女子大生による映画「バービー」再考
バービーと私
可愛くて、オシャレで、ステキな彼がいて子どもの頃バービーは「理想の女性」であった。我が家はどちらかとリカちゃん派であったものの、近所のお姉さんがおさがりでくれたバービーがいたことを記憶している。そんなお人形ごっこブームもあっという間に過ぎ去り、気がつけば女子大生になっていた私にとって「バービー」の予告編は胸躍るものであった。ビビットでピンクで女の子がキラキラ輝くバービーランド。ミュージカル映画が好きなことも相まって期待値はマックスであった。しかし、その期待は良い意味で裏切られたのであった。
映画の鑑賞記録は常日頃よりつけているが、先日Netflixに追加された本編を再鑑賞した結果どうしても胸の内を吐き出したくなった次第である。今回は、「バービー」を観て感じたことをまとめてみる。あくまで筆者の主観に過ぎず、人生経験乏しい学生であるため拙筆あるがご容赦いただきたい。
映画「バービー」の世界
まず映画「バービー」のあらすじはこうだ。
バービーランドで暮らすバービーたちは、医者に最高裁判事、弁護士、記者、作家、ノーベル物理学賞受賞者、大統領と「なりたい自分」を実現する女の子の憧れ。主人公の定番バービーはみんなの人気者。毎晩がダンスパーティー、パジャマパーティーの最高の日々を過ごす。しかしある日「死」を考えてしまったことがきっかけで世界は一変。バービーランドの平和を取り返すために人間界に旅出つことになる。
ポップな世界と音楽で「最高にハッピーなバービーランド」を味わえるが、純粋な楽しさを感じられるのはここまでだろう。ここからは映画「バービー」でのジェンダー観が描かれるシーンをまとめる。
映画「バービー」で描かれるジェンダー
バービーが人間界に与えた影響
ケンとともに人間界に乗り込んだバービー。自分たちのおかげで人間界の女の子はパワフルでハッピーであらゆるところで活躍をしていると信じているバービーは、ついて早々に好奇の目と性的な視線にさらされ違和感を覚える。そして自分の持ち主であるサーシャのもとへ向かうが、ここでショックを受ける。
サーシャの通う学校にたどり着き、意気揚々と挨拶をするとサーシャ軍団からは「メンヘラ」「バービーでやっぱりおバカ?」と嘲笑される。さらに「髪が不気味」「オモチャでは最下位」、「私は好き」といった友人に対しサーシャは冷たい視線を向ける。想定外のリアクションに困惑するバービーにサーシャはとどめの一撃を刺す。
小さなフェミニストとなったサーシャはバービーを真っ向から罵る。まさしくバービーこそ「Dumb Blonde(頭の弱いブロンド美女)」であると。ショックを受けたバービーはその場を走り去る。
ケンが魅了された「男社会」
一方その頃ケンはというと、人間界の「男性社会」に魅了されていた。大都会のビル群、ジムでトレーニングに励む男性、馬に乗り颯爽とパトロールする警察官、今まで知らなかった「男が輝く社会」への猛烈な憧れを抱く。図書館から「なぜ男は偉い」「男と戦争」「男社会」、ついでに「馬」の本を持ち出したケンは大企業のお偉いさんのもとへ足を運ぶ。「高収入な仕事が欲しい」というトンチンカンなファッションに身を包んだケンは、男性から「MBAと博士号が必要だ」と言われる。「男でも?」と聞き返すと、相手は「今の時代逆に不利だ。社会を回してるのは男だが、それを上手く隠している」と答える。人間界での就労にことごとく失敗したケンはバービーがマテル社へ連行される中、バービーランドを男社会に作り替えるべく一足先にバービーランドに帰還する。
マテル社という現代社会の風刺
マテル社に連行されたバービーは役員の面々のもとへ向かう。元のバービーに戻る前に「女性の偉い人に会いたい」というバービーに対し、社長は「女性の役員は90年代に1人、、、あともう1人いたな」という。不信感を覚えたバービーはマテル社から脱走、グロリア・サーシャ親子とともにバービーランドへと帰るのであった。
この映画の中でマテル社は「現代社会の風刺」として描かれる。マテル社の社長はもはや絶滅危惧種級の「ステレオタイプおじさん」である。こいつだけはずっと気持ち悪いのである。とにかくずっと。実際にはマテル社の役員は約半数近くが女性らしい。よってこのマテル社の存在はあくまで誇張といえるが、現代社会の風刺としてはまさしくその通りであると考える。
ケン・ダムの誕生
さてバービーたちがバービーランドに戻ると何だか様子がおかしい。ケンたちにビールを給仕する元大統領に、チアをする元判事たち。ケンは本当に成し遂げてしまったのだ、憧れの男社会・ケンダムの建国を。男性の「アクセサリー」的に生きることの楽しさを植え付けられた女性たちは元の肩書や職務、栄光を忘れてしまった。その様子にバービーはすっかり失望、いつものパワフルさはどこかへ行ってしまう。
