念は案外にも他者にとって特に幸せとは程遠いものであったりします。さてさて。

――いま、あなたの思う幸せとは何ですか?

 他者から掲示された幸せが必ずしもあなた自身の幸せと合致しているとは限りません。今、この瞬間に、パッと口をついて出てくるもの。それがあなたの"身近"な幸せです。あなたの「今」をつくっている幸せです。

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小さな幸せに気がつくことが重要

 ここで、どこにでも書いてあるようなことを述べます。「小さな幸せは大きな幸せへと繋がる」です。つまり小さな幸せの積み重ねこそが、やがて人生に関わる大きな幸福に繋がるということですね。

 猫目もその通りだと思います。ですが一つだけ注意しておきたいことがあります。それは、小さな幸せに気づけていないと大きな幸せを逃してしまう可能性がある、ということです。意外にも現代にこういう現象は多い気がします。

 目の前の小さな幸せを無視してスケールの大きな幸せばかりを追求してしまう傾向にあるということです。日常で感じた幸せを知らんぷりして人生の、とりわけ、未来の幸福ばかりを考えてしまう。そういうことは無意識の中に多く存在していると思うのです。

 そういう小さな幸せに気づき、認め、噛みしめ、感謝しない限り、大きな幸せをつかむことは不可能に近いと思います。解剖と同じです。中身がわからないのにどうして大きな幸せに辿り着くことが出来るでしょうか?

 小さな幸せとは、あなただけの幸せの感覚です。それを知らないのに大きな幸せをつかむのは困難です。中身がわからないからです。そこにあなた自身の幸せのカタチが伴っていなければ、幸せと呼ぶことは難しい気がします。

達成することで幸せに近づく

 幸せは個々の中に存在するものであり、カタチのないもの。という憶測から次に「幸せに近づく」ということを試みてみたいと思います。

 とくに日常で幸せを感じられない方に。幸せに近づく最適な方法をお伝えします。幸せに近づく最適な方法・・・それは「物事における達成」です。物事の達成と幸福との関係は非常に深く関与している。なぜでしょう?

 それは物事の達成には必ず「実績」が伴うという事実に基づいているからです。当然のことですが、なにか一つの物事を達成する毎に実績がつきます。実績は積み上がると「自信」に変わります。自信がつくと物事に「前向き」になれます。「前向き」になることで小さな幸せに気がつきやすくなります

しかも

 ありがたいことに実績は数値化することが可能です。数字で表すことにより「幸せ」を手にとりやすく、しかもいつでも目で確認することができるようになります。これまで目に見えなかった幸せを確認できる。これはすばらしいことです。

 常に幸せを意識することで、より自身の幸せを解剖していくことができるのです。次いで、前向きな気持ちというものは常に上を向いているものです。気持ちが上を向いている。ポジティブですね。そういうときは幸せを感じやすい状態にあります。

 自身の幸せを知るために。また、幸せを感じるために。一つ一つの物事で実績を積んで幸せを数値化する、という方法は幸せへ近づくために効果的といえます。ここでいう実績は何も大きな事柄でなくていいのです。

 たとえば「朝早く起きる」とか「今日は本をこれだけ読む」とか「明日は元気にあいさつする」とか。そういうことで構わないのです。どのようなことを達成しようと実績は必ずついてきますので。肝心なのは自分で決めて、やり遂げる。それだけです。

精神と肉体を一体化で考える

 ここでふと疑問に思ったことがあります。それは「精神だけで幸福になることはあり得るのか?」という問題です。肉体の伴わない幸せ……少し難しいですね。精神のみの幸福というのは長続きしない。それが猫目の答えです。もちろん心の動きは肝心です。

 とくに心が幸福に満たされているときは「体を動かす必要性」をあまり感じられません。一時だけで考えると、精神のみに宿る幸福感で十分に「幸せである」といえるでしょう。

 あらゆる病気でもそうですが、心が満たされるには体も同じように満たされている状態が求められるように思います。心と体は常に一体化している。こういうことを訴える科学雑誌は多くあります。精神学の方面でも「心と体」の重なり合いについて物語られている通り、長い目で見た幸福には体が心に寄り添うことは必要不可欠なのだと思います。

 残念ながら、猫目は科学者でも研究者でも何でもありません。ですが実体験として運動のもつ効力は常に感じています。体を動かすだけで自然と気持ちが穏やかになること、ありませんか? 頭がぼんやりしているときに外へ散歩へ出かけると頭が冴えますよね。それと同じです。運動は幸せを引き寄せる科学的な方法なのです。

幸せとは常にカタチを変えるもの

 もうひとつ。疑問なことがあります。「はたして不変の幸福がこの世の中にあるのか」という問いです。猫目の答えは「NO」です。以下に幸福が不変でないことの具体的な例を1つあげさせてください。

