炎上騒動に参加する人々の心理を読み解く(麻布中・公民)
先日、茨城のあおり運転暴行事件に関連して、事件と全く無関係の女性が容疑者の女と誤って伝えられ、彼女の顔写真と勤務先の住所がネット上で晒される騒動が起こりました。
夕方の報道番組everyでは、藤井アナウンサーが「私たちは何度も情報の裏取りをして、正確な情報であるかを確かめているんです。ネット上では一人一人がメディアとなるのだから、その情報が正しいものなのか、きっちりと見極めなくてはならない」と話していました。
一人一人がメディアである。
『メディア』というと、新聞やTV局といったオールドメディアを指す言葉としてよく用いられますが、〔メディア=テレビ・新聞〕と考えてしまうと、〔ネット≠メディア〕とみなされやすく、個人がメディアになりうるという認識が薄れるのかもしれません。
自分の発言が周りに影響を与え、ときに誰かを傷つける。匿名の個人が気軽に情報を発信できるSNS社会だからこそ、大切なことだなぁと思います。
ところで、藤井キャスターの言葉を耳にしたとき、サボはある入試問題を思い浮かびました。
男子御三家の一角である麻布中学で出題されたもので、社会科が好きなサボが今まで解いてきたなかで最も衝撃を受けた問題です。ぜひ、皆さんにも触れていただきたい。
リード文は感情のコントロール。
はじめに菅原道真の祟りなど、怨霊や神の怒りを鎮める祈りの歴史。つづいて、祭りや葬式を通じた、集団で感情を共有する儀礼儀式の紹介。通信手段の発達によるコミュニケーションの変化。そして、インターネットやSNSといった、見えない相手との関わりについて論じられています。
これから引用する設問は、最後の問12です。
本文全体を読んだ上で考えてみましょう。
以下に2つの例題をあげます。1つは問10にあるハンセン病訴訟後のできごと(事例1)、もう1つは最近のヨーロッパでのできごと(事例2)です。これらを読んで、下の(1)(2)の問いに答えなさい。
■事例1
2003年、ハンセン病療養所を運営する熊本県が、元患者の旅行のためにホテルを予約しましたが、「他の客に迷惑がかかる」として拒否されました。
当初、ホテルは謝罪しませんでしたが、元患者や県の抗議もあり、ホテルは謝罪しようとしました。元患者はホテルのこうした姿勢を理由に、謝罪文の受け取りを拒否しました。
そのことがテレビや新聞で報道されると、元患者たちへの非難や中傷が市民から多数寄せられました。「調子にのるな」「私たちは温泉に行く暇もなくお金もないのに、国の税金で生活してきたあなたたちが、権利だけ主張しないでください」といった声がありました。
このできごとに関するニュースが報道されると、そのたびに非難の声が寄せられました。
■事例2
アフリカや中東からの移民が増えているフランスでは、「移民などに仕事がうばわれる」と不安をいだく人びとがたくさんいるといわれています。
2017年、病院で男性が女性看護師に暴力をふるう様子が映され、「これが今のフランスか」という説明が加えられた動画がインターネットに投稿されました。このできごとは、本当はロシアで起きたことでしたが、動画をみたフランス人の中には、その男性をフランスにいる移民だと思いこみ、「移民は国へ帰れ」などの意見を書きこむ人も多くいました。
それがさらに話題を呼び、動画の再生回数が増えることになりました。
(2018年度・麻布社会)
ハンセン病の事例にせよ、移民の事例にせよ、似たような書き込みはネット上でよく散見されますよね。
移民については日本の国内情勢にも関わるので慎重論になるのもわかりますが、「自分と同じ立場の意見だから」という理由で、感情的で一方的な侮辱表現に、イイネを押す人は少なくありません。
(1)
私たちの社会では、特定の人びとに対する感情がコントロールできなくなったときに、上の2つの事例のように世間を騒がす「事件」に発展することがしばしばあります。なぜコントロールできなくなってしまうのでしょうか。
特定の人びとに対する感情を説明した上で、どのようなきっかけで感情をコントロールできなくなるかについて120字以内で答えなさい。
大人たちが匿名で無責任な言説を日々ネットで垂れ流す情報社会の闇を、わずか12歳の男の子が心理分析をする設問です(;`ω´)
メディアリテラシーという言葉の力で、新聞やTV局がどういう意図で報じているのか、批判的にみるべしとの見方は広まりつつありますが、意見を発信する個人がどうして感情を暴走してしまうのかという視点は、あまり取り沙汰されていませんよね。
藤井アナのいう、一人一人がメディアとなるとはどういうことかが、この問題で問われているように思えます。
「特定の人びと」とは、ハンセン病の元患者と移民。
彼らに共通するのは、コミュニティにおける社会的弱者。
「調子にのるな」
「税金で暮らしているあなたたちが権利だけ主張するな」
これらの発言には弱者に対する不満や侮蔑といった感情が見受けられます。
事例を通してみれば、元患者たちの姿勢をそこまで咎める必要はないと思うのですが、元患者らに公金が使われている点と、ホテルからの謝罪文を受け取り拒否した点だけがピックアップされて判断しているように思えます。
相手の顔がない環境だからか、衝動的に上から目線で相手を切りつける物言いです。
こういった感情はどういったきっかけでコントロールできなくなるのでしょうか?
