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【随筆】 楓

 守られるような、守りたいような、優しいピアノの前奏。そのロックバンドが奏でるのは、あたたかくて切ない別れの歌だ。アリーナの隅々まで、儚く音が響いている。それでいて、澄んだ沈黙がそこにはあった。鼻をすする音があちらこちらから聴こえてきて、沈黙はその音を、ピンボールのように旅させた。

 私の斜め前に立っている男女も例外なく、頬の涙を拭っていた。30代後半くらいだろうか、ふたりは同世代のようだ。開演前の様子を見る限りでは、それぞれ一人きりで来ていたはず。独身かもしれないし、家で愛する人が待っているかもしれないし、そのどちらでもないかもしれない。お互いを知らない男女は、おんなじように泣いていた。そのふたりには今にでも肩を抱き寄せそうな、ひと組の雰囲気があった。
 
 けれど、彼/彼女の心にあるのは、ここにいない誰かとの想い出だ。おんなじように見えるけど、おんなじじゃない涙。会場は湿気を帯びていた。切なくかけがえのない物語の記憶たちは、そのふたりを、ここにいる全員を、優しい霧で包んでいた。時空から切り離されてしまったように錯覚しながら、感じる;時の流れこそが、私たちの核を満たしているのだ。

 その光景の美しさに、私は泣いていたんだよ。

忘れはしないよ 時が流れても
いたずらなやりとりや
心のトゲさえも 君が笑えばもう
小さく丸くなっていたこと

かわるがわるのぞいた穴から
何を見てたかなあ?
一人きりじゃ叶えられない
夢もあったけれど

さよなら 君の声を 抱いて歩いてゆく
ああ 僕のままで どこまで届くだろう

探していたのさ 君と会う日まで
今じゃ懐かしい言葉
ガラスの向こうには 水玉の雲が
散らかっていた あの日まで

風が吹いて飛ばされそうな
軽いタマシイで
他人と同じような幸せを
信じていたのに

これから 傷ついたり 誰か傷つけても
ああ 僕のままで どこまで届くだろう

瞬きするほど長い季節が来て
呼び合う名前がこだまし始める
聴こえる?

さよなら 君の声を 抱いて歩いてゆく
ああ 僕のままで どこまで届くだろう

ああ 君の声を 抱いて歩いてゆく
ああ 僕のままで どこまで届くだろう

ああ 君の声を


「またお会いしましょう」
 天使のようなその人は、純粋で垢つきの笑顔を残像にして、今夜のステージから去っていった。

 ああ、なんて綺麗な月。また戻ってきたとき、私の記憶にはどんなものがあるんだろう。


#スピッツ #楓 #見っけ


ここまで降りてきてくださって、ありがとうございます。優しい君が、素敵な1日/夜を過ごされますように。