【短編】 雪柳のひと

先生行きつけの喫茶店で、僕は先生の取材をしていた。
最新刊の『清廉潔白』についてインタビューしていた時の先生の思わぬ告白に、僕は愕然としてしまった。
「あんなの全部嘘っぱちですわ」
先生はあっけらかんと仰った。
「この世に清廉潔白な人間なんて、いるわけございませんもの」
清廉潔白、品行方正の女性を描いたら、まさにこんな感じであろう先生は、そう言ってから口元に綺麗な指を添えて上品に笑った。
「人間なんて、多かれ少なかれ私欲にまみれたイキモノだわ」
「先生もですか?」
「もちろんよ。例外はないわ」
柔らかい皺を目尻に寄せながら、花のように微笑むこの婦人は、まさに大和撫子の鑑と呼ばれた著名な女流作家である。
先生の描く主人公は、先生同様にみな気品高く淑やかな女性である。嵐のなかでも折れる事なく凛と咲きゆく花のような芯の強さも兼ね備えている。
先生の小説の読者には、そんな主人公や登場人物に憧れている女性読者が多い。
「私も読者の皆さんと一緒よ」
「え?」
「すべては、私がこうありたいと願って描いた夢物語なの」
「僕はてっきり先生自身をモデルに描かれているとばかり」
「あら。それは嬉しい。少なからず君には、私が憧れている女性に見えてるわけね」
「実際、先生は僕の憧れですから」
「あら。ありがとう」
僕は先生の笑顔に釘付けになる。
なんて上品に微笑うんだろう。
自分の母親でもおかしくない年齢の女性なのだが、それを感じさせない魅力を醸し出している。
これが大人の女性の色香、いや艶というものなのか。
決して下品な厭らしさはなく、嫌みもない。
とてもたおやかで優しい。
「私はどちらかというと……そうね」
先生が小首を傾げながら考え込む。
「未練がましくて、嫉妬深い、愛人て感じかしらね」
「……えっ!?」
僕は驚きのあまり大きな声をあげてしまった。
「ごめんなさいね。完全に淑女のイメージを壊しちゃったわね」
「……い、いえ。大丈夫です」
動揺を隠せないで水を溢してしまった僕に、先生はハンカチを取り出した。
「大丈夫? これで拭いて」
いえ、大丈夫ですと先生に会釈して、僕は濡れた口元を紙ナプキンで拭った。
「これ、さしあげるわ」
先生はハンカチを僕の手に握らせて、ニッコリと微笑む。
「貴方にもらって欲しいの」
「えっ、でも」
「君もおっちょこちょいみたいだから、ハンカチぐらいあった方がいいわ。さっきみたいな事もあるから」
ありがとうございますとお礼を言ってから、僕はハンカチを受け取った。
それを見届けて、先生は何故か安堵したような表情をしていた。
そしてクスリと笑った。
「ほんと、似てるわ」
「え?」
「ううん。何でもないの」
「は、はぁ」
「昔の恋人にも、いたのよ。さっきの君みたいに、飲み物を溢して、よく私がハンカチを貸してあげてた」
先生はまたクスリと笑う。
「懐かしいわね」
遠い目をして、先生が窓の外を眺める。
「どうかしましたか?」
「いえ。ただちょっと追憶の恋に想いを、ね」
「そのハンカチのひとですか?」
「ハンカチのひと……確かに、そうね」
そう呟いて、また少し笑う。
「どんな恋だったんですか?」
僕がそう尋ねると、先生は何とも言えず憂いを帯びた表情で、また窓の外を眺めた。
窓の外には、雪柳の花が咲き誇っている。
「綺麗ですね。雪柳」
「……えぇ。あのひとも、ここから眺めるこの雪柳が大好きだったわ」
「この場所って」
「えぇ。私が最も愛した人との想い出の場所なの」
「そうだったんですか」
「雪柳って、春に咲く雪だわよね」
先生が徐に仰った。
「春に咲く雪って、やっぱり未練がましく感じるのかしらね」
僕は思ったまま正直に応えた。
「そんな事ないです。むしろ、僕は逆に潔く感じます」
「そう、かしらね」
「はい」
「そうね。どんな姿でいつ咲こうと、その花の自由だわよね」
「はい」
「雪柳は潔い、か」
「僕はそう思います」
「……そうね」
「……」
「きっと、そうだわね」
先生はまた遠い目をする。
そしてゆっくりと語り始めた。
「あの『清廉潔白』は、私の謂わば……懺悔なのよ」
僕は先生の突然の告白に驚いて、また水を溢しそうになった。