さまざまな要因があると思うのですが、1つは記事を通じて社会的弱者の主張を目の当たりすると、弱者がのさばって多数派である自分たちの生活や権利が脅かされたような気がするから。
少数派の権利擁護では、多数派の権利を制約する懸念がでてきます。
ハンセン病の元患者の治療や療養所の建設には多額の公費があてられた。だから「我々の税金で暮らしているくせに(ホテルの使用を拒否されたくらいで)文句をいうな」と。
移民の流入が国民の就職口を奪い、移民による犯罪で国内の治安低下を招く。だから、「あいつらは他所からきたのにやりたい放題だ。許せない」
もちろん、マジョリティーの利益が損なわれる場合もありますが、移民の受け入れ条件や体制を整え、両者の利益をうまく調整すれば、移民の労働力を借りて、より強い社会になるかもしれません。
移民の立場からすれば、命からがら逃げてきた受け入れ先で自分たちが少数派となり、肩身の狭い思いをしながら細々と生活をしている人が多いかもしれません。
そういった思慮を巡らせることなく、まず先に批判がきます。
日本ではハンセン病の元患者が自分の周りにいる人はそれほど多くないと思いますが、今まで気にしていなかった存在、おとなしくしていた弱者たちの主張が記事となり、何度も目に触れるようになれば、たとえハンセン病の元患者に出会ったことがなくとも、報道された一面だけで物事を判断し、「うるさい、邪魔くさい、面倒くさい、うざったい」といった心ない書き込みであふれやすいものです。
報道は大衆に事実を直面させます。受け手となる大衆は、そこに圧を感じ、実際に出会ったことのない相手に自分の権利や生活が侵害されるのではないかと、不安や恐怖を感じて、弱者の意見をつぶしにかかります。
今現在、あらゆる社会派の掲示板でもよくみられる現象です。
(*・・と、解答に寄せるためにリベラルな見解になりましたが、もちろん反対意見に留意しておくことは必要です。助成金によって肥大化した組織の存在や、多文化共生の道のりは生易しいものではありません。もっとも、弱者の気持ちに馳せることなく、即座に切り捨てるのは想像力の欠如だと思います。常に多様な視点とバランス感覚をもちあわせておきたいものです)
ちなみに、麻布のリード文では最後にこのようなことが書かれてあります。
いったんこじれた(人間)関係を断ち切ることもできますが、「通信」を切ってもなお残る怒りと不安という感情はなかなか解消されないのが現実です。そればかりか、断ち切った「通信」の外で何を言われているかを気にするなど、よけいに感情と関係を悪化させてしまうこともあります。
暴言、中傷、侮辱、侮蔑、憎しみ、冷笑、嘲笑、揶揄。
人には善と悪の面がありますが、毎日このような負の感情を習慣的にネット空間へ垂れ流していれば、人格に影響しないはずがありません。
ネットは社会の捌け口とはいえ、仮想空間と現実社会の峻別はなかなか難しいもの。その人がネット上で装うキャラクターは、案外、経験の長けた大人でもリアルの世界で隠し通すことは至難です。
一見、大人しく普通そうな人でも、意見が衝突したら気性が荒くなったり。虚勢を張って弱さを隠したり。中で演じた荒々しさを通信の外でわだかまりなく、キレイさっぱりに振舞える人はいないのではないでしょうか。くすぶった言葉によく触れていると、人相にも現れるものだとサボは思います。
匿名での書き込みは、自由闊達な意見を交流するメリットがあります。
その一方で、無責任な発言が蔓延し、安易な気持ちから中傷を書き込みやすいです。心理の先生いわく、手書きで悪口は書きにくいが、タイピングでは書きやすくなるのだとか。ネット社会は人びとの情報処理能力を強くさせますが、同時に心を荒ませますこともあります。
(2)
どちらの「事件」も、世間が注目してからより一層多くの人びとが関わり、収まりがつかなくなっていることがわかります。なぜつぎつぎに多くの人びとが関わっていったのですか。そうした人びとの気持ちに注目して、80字以内で答えなさい。
いわゆる、『炎上』騒動です。
ある出来事が報道されて注目されると、些細な出来事であっても大きな騒動へと発展します。
サボはヤフーニュースをよく読んでいるのですが、その下に付随するコメント欄で一定の【流れ】ができると、流れに沿う意見には多くの賛同とイイネ(赤ポチ)が集まり、流れに反する意見には批判的なコメントとバッド(青ポチ)が集中します。
しかも、以前、書かれた記事と全く同じテーマなのに、記事の書かれ方に影響されるのか、コメント欄の流れが逆になると、イイネとバッドの反応も見事に真逆になるときが度々あります。
あっさりと手のひら返し。
2日前の賛同コメントと赤ポチを押した人はどこへ行ったのか?
