色褪せるべき名作『オトナ帝国の逆襲』とトドメを刺した『しん次元』
映画クレヨンしんちゃんの『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』について考えていることがある。時代が進むとともに凡作扱いされていくべきではないか、ということだ。
色あせる『オトナ帝国の逆襲』
『オトナ帝国の逆襲』は2001年、二十一世紀に入ってすぐの年に公開された映画クレヨンしんちゃんの第九作目である。「親子で観に行って親だけぼろぼろに泣いた」という噂まである、大人まで楽しめるどころか大人をねらって泣かせに来るという異常な作品だ。
とはいえ、1991年生まれの私も子供の頃に観て楽しめたし、涙を流した覚えがある。大人になってから観なおしたが、やはり涙した。中でも強く記憶しているシーンは次の三つだ。
子供になっていたひろしが足の臭いを嗅がされて自分の半生を振り返るシーン
ひろしが昭和の町並みを運転しながら「ちくしょう、何だってここはこんなに懐かしいんだ!」と叫ぶシーン
しんのすけがボロボロになりながらタワーを駆け上がりケンにすがるまでのシーン
特に泣けるのはひろしの回想シーン。オトナ帝国にはまり込んだ結果子供になったひろしが自分の足の臭いをかがされて、自分の半生を振り返るとともに大人に戻るというものだが、ひろし自身が子供のころに親と過ごした思い出、自分が大人になって受けた苦労、結婚してしんのすけが生まれる喜び、自分が親として子供と過ごした思い出が牧歌的な夏の描写とともに流れる。
私が子供ながらに涙したのは、普遍的な幸せな家族の思い出を描いているからなのだと思う。私の場合はひろしの子供時代と自分を重ね合わせて涙したし、そうでなくとも離れ離れになった家族が幸せに戻るという話に弱い人間もいれば、これから生まれてくる子供を思って涙を流すことだってあるだろう。
しかし2001年当時、子供を連れて映画館に来た親たちは別格だ。彼らはひろしと同じ足跡をたどり、同じように半生を思い出すことができるため、その共感度はほかの面々の比ではない。誰もが涙できるシーンで、最も涙を流す理由を持っていた。だからこそ、「大人をねらって泣かせる」ことができたのだろう。
『オトナ帝国の逆襲』のひろしと同世代、つまり1960-1970年の生まれであれば感慨もひとしおのはずだ。ちなみに、ひろしは35歳の設定で、2001年には1966年生まれということになる。オトナ帝国の象徴でもある"20世紀博"のモデルの大阪万博が1970年の開催で、ひろしが4歳のとき。 作中で描かれた子供ひろしが5歳のしんのすけと同じくらいだから、一貫してその世代とひろしを重ね合わせるように描写している。
言うまでもないが、感動は鑑賞者の体験に依存する。感動というか、ひとりひとりの作品の受け取り方や琴線は個人がこれまでに培ってきた体験によって決まる、と言うべきか。『オトナ帝国の逆襲』は大人が、特にしんちゃんを子供と観に来た親が培ってきた体験を網羅するようなものだったから、彼らの琴線に強くに触れたのだ。もちろん、自分の体験が網羅されていなくとも感動はできる。1991年生まれの私が感動したのは、先述の通り自分とひろしの子供時代を重ね合わせたからだ。
では、ひろしの回想シーン以外はどうだろう。しんのすけがタワーを登るシーンでは、一生懸命になることの大切さを知っていれば、あるいは自分の子供をしんのすけに重ね合わせることで、感動する。もちろん当時の私に子供はいなかったので、前者が理由で感動したのだ。
昭和の街並みを懐かしがるシーンでは、あの街で過ごしたあの頃を思い出して、ほろりと泣いてしまう。私の場合も昭和の街並みを思い出して…。
…。
……?
いや、平成生まれの私に昭和の街で過ごした思い出はないが…?
しかし、この懐かしさは、一体どこから…?
