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映画『ALL ABOUT MY MOTHER』と聖母礼賛と、イエス最初の奇跡「カナの婚宴」。

DVDを古本屋に売ろうと整理していたら、買ったままだった『ALL ABOUT MY MOTHER』が、陰から出てきた。「すべての女性に捧げられた映画」と世界的にヒットしたアルモドバル監督の代表作。ずいぶん前、20代前半の頃に見たっきりで、当時の感想は、

「みんな仲良すぎてあり得ない。ラストが “ 奇跡のめでたしめでたし” で全然つまんない。」

見直してみたら印象が変わっているかも、と思い立って、アマプラよりも激安だった中古DVDを買ったものの、どうしても見る気にならずほったらかしていた。

こうして手に取ったからには見てみるか、と見てみた。

……こんな映画だったっけ。
また見てもやはり感動はしなかったけど、記憶と違っている部分も多くて、何年も頑なに「つまらない」で済ませていたことを反省した。お前、『イヴのすべて (オール・アバウト・イヴ) 』も『欲望という名の列車』も知らずに、よくもぬけぬけと。当時の自分にそう言ってやりたい 笑。

と同時に、ハタチそこそこだった私が何故「つまらない」と思ったのか、よく分かってしまった。私はシスター・ロサに全く共感しなかった。そしてシスター・ロサを全面的に受け入れたマヌエラにも、共感しなかった。でも……そこなんだろう、ハタチの私よ。そこだったんじゃないのか?

無意識に感情を閉じてしまったために、つまらないと感じたんじゃないのか。そうしなければならない程に、心に蓋をしていたものが、当時あったんじゃないのか。

まるで子どものように幼く無邪気にさえ見えるシスター・ロサは、実はマヌエラが「あばずれ!」と呼ぶような相手と関係していて、しかも出会って間もない職探し中のマヌエラをこんなにも頼りにする。身勝手ではないか。
そんなシスター・ロサを、何故マヌエラはこんなにも献身的に受け入れる事ができるのか。

女として自立していく事と、誰かを頼る事は両立しない。当時私はそう思っていた。これはひょっとしたら私の年代あるあるなのかもしれないが、誰かに頼っていたくて仕方ない時でもあるのに、できない。そうなふうに完全にバランスが崩れたまま強がっていて。だから、マヌエラに頼りきりでも毅然として意思表明するシスター・ロサが、どうにも許せなかった。

今あらためて見てみても、やはり友情と呼ぶには親密過ぎる関係性だなと不気味ささえ感じるが、たぶんこれは監督のねらいかなと思う。何故なら、この映画全体にカトリックの色を強く感じるから。

この映画は「男性がほとんど出てこない 」「女性讃歌」などと言われるけれど、私はそれより、子どもの誕生を巡って、もう、あたかも男性不在のままに、子を創造し生み出してしまうかのような勢いが巡っていて。それは例えば、聖母マリアが処女のうちにイエスを受胎したという事が、宗教や神話として受け入れた時の畏怖と、しかし、現実的に人間にこれが起きるとした場合の不気味さ。アルモドバル作品に漂う奇妙さは、登場人物のセクシャリティ設定の複雑さよりも、カトリック文化圏の人たちが無意識に体に馴染ませている信仰や誇りと、裏腹な現実感との狭間……。どうもそういう部分に触れるような生々しさがある。そのある種の不気味さの部分に関われていない男性の、それ故の憧憬や畏怖と、不気味さ故にのめり込む女性の抱える重圧と歓び。久しぶりにこの作品を見て、そんな構図を思い描いてみた。

もう一つ思った事がある。
ラスト近くで、父親にシスター・ロサの息子エステバンを抱かせるシーンがある。その時マヌエラが、事故死した自分の息子エステバンの写真を見せる。その息子の目の部分だけが大写しになり、それが意外なほど厳しい視線でこちらに迫ってくる。まるでイエスのイコンのように。

ふと、ヨハネ福音書「カナの婚宴」が頭をよぎった。

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
ぶどう酒が足りなくなったので、 母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 イエスは母に言われた。 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、 世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、 酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 『聖書 新共同訳 ヨハネによる福音書』
2章1-11節
(日本聖書協会)


婚礼で葡萄酒が切れるのは主人にとっては窮地。仕えていた母マリアは息子イエスに何とかしてほしいと思ったのだが、イエスは母に対して「婦人よ、」とまるで他人のような口調でたしなめる。奇跡とは、母のために、というような関係性のもとで行われるものではなく、それが必要ならば、創造主の意思により起こるのであると諭したのだろうか。そしてこの結末は、母の熱意がイエスに奇跡を起こさせたと解説されることもあるけれど、そうだろうか。イエスの言葉にマリアは特に応えず、召使いに「この人に従うように」とだけ言っている。つまり、イエスに賛同し、創造主のご意思があるならば何かが起こされるのであり、それが自分たちが望む結果でなくても何であれ (水が葡萄酒になるのであっても、婚宴が台無しになるのであっても) 従うように、ということではないか。そうであるなら、この時イエスとマリアは、母と子として互いを見てはいない。血縁による関係性を超えて、創造主の起こす事柄を見届ける者同士として対等なのだ。
母と子という視点を乗り越えて人間同士が互いを見合う時、誰から生まれたか、それ故に誰が育てるのか、という事は無意味になる。起こる事はすべて起こされる事なのであり、存在のすべては起こされて存在していて、私たちは皆、母から生まれたという事実以前に、創造主の意思により創造され起こされた「奇跡」として存在している。

何の話をしているのかどんどん分からなくなってくるのだけど……

長々書いておいて何なんだけども、
こういう事は、もしかしたら無意識のうちに感じ取ったり味わったりするもので、こんなふうにいちいち言葉にするのは、とても野暮な事なのかもしれない、などと思いつつ。

映画に登場する男性名エステバンは、聖人名で言えば「ステファノ」になるだろうか。
聖人ステファノは、キリスト教で一人目の殉教者。

『ALL ABOUT MY MOTHER』劇場予告


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