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競争について考えながら、凸凹と幸せについて想う

今回は「競争」というキーワードとともに、自分の幼少期のことが思い出されました。幼少期のことを振り返りつつ、子育てにおいての自分のバランスのとりかたなどを書きたいと思います。

幼少期

私は幼い頃から、「競争」「ライバル」という言葉が苦手でした。最初からそういう性格だったのかもしれないし、環境がそう思わせたのかもしれません。環境というならば、おそらく体が弱かったせいです。

私は7歳ぐらいまで入退院を繰り返していました。
幼稚園も、小学校にあがってからも休みがち。

だから、本を読むこと、ぼんやりなにかを想像し、物語を書いてみることが好きでした。布団の上でできることは、あまりなかったのです。

元気なときには、苦手なものとかうまくいかないこと(のぼり棒とか逆上がりとか縄跳びとか…)があると、がむしゃらに練習していました。
病気や入退院を繰り返し、やりたくてもできなくなるときがあることを知っていました。

でも、そんな私に対して、競争心むき出しで対抗してくる同級生がいて、私の心の重荷になりました。

「私は、誰とも競争したくないんだよ。それなのに、❍❍ちゃんは「ライバルだ」っていって、テストの点数を聞いてきて怒ってるし、突然「よーいどん!」って言って競走してくるからいやだなぁ」

・・・と、7歳頃の自分が母親に言っているシーンがはっきりと思い出されます。

バランスをとる

「競争」とか「できる・できない」から自由になれれば、人はもっと楽になれる、と思っています。

子育てをしていて思うのが、「あの子はもう○○ができるのに、うちの子はできない」という思いにとらわれがちなこと。
競争が苦手な私でも、自分の子どものことだと、やきもきすることはありますが・・・。

でも、競争相手が他者だと、つらくなりませんか……。私はどうしてもバランスがとれなくなります。自分の軸が崩れる気がします。
できないこととか、足りないことに重心が移動し、どんどん傾いてしまうんです。

だから私は、バランスをとることを考えます。
子どものことなら、子ども自身に目を向けます。
この子は❍❍はまだできないけど、□□はできる。
❍❍は苦手みたいだけど、□□は好きで得意みたい。

できないことに重心をとられそうになったら、できることや長所、得意なことを考えて重心を戻す。

そうすると、「あー、よかった。できるようになったことがいっぱいある。できないことは、今はできなくてもそのうちできるようになる」と思えて楽になります。

そもそも・・・ですが。子どもと自分は別の個人である、ということは、親は常日頃から意識していないといけないんじゃないかなぁ、と思っています。(わかっていても忘れがちなので、自戒を込めて・・・)

別の個人だから、子どもができないことを悲しみ、嘆く必要なんてなくて、ただ「心配している」というだけでよいのでは。
強制する必要はなくて、その子のペースを重んじて、信じて待ってあげたらいいのでは。

「幸縁」

今はできなくても、自分に必要なことなら、子どもはいつかできるようになると思っています。
できる必要がないなら、できなくてもいいんじゃないかな。
凸凹があったほうが深みと面白みがある気がしています。(わが家の息子たちは凸凹だらけ・・・こう思わないとやってられません 笑)

人は誰だって、幸せな方向へ向かって進みたいと願っていると思うのです。
その方向・その道は、おそらくは親ではなくてその子自身がよく知っていることだとも、思うのです。

幸せな方向へ行くとき、おそらく、人は、無理が無いはずです。
大人よりも子どものほうが、そうした気持ちに正直だから、好きなことを思う存分させてあげられたらいいな、と思っています。

好きなことをしていった先に、子どもたち自身の幸せな未来があるんじゃないだろうか、親はそれを邪魔しないであげたい、あわよくば、親がやり方を間違えずに協力してあげたい、と願っています。

そういえば、ふらっと立ち寄った神社で、
「幸縁」と大きな文字が掲げられていました。

「幸縁」。はじめて目にした言葉ですが、とても惹かれました。

幸せの縁、幸せを結ぶ縁が、たくさんたくさんありますように、と願いました。


最後までお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、他のクリエイターさんへのサポート及び、息子たちとの”寄り道アイス”に使いたいです。