「その、ハンカチのひとにはね」
「あぁ。はい」
「奥さんと子どもさんがいたのよ」
「……あぁ。そういう事ですか」
「そう。そういう事、なの」
さきほどの愛人というのは、ただの例え話ではなかったようだ。
実際に、先生自身がそのハンカチのひとの愛人だったのだ。
「今思い返しても、あれほどに無我夢中で愛したひとは、他にはいないわ。恋は盲目とはよく言うけれど。本当にあのひと以外、何も見えなく感じなくなってたわね。どこか感覚が麻痺しておかしくなってたんだわ。だから、あんな愚行を恥ずかしげもなく……」
先生は自嘲するかのように口角をあげた。
「控えめにいっても、愛に狂ってたわね」
「……」
「本当に、恥ずかしいわ」
「……」
「愛想つかされても、当然だわね」
先生が痛い笑みをこちらに向ける。
僕は胸が苦しくなった。
「結局あのひとは……」
そこまで話して、先生は紅茶を啜って溜め息をついた。
「この雪柳には、あのひとの家族への未練が何となく映って見えてた。あのひとが雪柳に微笑むたびに、胸がちくりちくりと痛んだわ」
そういう、事だったのか。
「そして、私のあのひとへの未練も……きっと」
「……先生」
「雪柳には気の毒な話よね。そんなつもりで咲いてるんじゃないでしょうに。本当に、人間の身勝手で申し訳ない」
「……」
「咲きたいから咲いてるだけなのに、ね」
そう言って、申し訳なさそうに先生は雪柳を見つめた。
「そのハンカチのひととは……その後」
僕はおそるおそる尋ねた。
「実は、最近偶然再会したの」
「そうなんですか」
「えぇ。この喫茶店でね」
「あぁ。そう、なんですね」
「介護老人ホームのスタッフの方が私のファンらしくて、私に気づいて挨拶されたのよ。その時に彼女が押してる車椅子に」
「……」
「彼が座ってたの」
「……そう、だったんですか。老人ホームか」
「えぇ。もうすっかり老け込んでて……。でもすぐにわかった。あのひとだって」
そして、先生の表情がまた翳る。
「彼……認知症でね」
新たな悲しみを帯びていく。
「もう、何にも覚えてなかったわ」
先生の悲痛が僕にも伝わってきて、胸が苦しくなる。
「それは、つらいですね」
「そうね。つらいというか、悲しかったわね。でも、もっと悲しかったのは、雪柳を覚えてた事だわね」
「雪柳って」
「そう。彼はこの喫茶店の雪柳を覚えてたのよ」
「そう、なんですか」
「私の事は忘れてたのに……本当に、酷いひとだわ」
「でも、先生といつも一緒に眺めていたんだから、先生との想い出に」
そこまで言った時、先生が唇を噛みしめながら首を横に振った。
「あのひとが最後まで愛してたのは奥さんよ」
「……」
「違うわね。今でもあのひとは奥さんの事を」
「先生……」
「敵わないわね。やっぱり」
先生は瞼を指で拭った。
僕はさきほど先生からいただいたハンカチを手渡した。
「ありがとう」
先生は美しい。
本当に、かなしいほどに美しい。
雪柳の切なげに咲く姿に、先生が重なる。

「先生、ご無沙汰してます!」
空気を一変させるような元気な声が響いた。
「あら。そういえば、今日でしたわね」
「はい。どうしても、奥さんの月命日だけは忘れられないみたいですね」
僕は先生の顔を見た。
先生は平静を装いながら、介護スタッフの彼女と話している。
僕の視線の先に、雪柳を眺めている老人がひとり。
このひとが、ハンカチのひと。
先生が最も愛した男性。
そして、先生だけを忘れてしまった残酷な男。
僕は複雑な表情で老人を見つめた。
介護スタッフの彼女は老人のそばで一緒に雪柳を眺めている。
「綺麗ですね」
なんて、呑気な言葉を呟きながら。
「これも私の未練なのよ」
先生が切なげに雪柳を眺める。
「例え忘れられてても、愛されていなくても」
「……」
「寄り添って、いたいのよ」

ふたりが別々の想いで見つめる雪柳。
複雑な空間を春が撫でてゆく。
近いのに、遠い。
遠いけど、近い。

先生も
雪柳も
悲しいほどに、美しい。


ー完ー
























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