思い返すに、私が子供のころ、1990~2000年台は「ああいうの」を懐かしく思わせるコンテンツが溢れていた。昭和のドラマ・アニメ・歌謡曲を振り返る番組がひっきりなしに放送され、TVドラマに出てくる家庭は昭和の香りを放っていた。平成という時代で昭和へ立ち返りたがる気持ちは、『オトナ帝国の逆襲』というフィクションの中だけではなく、現実世界でも画策されていたのだ。いや、だからこそ『オトナ帝国の逆襲』が作られたというべきか。
つまり、各々の琴線を形作る「体験」は実際に自分の目で見て手で触れずとも、フィクション作品を鑑賞することでも得られる、悪意ある言い方をすれば刷り込まれてしまうということだ。
そう考えてみると、ひろしの回想に出てくる牧歌的な夏休みも体験していない。しかしあのような風景もまたメディアで繰り返し見かけた覚えはある。TVドラマはもちろん、アニメやゲームでも夏休みと青春を扱うようなものは大体「ああいうの」を描いていたように思う。そういったものを日常的に摂取することで、「懐かしい。自分もこんな夏を過ごしていた」と思うようになるのだ。
つまり『オトナ帝国の逆襲』、特にひろしの回想シーンに涙した私の思いはメディアによって作られたものだったのだ。
…。
…いや、逆の可能性も捨てきれない。
私が昭和の街並みや牧歌的な夏休みを体験したにも関わらず、私の記憶を揺さぶって思い出をよみがえらせる映像作品がメディアから絶えてしまったから、「ああいうの」を偽物の体験だと断定しているのかもしれない。
ただ、もしこの考えが正しいのであれば、つまりコンテンツの供給がないと実際の体験と偽物の区別がつかなくなるのであれば、本物の昭和生まれも懐かしい記憶や体験と偽物の区別がつかなくなるのではないだろうか。
どちらにせよ、昭和を「思い出させる」懐かしコンテンツがなくなることで、昭和の街並みやひろしの回想シーンは現実から遠ざかり、完全なフィクションの世界に陥ってしまう。つまり、昭和という時代そのものが、完全に歴史の中の一時代になり、フィクションの中でしか描かれなくなることで、共感や郷愁の思いを呼び起こす舞台装置でなくなってしまうのだ。
ある時代に作られた作品が、時代の変化によって理解されなくなるというケースは多くある。しかし、『オトナ帝国の逆襲』の場合は理解を拒絶するような向きが存在する。「それ、昭和」という掛け声である。令和のこの時代には、昭和のあれこれは悪しきものとして、時に平成が犯した悪事の責さえ背負いながら、非難の声を浴びるのが常になってしまった。
昭和世代はその波に乗った。ナニモノか達と一緒に昭和をあざけることを選択し、郷愁の思いに浸ることをやめた。平成世代はメディアから絶えず供給されていた昭和の偽思い出が頭から抜けつつある。昭和時代がフィクションの世界に閉じ込められるのも時間の問題、もしかしたらすでにそうなっているかもしれない。
では、令和世代…令和生まれではなくいわゆるZ世代…はどうか。平成三年生まれの私にとっては驚きだが、令和世代には昭和レトロなるものが愛好されているらしい。つまり、令和世代の彼らにとって昭和時代とは博物館に飾られた展示物であり、私たちがいくら江戸時代の人情ドラマを観ても「懐かしい」とは思わないように、彼らは昭和時代に懐かしさを覚える回路を持ち合わせていないと考えるべきだろう。
以上をまとめると、『オトナ帝国の逆襲』は時代を経るにつれて色あせ、風化していく、と言える。特定の世代に響く舞台装置である「昭和時代」を使ったがために時の名作として高い評価を得て、その舞台装置ゆえに風化を止める手立てを持たないのだ。
とはいえ、昭和時代を懐かしむことだけが『オトナ帝国の逆襲』の魅力ではない。まず、しんのすけがタワーを登るシーンが色あせることはない。また、ひろしの回想シーンも広い世代に受け入れられる描写であることは間違いない。その中に、いずれ解説をしなければ理解できなくなる描写があるというだけだ。ただ、昭和の街並みは全編解説が必要になるだろう。解説を聞いたら感動できました!という奇特な人間の登場は期待できない。
また、上述の三シーン以外にも『オトナ帝国の逆襲』の魅力はある。大人たちの様相が変わって春日部から大人がいなくなる描写は恐ろしいし、幼稚園バスで暴走するシーンはいつ見ても面白い。ただ、だが、それは映画クレヨンしんちゃんの一般的な風景だ。『オトナ帝国の逆襲』が特別視される理由にはなるとは思えない。
白ける『オトナ帝国の逆襲』
「わたしたちはあの頃、未来に対して熱狂的な希望を抱いていた。しかし、そんな未来は来なかった。あの頃は良かった」というのがオトナ帝国の首謀者ケンが抱えるテーマだ。
万博が見せた輝かしい未来、2001年当時から見ても古く、しかし活気があった昭和を思いながら、ケンは思う。「あの頃は良かった」と。この言葉は老害の代表的な言動のように扱われるが、私は羨ましく感じている。
だって、私達は今、未来に希望を持って生きているのだろうか?
