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赤ん坊の娘が発見したもの【エッセイ】

生後5カ月の娘が、急にワガママになってきました。
気に入らないことがあると、すぐに泣く。とにかく泣く。
おしゃぶりがうまく口に入らない。それだけで朝六時から絶叫です。

赤ん坊は泣くのが仕事。そうです。
でも、あやすのは親の仕事なのです。

抱っこの時間が増えて、ちょっと筋肉がついたのは嬉しいのですが、それよりも背中と腰へのダメージが蓄積されているようです。
朝起きた時点で、背骨に沿ったエリアがもう痛い。

ぼくはどうも無理な体の使い方をする癖があるみたいで、気が付くとずっと中腰の状態でおむつを変えたり、お風呂に入れたりしています。
大阪出身の奥さんに「そんなんやってたら、腰いわすで!」といつも怒られます。
ネイティブな関西弁のニュアンスが分からないので、ぼくはこれを「奥歯ガタガタいわせたろかい!」と同じニュアンスで受け取っていて、ちょっと怖いです。

こんな風に書くと、ああ、子育てに疲れているのね、と思われそうですが、娘は可愛いし、どっちかっていうと面白がっています。

ワガママになってきたというのも、実は嬉しいことなんです。

当然ですが赤ん坊はしゃべれません。
だから何か嫌なことがあっても、ただ泣くことでしか意志を表現できません。
つい先日までは、お腹が減ったり、暑かったり、眠かったりする時に泣いているだけでした。つまり起きている不快な状況に反応しているだけでした。
ですが、今は手に持っているおしゃぶりが口に入らないといって泣きます。
いつもチュパチュパ吸っているお気に入りのおしゃぶり。
口に入れたいし、絶対に入るはず、なのに入らない。

おしゃぶりを口に入れたいという、娘自身の欲求がまずあって、それが叶えられない、こんなはずじゃないという、欲求と現実のギャップで泣いている。
これは人間の底辺部分を形づくる成長だなぁと感じます。
というか、そうであって欲しい。だってこんなに泣いているし、あやしているのだから。

ぼくは自宅で仕事をしているので、一般のお父さんたちに比べると、子どもと一緒にいる時間がかなり長いと思います。
これは本当に幸せなことです。
それに毎日見ていると、子どものささいな変化の瞬間を目撃する確率が高くなります。

ちょっと前の話ですが、こんなことがありました。
娘がまだ生後2ヶ月の時のことです。
ようやっと自分の手をおしゃぶりできるようになった頃でした。
この時期はまだ、ざっくり「手」という感覚はあっても、一本一本の「指」という感覚はないそうです。なので、娘は手をグーにしたその拳をまるごと口に放り込んでしゃぶっていました。
自分の体の形さえも分かっていない。赤ん坊というのはそれくらい曖昧な世界を生きているんですね。

ある時、いつものように拳をしゃぶろうとして上げた手が、わずかに間違った位置に着地しました。
その瞬間、娘がハッと目を大きく開きます。

ここに、何かある! 出っ張った何かがある!

そう気がついた娘は、何度も何度もその口の上のほうにある不思議な出っ張りを触っていました。
そうです。ぼくは娘が〈鼻を発見した〉瞬間を目撃することができたのです。
急いで奥さんを呼んで、二人でにやにや笑いながら娘の様子を眺めていました。なんとも意地の悪い両親なのです。
娘は赤くなるまで、その不思議な出っ張り、鼻を触っていました。


ぼくも奥さんも、自分の娘だけではなく、他の赤ちゃんにもよく目がいくようになりました。
街中で見ても、テレビやネットで見ても、ああ、この子は何ヶ月くらいだなとか、もう首が座っているなとかウォッチしてしまうのです。
それで思うのは、どの赤ちゃんも生後6ヶ月くらいまでは、外見は違っても〈中の人は同じ〉ということです。
みんな同じような表情をして、同じような行動をします。外国人の赤ちゃんでも変わりません。一緒です。
当たり前だよ、とみんな思うのかも知れませんけど、ぼくは人間の基本的なオペレーティングシステムが動いているのを見るようで、感慨深いです。
おそらく〈魂〉に近い動きなんじゃないかと思うんです。
赤ちゃんには自意識もないし、心もまだないと思うので、それでも無ではないのだから、残るのは魂ということになるんじゃないかと。
うーん、あんまりそんなことを書くと、文字通りスピリチュアリズムっぽくなりそうですね。ここらで止めておきましょう。

誰の言葉だか忘れてしまったのですが、「子どもを育てるということは、親のほうももう一度、子どもの目で世界を見ることだ」という言葉を聞いて、目から鱗が落ちたのを覚えています。
子どもを持つということは、親としての自分にクラスチェンジすること、自分にこびりついている子どもの部分から遠ざかることだと思っていましたから。
でもそう言われれば、確かにその通りです。ぼくはまだ娘と5ヶ月ちょっとしか一緒にいませんが、娘がどう世界を捉えていきつつあるかを、ふいに知ることができます。驚きに満ちています。
かつて身近にあったのに見えなくなっていた世界を、これからもう一度追体験できるのだとすると本当に楽しみです。
それはぼくにとっての〈鼻の発見〉、ということになるのかもしれません。




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