【掌編小説】 地下室の手記

相変わらず電波は繋がらない様子です。
やはりここは地下室なのでしょう。
私は何故このような場所に連れてこられたのでしょうか。
私の何を、先生は調べようとなさっておられるのですか。
先生の論文を読み感銘を受け、その後漸く先生の身のまわりのお世話をさせていただく事になり、私にとって大変僥倖な日々が始まるとばかり思っておりましたのに……。
勿論、先生の研究論文のお手伝いができるのは大変光栄な事なんです。
先生のお役に立てる事が、私の何よりの幸福なのですから。
しかしここはどうしても……嫌、なのです。
薄気味悪いと申しますか、悪寒が走ると申しますか。
嫌な空気がべったりと張りついて、まるで私の身体を鎖で拘束するように、この椅子に縛りつけるのです。
今、この手記を書いているのは私なのか、私を操る何者なのかも、実はよくわかっておりません。
何と滑稽な事を私はしているのでしょう。
しかし、私の愚行はまだマシなのかもしれません。
先ほどから、地下室のなかがどうも騒がしいと思っていたら、またでございます。
はい、例に倣って視えております、聴こえております。
ここには無数のスクリーンが、張り巡らされているんでしょうか。
何とも奇妙キテレツな映像が先ほどから際限なく再生を繰り返しておるのです。
まるで古いフィルム映画のように、時に途切れ途切れになりながら、上映されております。
そのすべての人物の顔が、何と……。
先生、私はきっと狂ってしまったのです。
きっともうまともな人間ではないのです。
はい、そうです。
すべて私の顔なんでございます。
顔も声もぜんぶがわたしなんです。
先生、私の精神は崩壊してしまったのですね。
だからこのような場所に連れて来られた。
先生、教えてください。
私の精神を破壊したのは、あなたなのでしょうか。
これが先生が私に望まれた狂気なのでしょうか。
それとも、まだこれでは足りないのでございましょうか。
いや、実に滑稽極まりないですわ。
先生が望まれた世界に私は今いるのですわね。
それでしたら、ここはもはや天国、極楽浄土でございます。
幻覚も幻聴も、天使の囁きの優しさでございます。
先生の愛を感じずにはいられません。
私は今、先生の欲に愛撫され蹂躙され慈しみを受けているのですわね。
あぁ、そう考えたら、すべてが愛おしく思えてなりませんわ。

白壁が真っ黒になるほど難解な数式を書きなぐる数学論者も。
下手な自画像を描いては破り描いては破りしている画家も。
月にロザリオを翳しながら、神に許しを乞うように難解な呪文を唱え続けている信教徒も。
お茶を出しては下げるを繰り返す着物姿の淑女も。
赤子を抱いて子守唄を歌っている母親、と覚しき女性。

しかし、この女だけはどうしても嫌でございます。
机に座り林檎を噛りながら、さっきから私が記す手記を覗き込んでは、不敵な笑みを浮かべるこの女。

ノートを捲る手が止まらないのです。
筆を動かす手も同じでございます。

もう私の意思は、ここには存在していないのでございましょう。

きっと助けは来ない。
助けは必要ないわ。
助けてください。
助けなんて必要ないわ。
先生、助けてくださいませ。

助けなんて来ない、わよ。
そうでしょ、先生……

                                                            ─ 了 ─

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