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「君は僕より先に死んじゃダメです。」

ジョアオ・マリオ・グリロ監督『アジアの瞳』を見ていました。あちこち探し回ってやっと見つけたDVDなのです。
天正遣欧少年使節であり、後に禁教令下の長崎で殉教した中浦ジュリアンの物語をベーシックに、現代の長崎を訪れたEU文化官の女性の目を通して見た、キリスト教弾圧という加害とその後の原爆被害。そのようにして不寛容を繰り返すこの世界。原爆という悲惨な出来事そのものを忘れたかのような日本の変容ぶりが忘却なのか許しなのか。そんな問いかけを描いた映画でした。


見ているうちに、ふと、ずっと忘れていた事を思い出しました。なぜ記憶が蘇ったのか分かりませんが、それはこんな出来事でした──

ある日の深夜、携帯電話が鳴りました。友人Mからでした。電話に出てみると彼はしたたかに酔っていて、

「友だちが自殺した。」

と言ったのです。親友だと思っていたのに、僕には何も言わずに死んでしまった、と。

どう声をかけたらいいか分かりませんでした。どんな言葉も、今のMには陳腐に響くような気がして、ただ、うん、うんと彼の話を聞いていました。

酔ったMは饒舌でした。
「君は僕より先に死んじゃダメです。僕が死ぬ時に君が生きていたら、死ぬ直前に君は “永遠” になる。」

しばらく話をしていたら気持ちが落ち着いたようで、Mは電話を切りました。

彼の “永遠” に対して自分がどう返事をしたのか、私は全く覚えていません。

数ヶ月後、彼に会いました。電話の時とはうって変わって、とても元気で楽しそうだったので、私から死んだ友人のことを聞きはしませんでした。話したければ、話してくれるのだろう、と思ったから。

少し経って、もう一人の友人であるYさんが到着しました。するとMが私に向かって話し始めました。

「この前、友だちが自殺しちゃったんだけどさ、」

……?

そうなのです。彼はあの夜、酒に酔って私に電話した事を、どうやら全く覚えていないらしかったのです。

呆気にとられて言葉が出てこないでいると、
「ショックで、Yに電話したんだよね。よく覚えないんだけど留守電で、何かメッセージ入れたんだけど酔っ払ってたから話が変だったみたいで。しばらくしてYから電話がきて、僕は電話したのもよく分かってないから、普通にもしもしって出たら、Yは僕が死のうとしてると勘違いしてて、もしもしって出たら突然 “ Mさん、死なないで~!” 笑笑 ありがたいよね友だちって 笑」

……ありがたいね~友だちって。と私は返事をしました。そして “永遠” の話は、私の胸にしまってしまいました。


改めて思い返してみると、人との交わり合いは本当に不思議です。友人が死に、ショックで電話したという全く同じ事象から、その時、Yさんと私それぞれの反応が全く違っていたために、そこで紡がれた言葉も、それぞれの記憶も、それが後に誰かと共有されるかどうかという事も、全く違うものになっていくのですから。

このようにして、私は私特有の情動と言動とで、誰かとの出来事を作り上げてきていて、そしてそこからまた反応した、同じ傾向の情動と言動とを繰り返して、そうしてそれらが積み重なって、私の人生というものが、大袈裟に言うと運命というものが出来上がってしまうです。自分の反応で、そのように作り上げているのです。

おおらかに素直にMに反応したYさんに比べると、たぶん私はどちらかと言うと、自分の情動反応が、良くも悪くも言葉に拠らないものであるようです。それは言葉によって誤解されたくないから。
どう言葉にしてもお互いの芯の部分を伝えきれないのが悲しいし、それがいつしかすれ違いになっていくのが怖いから。
でも言葉が無ければ寂しい。
やがて私の人生の経験は、そういう傾向に集まって作り上げられてきたはずです。

これで良かったのか悪かったのか。どちらとも言えるでしょうけれど、でも、Mが言った “永遠” が何なのかという事も、この映画で中浦ジュリアンが言う “愛” というものも、この国と彼の国が時代に刻んできた出来事が寛容か不寛容かという事も、そこに許しがあるのかという疑問も、やはり言葉では伝えきれないものなのではないでしょうか。

それでも私たちは言葉によって、その伝えきれないものの入口まで、辿り着くことができるのかもしれません。

見ていた映画と私の記憶にどんな共通項があったのでしょうか。

なかったとしても、

激しいカメラワークも、大仰に盛り上げる音楽もない、この本編90分のフィルム映画の静かな余白が、忘却していた過去を思い出すチャンスを、私にもたらしたのかもしれません。

『アジアの瞳』あらすじ(映画ナタリー)
『アジアの瞳』ダイジェスト(YouTube)

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