生きてさえいれば生きていられる、くらいの温度で生きている人間ならたくさんいるだろう。日々、消費しきれない娯楽に追われて一過性の楽しみに身を浸す以外に生きる術を持たない人間ならば。一方、輝かしい未来を確信し、今頑張ればいつかその未来にたどり着けると思って生きている人間が、今の時代果たしてどのくらいいるだろうか。
どちらが悪いと言うつもりはない。楽しく生きられれば、それだけで及第点だ。だが、「今だけ」ではなく「未来も」楽しんで生きられればもっと良いと、私は思う。にもかかわらず、「今だけ」の時間単位でしか楽しい人生を想像できない人間は多い。いや、できないというか、今この瞬間が楽しさのピークであり、未来に希望がないのは当たり前だと感じている人間の方が現代では主流なのではないだろうか?
たとえば私がそうだった。
私は1991年に生まれたが、物心ついた時には不況になっていて、子供の頃に親がよく不景気だとこぼしていたのをよく覚えている。それでも不自由はなかったが。子供のころ見ていたテレビでは節約術が持て囃され、金を使うことが悪だと言わんばかりの風潮であった。その根底には「今さえしのげばどうにかなる」、あるいは「今を生きることしか頭にない」という考えがあったのだと思う。
また、未来がお先真っ暗であると、学校で習った。昨今見直しの声が高まりつつある「高齢者一人を支える現役世代の数」問題である。公民の教科書だったか資料集だったか、若者三人が高齢者が乗っている盆を下から支え、少子高齢化が進むとともに若者の数が減り、最後には一人になってしまう図を覚えている(今調べたらすでに盆の下には二人しかいないらしい)。少子高齢化が止まらないという話はテレビで何度も見ていたこともあり、これから生きていく社会に暗い気持ちを抱いたものだ。
何より、大人たちが日本はもう終わりだと繰り返し嘯いていた。今でもそうだ。日本の科学技術は衰退しきったとか、もう世界に誇るプレゼンスがないとか、そういったことを賢しらに語って、大人からも子供からも希望を奪って、いったい何がしたいのか。現実をしっかり見て未来への希望を奪うよりも、「あの頃はよかった」と言って未来に希望があった時代を示してくれた方がよっぽどよかった。オトナ帝国で開催される懐かしさ同窓会に参加もできずに次の世代を腐すしかない無能どもとして、私は彼ら彼女らを心の底から軽蔑している。
また、昭和時代、1970年の大阪万博では未来の象徴として科学技術の数々を展示していたが、大概の科学技術は令和になった今、すでに到来してしまった。私たちは代わりに何を見て未来への希望を抱けばよいのか。上述の通り、未来の絶望を語ることがまるで賢さの証拠であるかのように、せっせと未来の希望を摘む大人まで出る始末。未来に希望を抱くための起爆剤が、どこにもないのだ。
とにかく、子供のころから今に至るまで、希望に溢れた未来を想像したことなどなかった。『オトナ帝国の逆襲』のテーマだって、成人して昭和時代の活況を知ってから観てやっとケンの考える「あの頃はよかった」を理解できたものだ。
だから『オトナ帝国の逆襲』は凡作化するのだ、と単純なことを言いたいわけではない。それは前節でも強調したとおりだ。単に、『オトナ帝国の逆襲』が描く「わたしたちはあの頃、未来に対して熱狂的な希望を抱いていた」に共感も理解もできない世代が出てきていると主張したいのだ。もしかしたら、「あの頃」を知っていた世代でさえ熱狂的な希望をもう忘れてしまっているかもしれない。
では昭和時代の熱狂を知れば『オトナ帝国』を観て希望を感じることができるのか。
確かに、昭和時代を知ればケンの思う「あの頃は良かった」を知識としては理解できる。しかし、だからといって真逆の「未来に希望なんてない」とことを当たり前のこととして受け入れている者が共感などできるはずもない。
極めつけは科学技術だ。「あの頃」に想像していた未来の科学技術はすでに到来してしまったことは上でも挙げた。むしろ昭和時代に想像されていた派手な科学技術よりも、さらに凄い技術が私達の生活に根付いている。
そんな現代で、畳の敷かれた小さな部屋で小さなブラウン管テレビを観ることが素晴らしく映るだろうか。精々が博物館の体験型展示コーナーにありそうな原始時代や江戸時代の生活体験として興味を持たれるだけで、本気であの暮らしを美化しようものなら、それこそコメディ映画にしかならない。
