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夏の自由律俳句【エッセイ】

あまりに暑いので、飼い猫が液体になった。
夜明けから日没までずっと廊下で寝っ転がっている、というより伸びている。
テーブルの上のコップに手が当たってこぼすと、端まで水がつーっと流れるじゃないですか。
あんな感じで長く伸びている。ぎりぎりまで長く平たく伸びている。
しかも2匹。
それが液体が床にこぼれたように思う。
猫は丸まっているイメージが強いけど、暑いときは逆に長くなるのを飼い始めてから知った。


玻璃を灼く光 飼い猫溶かして 夏滴らせ


批評家の東浩紀氏が、「夏は人間にとってやはり特別な季節で、春も秋も冬もその季節が終わると言わないが、夏だけはそうではない。夏だけが終わると表現する」と言っていた。
これは氏が読んだ本に書いてあったことらしいのだけど、その言葉に胸を衝かれた。
そうなのだ。夏は一番近くにいるのに、一番遠くにいってしまう季節だという気がする。
夏は特別な季節だと、みんな薄々気が付いているはずだ。思っているだけで口には出さないが。


海からの高気圧 陰口押さえる 人差し指で



色々と不思議なことも起こる。
道路に陽炎が立つほどの日は、空間が飴のように伸びる。
近所の店まで歩いても歩いても辿り着かない。いつもは5分で着くはずなのに、もう30分も歩いている気がする。どうなっているんだと汗を拭きながら進んでも、着かない。
日の光が灰色のアスファルトを一面、黄白色の輝きに変えている。美しいけど、その道は僕の足を呑み込んでいるのではないでしょうか。
そんなだから、夏を語る言葉は散文詩のようにしなだれていく。


道の瀬に焔 光の中じゃ アタマも冴えぬ



青空のただ中を走る稲妻を見たことがある。
夕立が終わり、打って変わって晴れ上がった後。
東の空に両手を開いたように左右対称の稲妻が広がった。
僕は偶然にもビデオカメラを回していたのだけど、テープにはほとんど何も映っていなかった。
カメラの記録するスピードより、稲妻のほうが速いからだと後で分かった。
あれは西暦2000年の夏だった。
もう22年も前なのか。
時が経つだけで、ただの記憶が勝手に重みを増してしまう。それが何だか悔しい。


夏の肩 叩いてみれば どんな顔して振り向くつもり


何故か一句詠みたくなってしまいました。しかも自由律俳句。
多分日々にポエジーが足りないからだと思います。




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