      ▢

 「お金持ちになる」「起業をして成功したい」という願望をもった方のおお話です。これは実際に猫目の知人の例ですが、彼は高校生の頃からこういう強い願望を抱いておりました。

彼は「俺はぜったいに資本家になる」と力んでいました。そんな彼は当時は節約名人とのあだ名を持つほどに、本当にあらゆるものを節約し、生活の工夫を凝らしていました。

 猫目は彼と一緒に居るとき、いつも何か未知の体験を感じていましたし、わくわくしていました。それは彼の編み出す金銭への節約方法に深く関連していると思われます。そんな彼当人もまんざらでもない様子でした。

 ことに彼はバス代を節約するために購入した自転車を乗り回し、誰も知らないような小路を発見したりと、本当にいろいろな試行を行っていました。そういう中に生まれた感覚はひとえに「冒険心」や「探求心」に似たものが含まれていたような気がします。

 十年経った現在彼は、当時の夢を叶えて資本家になりました。すごいですね。「資本家はとくべつな人しかなれない訳じゃない」「むしろ誰でもなれる」これは彼の見解ですが、猫目もそのように思います。

 さて。或る起業に成功した彼に、猫目は数年ぶりに再会を果たしました。久しぶりに会った彼の印象をここで正直に述べます。

 なんか、つまらなそう。それに尽きます。

 こういうことを書いてしまうと彼にあとで怒られるかもしれませんが。この際正直に申します。彼は年齢の割に老けて見えた他にも、何かその微笑みなどがどうも疲れて見えました。それでも彼の指に嵌まっている指環はきらきら輝いていますし、耳につけたピアスも聞けばブランド品。革のカバンはイタリア製(たしかイタリアと言っていたはず)の見るからに高級そうなもので身の回りを固めていました。なるほど。彼は念願の「お金持ち」になったわけです。

 そういう彼の話は、従業員のことや経営のことで溢れていました。無論そういう話を聞くのは猫目にとって楽しく、聞いていて退屈ということは一切ありませんでした。が、(何度も言いますが)やはりどこか理屈っぽく、つまらなそう・・・な印象は拭えません。そこで猫目は思い切って、昔の話を持ちかけてみることにしました。

「ねえ覚えてる?高校生のとき・・・」

 こういう猫目の言葉に彼は初め、唇の端をすこし引きつけました。

「・・・私に200円のお弁当売ってるところ教えてくれたでしょう? ほら、あのナントカ商店だよ。売れ残りの弁当がある」

 半ば強引に話を推し進めるうちに、彼の表情は曇るどころか、急に晴れてきます。ピーカン照りです。そうそう。こういう感覚でした。当時の彼に猫目の抱いた印象はまさしくこういう「沖縄の晴れ」的な彼の笑みでした。

 そういう彼はその後なにかすっきりとした感じで饒舌に語り始めました。それは経営のことでなく、彼の中に眠っていたと思われる彼の「理想」でした。それから「本音」とでもいいましょうか。彼は唐突に言います。

「いやまあ。俺は正直あの頃がいちばん楽しかったわ。たぶん」
「それはそうだよ。高校生だもん。何も考えることなかったな」
「そうか? 俺は今の方が何も考えてないけど」
「そんなこと無いでしょう。だってさっきも難しい話たくさんしてたし」
「なんだろうな。なんかこう、心に迫力がないんだよ」
「はく?迫力? ひっ迫でなくて?」
「あはっ(もしくは、ぶはっ)! そうそうそんな感じ」

 彼と待ち合わせたのは横浜のレストランでした。
  たしかビルの上の上の上の方に位置する、あらゆる意味で高いレストランでした。フレンチだかイタリアンだか。料理に疎い猫目はそういう高級の名目のつくレストランになかなか行く機会がないのでよく覚えていませんが、運ばれてくる丁重な料理が美味しかったことは間違いありません。

 彼はぴしっと決めたスーツのネクタイを片手にゆるめると、「このあと居酒屋行かない?」と口にします。もちろん猫目は小説の創作がひと段落していたのを良いことに「いいね」と賛成します。目の前の彼はさっそく金色のカードで支払いを済ませると(ご馳走さまでした)、そそくさと立ち上がります。ほんと、上機嫌に笑ってばかり。

「いい店あるんだ。安くてうまいの」

 そういう彼に案内してもらった居酒屋は、一件目のレストランの面影とかけ離れた、いたってシンプルな、定食屋のような個人で経営している居酒屋さんでした。ハイボールを片手に頬を紅潮させた彼に問いかけます。