さらに、科学の発展は未来の絶望の証拠を次々と掘り当ててもいる。エネルギー問題や気候変動に始まり、統計的手段によって現れる私たちにとって不都合な事実。科学技術が薬にも毒にもなることは周知の事実であるが、過去には未来の希望の象徴だった科学技術が今や絶望を連れてくるのは何とも皮肉だ。そして、何度も言うが、賢しらに科学技術が導く絶望の未来を誇示する人間まで出てきている。
オトナ帝国の首謀者であるケンの持つテーマを心で理解できない人間が増え、ケンの行動原理が謎と理解されるようになれば、ケンはシリアスな顔をしているだけのギャグキャラクターに堕ちてしまう。ほかの映画クレしんの敵のように。これが凡作扱いされるべき理由の二つ目だ。
ところで、「あの頃」を求めて「今」から逃げ出そうとするケンに対して、しんのすけは「大きくなっておねえさんと仲良くしたい」という俗で個人的な欲望をもって未来に希望があると回答とした。
だが、ケンのいう「あの頃」にだって崇高な使命を持って生きていた人間がいたはずもない。つまりケンもしんのすけも、個人的な希望を未来として語っており、ケンがついていけなくなっただけで根本的な価値観は変わっていない。したがって『オトナ帝国』は徹底的に昭和の感性のぶつかりを描いており、平成令和に生きる私たちから乖離していく。令和の今、しんのすけはケンに対してなんと返すのだろうか。
トドメを刺した『しん次元!』
そして2023年公開の『しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦』はクレヨンしんちゃん公式から提供された『オトナ帝国の逆襲』のアンサーとも言える作品。『オトナ帝国の逆襲』から脱した大人たちは未来を作ることが出来なかったと告白する作品である。
公開直後に炎上ともいえる猛批判があったことはまだ記憶に新しい。
映画クレヨンしんちゃんの敵は一般的に面白く個性豊かである。第一作『アクション仮面vsハイグレ大魔王』に始まり、『雲黒斎の野望』や『ヤキニクロード』など枚挙に暇がない。しかし本作の敵である非理谷充(ひりや みつる)は、社会からこぼれ落ちて、仕事にも人間関係にも恵まれず、スマホゲームとアイドルのみを楽しみに生きる30歳の独身男性である。設定もさることながら、生々しい言動と同情心を誘わない描写の数々に多くの人間が「笑うどころではない」と顔をひきつらせた。
最終的に充は世界を滅ぼす化け物になり、しんのすけが超能力で充の過去に干渉することで連れ戻すのだが、それでめでたしめでたしとは言えないほどキツい描写が多かった。極めつけはひろしが充に「君はまだ若い」「だから、がんばれ!」と励ましたことだ。子供のしんのすけにケツを叩かれ、マイホーム子供持ちの勝ち組であるひろしからこともなげに励まされる30歳という構図がさらに多くの人間の心を抉った。少なくとも、私はそう感じた。
ただ、映画の製作陣の擁護はしておきたい。映画のタイトルにもある通り、この映画では手巻き寿司がひとつの重大要素になっており、それはひろしが充の凶行を知って「彼にも一緒に手巻き寿司を食べられる家族がいれば、違ったのかな」といったことを述べ、充は両親離婚前の最後の家族団らんの食卓に手巻き寿司が出てきたことを辛い思い出として認識していることからもわかる。そして、充が正気に戻った後に、野原一家は彼を家に招いて一緒に手巻き寿司を食べたのだ。つまり、「がんばれ」と突き放しただけではなく、ちゃんと救いの手を差し伸べている(という描かれ方がされている)。惜しむらくは、作中で手巻き寿司が占める割合が小さい上に、充をリアルに描きすぎたせいで直感的な理解を妨げたため、全く説得力がなかったことだ。だから、その、よくよく考えないと救ったようには見えないが、努力は認めてほしい。
というのが、『しん次元!』のみから得られる感想だが、ここからは前段までに提示した『オトナ帝国の逆襲』の感想を混ぜ込む。
まず、作中の大人は口々に日本はお先真っ暗だと嘯いている。はじめに充がお先真っ暗だとしんのすけ君たちに言い、心配するしんのすけにひろしはやはり頑張れ的なことしか言えない。