世論という、横のつながりが薄い雑多な集団のなかでも、人は多数派の意見に同調しやすい性質があるのでしょう。
連日、マスコミが同じニュースを流し続ければ、騒動は加速度的に広まり、ネットではあらゆる場所で非難が殺到しますよね。
つぎつぎに多くの人びとが騒動に関わっていく原因は何なのか。
群集心理。
人は意識的のみならず、無意識的にも集団の影響をうけながら行動を選択します。自分の意見のように思えて、知らないうちに他者の意見から強い影響を受けたうえで述べているものです。
人は他人と同じ意見や考えを共有すると、とてもうれしい気分になります。
同じ価値観を持つ者同士で群れあえば、同調は互いに共鳴をし、増幅しあう。すると、「自分たちが正しい。それに逆らうものは間違っている」と、反対意見に耳を貸すことなく、自分たちと同じ=味方、自分たちと違う=敵と区別をして、味方か敵かですべてを判断しがちです。
ネット上に振りまかれている言説を眺めて、心当たりはありませんか?
味方の意見には好意的に解釈し、素晴らしいと賞賛。
敵の意見には曲解してレッテルを貼り、糾弾し、こきおろす。
移民の事例でいえば、病院で女性看護師に暴力をふるう男性が本当に移民であれば、はじめから移民を快く思わない者たちにとっては都合のよい出来事です。
「ほらみろ。だから移民はならず者で行儀が悪いから、フランスで受け入れるべきではない」
反響は連鎖的に反響を呼び、同調者が募り、同調は共鳴し、増幅し、
「自分たちは正しいことを言っている」
そこに疑念の余地はなくなります。
炎上騒動が起こる度に、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
芸能ニュースでもよく見かけます。ある芸能人の炎上では、騒動とは関係のない、その人のこれまでの職能や作品まで貶され、些細な汚点が大きく評価され、新しい汚点も作られて、収まりのつくまで寄ってたかって執拗に根こそぎ取られています。
また、集団の規模が大きくなればなるほど、個々の発言に対する責任は分散されて、個人としての責任感はだいぶ薄れていきます。
(おそらく、ビデオの出来事がフランスではなく、ロシアで起きたことが明るみになっても、そのビデオで「移民は国に帰れ」と発言した多くの人たちは自分の過去の発言を謝罪していないと思う)
ツイッターを見回しても、「自分たちが正しい。あいつらがおかしいんだ」と、敵陣への攻撃を目的としたツイートはよくシェアされています。でも、同じ意見を持つ人のなかでも、その人が批判している内容と同じことをしている人がたくさんいるものです。相手のことで頭がいっぱいなんですよね。
互いにいがみ合い、相手の弱点をあら探しし、仲間うちで共感を得る。固定メンバーで群れると同調は共鳴し、価値観はさらに固定化され、反対意見を受け付けなくなります。昨今、このサイクルに入り込む人々が増えているように思えます。
炎上騒動から適度に距離を置くというのも、大切ではないでしょうか。
最後に、ネットで中傷被害を受けた、お笑いタレントのスマイリーキクチさんがツイッターで投稿した内容を紹介。
ネットリンチをする人は「むしろ良いことをしてるつもり」と感じている。正義感から悪を成敗する。正義とは、いったい何をさすのでしょうか?
それではまた('ω')ノ