「ねえ、いま楽しい?」
 彼は歯痒そうに微笑むと、
「どうかな。やっぱ前の方が楽しいかもな」
 結婚指輪をやたら凝視しながら猫目は聞きます。
「でも幸せ、でしょう?」
「まあ。だいだい」
「今の夢は?」
「ユメ!?(ここで彼の細い目が精一杯見開かれました)
 それから続けて、
「ユメって……そんなの……ねえ。難しいねえ」
 少しの沈黙のあとに彼は、ハイボールのおかわりを口頭で注文し、
「まあ時間は欲しいかな」
「それ夢なの?」
「うん。けっこうユメ」

 そうなんです。彼はお金よりも時間を求めていたのです。以前は、お金を求めていた彼が、今では「時間」を欲しがります。経営者の方に多いですが彼らはあまりに忙しいため「時間」を求める傾向にあるようです。時間。それはお金と違って自然の中の住人です。お金を貯めることはできますが、時間を貯める……ことは難しいでしょう。

「ああ待って。俺あれだわ。海外旅行とか行きたいわ。海とかでのんびりしたい。ぐわ~って」
 パイプ椅子のような簡易的な椅子に背を反らせ、彼は両手を挙げます。
「海、いいよね。海でのんびり、ぐわーって……ごろーんの間違え?」
「そんなのできたら幸せだねえ」
「でもよくやってたじゃん。どこだっけ。あの江の島に近い砂浜で、ごろーんって。猫みたいに伸びてたじゃん」
「あ?そうだっけ?」 

 店内は雑多な人であふれていました。老若男女。スーツ姿の若者から若いカップルから爪楊枝で歯間をいじるおじいちゃんたち。いろいろな人が居ます。いろいろな人が、それぞれの幸せをもっている。その中にはきっと前の席の彼を羨ましがる人も居るでしょう。お金持ちになりたい……と。

      ▢

 10年前、友人の彼が求めていた幸福は「お金持ちになる」ことでした。そうして今日の彼の求める幸福は「時間の隙間」でした。幸せはいつも同じカタチであるわけではありません。幸せは常に不変の存在です。

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幸せの敵は〇〇

 最後に幸せの敵というタイトルで少しだけ。あらゆるモノに敵が存在することに紐づけて幸せの敵を考えてみたくなりました。幸せの敵。それは不幸、ではありません。幸せの敵は「慣れ」です。

 幸せでなく他のものに「慣れ」というものは強敵に振舞います。猫目自身この「慣れ」に何度も恐怖を煽られました。いや、実際に慣れとは怖いものです。当たり前や当然となってしまう。慣れの油断。慣れの感覚。

 「ありがとう」という気持ちはこういう「慣れ」の中にはいずれ薄れていきます。しかも恐ろしいことに知らずのうちに。

「ご飯をつくってくれてありがとう」「洗濯をしてくれてありがとう」「朝早く仕事に出かけ、家族のためにお金を稼いで来てくれてありがとう」それから「話を聞いてくれてありがとう」「話してくれてありがとう」「一緒に居てくれてありがとう…」……これ、すべて慣れによって薄れていく感情たちです。

 こういう「慣れ」の中にいつか幸福も溺れていきます。沈んでいきます。今日の幸せを忘れないように記憶しておく。これはかなり大事なことだと思います。猫目は記憶の手段として日記を使います。読み返せばいつでも「幸せ」を取り戻せるからです。「ありがとう」を感じることができます。

結論

 ようやく結論に辿り着きました。ここまで読んでくださった皆さま。貴重で限りあるお時間を、本当にありがとうございました。

一 幸福の概念は人それぞれであり、ひとつきりでない
二 日常の些細な幸せに気がつくことが大切
三 長く続く本質的な幸福には精神の他に「肉体」も関与している
四 幸せは常にカタチを変えるものである
五 幸せの大敵は「慣れ」

テーマである「幸せ」を理解するためには常に多方面から「幸せ」について掘り下げることが必要である。そして幸福はそういう努力を無くして簡単に手に入るものではない。それでも「幸せ」はいつでもあなたの隣についてきている。結局のところ幸せとは、他の誰でもない、あなたにしか感じることの出来ない感覚の結晶である。幸せを言語化するのも説明するのも、あなたにしかできない特殊なものだ。それはカタチを要さないだけに難しいが、そういう幸せは、誰の胸にも眠り、秘められている。

 以上で本テーマを終わりとします。最後に・・・最後までお読みいただき本当にありがとうございました。ありがとうございます。

                           2020 04 22


イギリスのことわざ

『 一日だけ仕合せでいたいと思ったら、床屋に行くがいい。
  一週間だけ幸福でいたいと思ったら、結婚するがいい。
  一カ月だけ幸福でいたいと思ったら、新しい馬を買え。
  一年だけ幸福に暮らしたいと思ったら、新しい家を建てろ。
  一生涯、仕合せでいたいと思ったら、正直な人間であること。 』







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