ここで、『オトナ帝国の逆襲』のひろしと『しん次元!』のひろしをつなげてみる。『オトナ帝国の逆襲』のひろしはケンに家族がいる幸せを説き、野原一家総出で過去に決別して未来へ向かって歩を進めるべく奮闘した。そんな野原一家の思いに共感して、一度はオトナ帝国の懐かしさに負けた大人たちも未来を選ぶべく行動に移した。そして『大人帝国の逆襲』から22年後、『しん次元!』に出てくるひろしを含む大人たちは、充のような未来に絶望する若者を産み落としてしまったというわけだ。
希望に満ちた未来は来なかった。22年前にオトナ帝国に背を向けた大人たちはこれからの若者に絶望を提供することしかできなかった。前段で述べたように、私は現実をしっかり見つめて未来には希望がないと確信するよりも、根拠なく楽しんで明るい未来を想像させてほしかった。そうした精神性が昭和の「あの頃」にはきっとあったのだ。ケンは正しかった。
また、未来に希望がないと聞いて不安がるしんのすけに、ひろしが送るべきだったのはまず大人である自分が頑張るという決意ではないのか。30歳に向けて「君はまだ若い」と言えるだけの精神性があれば、35歳のひろしだってまだ若いし、年長者としてより一層頑張らなければならないのは明白だ。しかし、しんのすけには頑張ればどうにかなるという、信じてもいない理想論を語り、自分が何をするかには一切触れないのである。このシーンから現役世代に支えてもらおうとする高齢者をイメージするのは、決してやりすぎではないはずだ。
つまり、『しん次元!』には未来を食いつぶした「オトナ」たちが30歳の充を若者とみなして説教し、未来の象徴であるしんのすけによりかかる側面があるのだ。
さて、充が日本の未来に絶望するのはわかる。充の年齢は30歳で、2023年公開の作品で30歳であるから1993年生まれ(私の2個下)である。前段で述べたように、昭和に帰属意識を持ち、『オトナ帝国の逆襲』を観て郷愁の思いを抱くべく記憶を操作された世代の一人であり、未来への希望も知らずに学校で「お先真っ暗だと習う」世代でもある。
何を言いたいかというと、充はすねてひがんでああなってしまった訳ではなく、ちゃんとまじめに生きているだけなのにああなってしまったのだ。にもかかわらず、彼は戯画化された悪役として描かれ、しかもその描写は現実世界における「キモイ負け組」の投影でもあった。
一方、永遠の35歳であるひろしは、充を若者と呼べるほど年の差がない(5歳差)が、ひろしには係長という役職を持つ正社員であり(今でも係長って役職は存在するのか?)、さらにはマイホームも妻も二人の子供もいる。しかもしんのすけは5歳であるため、ちょうど充と同じ年齢の時にひろしは父親になったということになる。こんな悲しい対比があるだろうか。
しかしこればかりは長寿番組の性として目を瞑るべき…と私は許容できない。同意見の人間も多いはずだ。なぜなら、『しん次元!』に出てきたひろしはどう考えても精神性が1960年代のそれであり、令和の映画に出ておきながら平成初期の映画の登場人物にしか見えないからだ。つまり、ひろしは「オトナ」の代表者、もっといえば60代70代の代表として30の若者に「頑張れ」と言っているのだ。制作陣の意図するところではないと承知しているが、若者の現状を知らずに無邪気に励ます老人という現実の縮図を忠実に描写している。
『オトナ帝国の逆襲』は「あの頃は良かった」という懐古主義を批判し、未来に目を向けさせる物語ではなかったのか?目を向けた結果、どのような未来が生み出されたのか、映画クレしんスタッフが考えたアンサーがこれなのか?『しん次元!』は『オトナ帝国の逆襲』未来への希望を通底するテーマとして描いており、ゆえに続編として観たとき、『オトナ帝国の逆襲』で肯定された物語を否定するようにできているのだ。
そして最後に、未来に絶望する令和の若者の投影である充が『オトナ帝国』を観たらどう感じるかを考えたい。
私はひろしの回想シーンが最も感動を誘うシーンだと確信しているが、現実的なエグさを持つから充がオトナ帝国のひろしの回想シーンを観たとして、感動して涙を流すことがあるだろうか。自分には祝福されながら育った過去がなかった、自分は今こんな幸せな家庭を持っていない、自分にはこんな未来があるわけがない、そう思って悔しさで涙を流すことはあるだろうが。
まず、ひろしの子供時代。充の子供時代の思い出はいじめと家庭不和だ。ひろしが親父から受け取った愛を感じる余地はない。次に、青年~大人時代。これはしん次元で全編通して描かれている通り。就職もままならず、結婚相手を見つけることは夢のまた夢だろう(この辺りは1980年代生まれの氷河期世代とかぶる点があるが、制作に七年かかっているのだから、氷河期世代をそのまま描こうとしたのだと思われる)。最後にひろしが親になった後。充が思うことは何か。「自分は親になれなかった」と涙するのではないか。
これは充に限らず、今の20~30代が直面している危機である。親にしてもらったことを子供にできない、それどころか子供もいない、配偶者さえいないという状況。もう一度主張するが、こういった現実的なエグさを細かく正確に描写したからこそ『しん次元』は炎上したのだ。
前段で述べたように、ひろしの回想シーンは世代を超えて普遍的な感動を呼び起こしうる最高の感動シーンである。にもかかわらず、『オトナ帝国の逆襲』で肯定した物語を否定するばかりか、最高の感動シーンまでもをぶち壊す造形をした。私には、スタッフさえもが『オトナ帝国の逆襲』を見限ってわざわざ否定するような映画を作ったとしか思えないのだ。
『オトナ帝国の逆襲』では、あの頃に戻ってもう一度未来へ向かう線を引き直すことはやめようと促した。今この時代から歩を進めて未来を良いものにしよう、と。しかし、『しん次元!』では、未来へ向かって線を引けない絶望を描いた。あまつさえ、超能力で、『オトナ帝国の逆襲』で否定したはずの過去に戻っての人生やり直しを解決策とした。やり直しを肯定的に描いているということは、ケンの「あの頃はよかった。あの頃をもう一度」を肯定しているに等しく、やはり『オトナ帝国の逆襲』で否定された懐古主義が正しいと認めていることになる。
そして『オトナ帝国の逆襲』では右肩上がりのまま未来へ進みたかった懐古主義者たちが過去に戻ってやり直しを求めた一方で、『しん次元!』では右肩下がりをちょっとでも上向きに修正しようとしたに過ぎない。「あの頃」の日本はとても良い時代だったが、現代の若者ではその頃を再現できないということを意味しており、逆説的に「『オトナ帝国の逆襲』で戻ろうとしたあの頃はよかった」ということをやはり認めている。
ケンの主張を二重に肯定し、『オトナ帝国の逆襲』の魅力を貶める醜い構造だと言わざるを得ない。したがって、最新作である『しん次元!』が『オトナ帝国の逆襲』の物語を否定し、虚飾を剥がしてしまった。これが理由の三つ目だ。
おわりに
『オトナ帝国の逆襲』は時代とともに色あせる。まずは、特定の時代に生きた人間の郷愁を呼び起こすつくりをしているため、作中で描かれた昭和の良き時代が理解されなくなり、いずれ風化するという宿命を背負っているから。次に、あの頃に抱いていたと思われる未来への希望はどこかにいってしまい、絶望の未来しか考えられなくなっているから。最後に、2023年公開の最新作『しん次元!』にて、『オトナ帝国の逆襲』で肯定的に描いた物語を徹底的に否定したから。しかも、『しん次元!』だけで終わらず、今後も同じような作品が出ることは大いに想像される。
未来が来なかったことに失望し、やり直すのが『オトナ帝国の逆襲』である。それは過去と未来の断絶であり、現在を見失っていたことに等しい。ゆえに、現在を受け入れて未来につなげることをアンサーとした。
一方で、現在の延長線として未来に希望が持てなくなったのが『しん次元!』である。現在と未来の断絶を描いているが、現在を正確に認識していることが原因である。過去をやり直すことで未来につなげる意思を呼び起こすことをアンサーとした。
つまり、『しん次元!』では過去をやり直さないと現在と未来をつなぐことが出来ないという、『オトナ帝国の逆襲』とは真逆のメッセージを送っている。私は、徹底的に真逆だからこそ、ここにも『オトナ帝国の逆襲』と『しん次元!』のつながりがあると考えている。
個人的な希望では、そして同じように考える人間が大勢いると期待しているが、『しん次元!』はしんのすけのおバカパワーで解決すべきだった。そもそも希望にはパワーが必要だ。綿密な論理立てで希望を取り戻す人間は少なく、とにかくなんかすごいという気持ちが未来への希望を取り戻すのだ。オトナ帝国だって、野原一家のおバカパワーがふんだんに発揮されたから、触発された大人たちに背を向かれたのだ。
おバカパワーといえば『オラの花嫁』。大人のしんのすけが子供のしんのすけの力を借りておバカパワーで何もかもひっくり返すという話だ。『しん次元!』と同じく大人が子供に寄りかかる構造になってはいるが、本人だし現実的な描写もないから別物と言ってもよい。もしかしたら、『オラの花嫁』は『しん次元!』ではない『オトナ帝国の逆襲』へのアンサーだったのかもしれない。あるいは、『しん次元!』へのアンサーか。
ちょっと言い訳をしたいのだが…実は世代間格差に言及するつもりは一切なかった。世代間格差が広く認識されるようになり、感情的な物言いも増えてきたのがここ一年ほどのことだと思うが、私が『オトナ帝国』をこの記事のように考えていたのは五年以上前からだったからだ。
そのはじまりは冒頭で書いた通り「俺って昭和の街並みを懐かしむ理由がないよな?」であり、言いたくはないが「クレしんの映画のベスト?『オトナ帝国の逆襲』と『戦国大合戦』を除いて?」という歪んだ特別視が大変気に入らなかったからだ。そこから色々考えて昭和洗脳というトンチキにも思える概念に至ったのだが、昭和洗脳の一本槍だけでは私の考えを説明するには足りず、昭和時代に頼らない面白さがあることも重々承知していたため、書いては消しを繰り返して中々記事を作ることができなかった。
そこで何度も推敲を繰り返して、『オトナ帝国』で描かれた昭和時代を「郷愁の思い」と「あの頃はよかった」に分割することで、自分の考えを説明することができた。願わくば『オトナ帝国』を殿堂入りから外す人間が増えてほしい。私は、昭和時代のブーストがなければ『暗黒タマタマ』と『夕陽のカスカベボーイズ』の次くらいの面白いさだと感じているので。
ただ、説得力を増すために世代間格差を使いたくはなかった。しかし「あの頃はよかった」から「今はどうだ」に派生するとどうしても避けて通ることができなかった。世代間格差を使いたくなかった理由は、煽情的な話題であることと、私よりもずっと文章のうまい方々が既にいろいろと書いているからだ。しかも説得力のある証拠を添えて。
となると、どうしてもその良い文章に引っ張られてしまう。事実、『オトナ帝国の逆襲』の話をしようとしてもいつの間にか憎悪を煽る世代間格差に言及していたことが何度もあり、やはり何度も書き直した。意図しないところで感情を煽りたくはなかったし、私の言葉ではなくなる点も嫌だった。だが全く触れないのも無理だったため、ちょっとずつ薄めて提供した。書き終わったばかりの今は満足しているが、しばらくしてから読み直して、私は出来に納得できるだろうか。長いし。
さらに余談だが、『オトナ帝国』を過去と未来の断絶、『しん次元』を現在と未来の断絶として捉えた。残るは過去と現在の断絶を示す映画だが、実は存在する。
令和元年に公開された『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』である。
令和になった現在から平成=過去を見返すとあまりに醜い。だから過去をやり直す。というのが本作の敵であるクォーツァーの主張で、仮面ライダーたちはやり直しを阻止すべく立ち向かう。というのがあらすじである。過去と現在の断絶を憂う敵に対し、過去と現在は断絶なんかしていない!と主張する仮面ライダーの熱い戦いがある。
クォーツァーのボスである仮面ライダーバールクスにとどめを刺したシーンは仮面ライダー史に残るといっても過言ではないバカバカしさで、『しん次元!』もこうあるべきだったと強く思ったものだ。
過去と未来の断絶を描く『オトナ帝国』、過去の現在の断絶を阻止する『Over Quartzer』、現在と未来の断絶を描く『しん次元』。私は、この三作をもって勝手に「オトナ帝国3部作」と呼んでいる。
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