印象に残ったシーン
リアルワールドとバービーランド
ここまで映画本編でのジェンダー観のわかるシーンをまとめてきた。ここからはそれに基づき映画の設定やシーンを考えていく。はじめにリアルワールドとバービーランドの対比をまとめる。作中では人間界とバービーランドは真逆の存在として描かれていると考える。
まずリアルワールドでは男性が中心であり、女性は美しくいることが求められ、会社では出世することが難しい。先にケンと言葉を交わした男性は「社会を男性が回していることを上手く隠している」と得意げに言った。これは昨今女性の社会進出やキャリアが注目される中、活躍する女性もいるが結局「男性が裏で操っており、女性積極的に登用するアピールをしている」ということを言いたげである。その中で女性に与えられた役割は「子どもを産み育て上げる」こと。女性に生まれた以上、「出産・育児」という問題はついてまわるものである。「産む」選択をすれば仕事を休んだり、やめたりする必要があり風当たりは強い。子育てをしながら働く選択をしても、っ子どもが理由で休まなければならないなどが起こると「これだから子持ち様は」である。「産まない」選択をすれば、あたかも女性としての役目を放棄したように見られるし、キャリアを積んでも同性からは「子どもがいないから」と羨望と嫉妬の目を向けられるのだ。よってどんな選択をしても女性たちは「女である」という重責から逃れることができないのである。
一方バービーランドの中心は当然バービー(女性)である。ケン(男性)は「バービーのおまけ」として扱われており、作中では自分の名前を「and Ken」だと思っているという描写がある。ケンに仕事や家はなく、夜になればパジャマパーティーを開くバービーたちに追い返される。ここで特筆すべきはバービーランドでの「出産・育児」の扱いである。バービーの親友の「ミッジ」は妊婦であることから仲間はずれにされている。このことからバービーランドでは「妊娠」や「出産」がタブー視されていると感じる。さらにバービーはキスを迫るケンを拒んでおり、「性的」なこと自体を避けているように見える。バービーランドではバービーたちがそれぞれ立派な仕事と役職を持っている。このことから「出産・育児」は女性の社会進出を妨げるものであり、バービーたちはこの選択をしないから出世できたのだということを暗喩しているように思う。
この対比から分かることはこれまでの社会の中心を担い、構成していたの性別に対して、異性が同じ地位やあり方を求めることがいかに困難であるかが分かる。また共通して描かれているのが「出産・育児」という大きな壁である。バービーランドでは妊婦を仲間はずれにすることでこれを表現していると考える。
「2001 宇宙の旅」のパロディ
この映画は「2001 宇宙への旅」のパロディ的な演出から始まる。それまで赤ちゃん人形のお世話をして母親役を疑似的に行う人形遊びをしていた少女たち。すっかり飽き飽きしていたところに現れたのがバービーである。少女たちは赤ちゃん人形を投げ捨て、バービーを手に取った。このシーンからは女性の社会進出への関心の高まりや、出産・育児以外へ生きがいを見出していく女性たちを映しているようである。
グロリアのスピーチ
私が映画で最も印象的だと感じたシーンは、バービーたちの洗脳を説いたグロリアのスピーチであった。
このセリフを聞いて私は泣きたくなった。当然すべてが女性だけに当てはまるものではないが、それはまるで世界中の女性の叫びのように聞こえたのだ。これがここまで胸に刺さったのは自分が今将来と向き合わねばならぬタイミングだからである。遠くから足音の聞こえる「就活」。自分はきっと働くことが好きだし、家庭を持ったとしても仕事を辞めるという選択はしたくない。SNSやニュースで流れてくる女性の生きづらさや先行きの不安定な未来に不安を抱える若者も多いだろう。
先にも述べたがリアルワールドでの女性たちは常に「仕事と家庭」の両立という課題を抱えている。子どもを産んで職場に復帰する女性たちは「働く母たち」として相応しい振る舞いが求められる。子育てをしながら働く女性としてよき手本でなくてはならないし、そのためにキャリアを築くことが求められる。一方で子どもを立派に育てる責任も母親の身に降りかかる。子育てをないがしろにしても非難され、仕事に支障をきたしても煙たがられる。まさしく「女性でいることは苦行」である。生まれながらにして将来この壁にぶち当たることが決まっているのである。さらにこの両立がいかに困難であるか世間は気遣うふりをしながら結局は「自分で選んだことなんだから成し遂げて当然」と手を差し伸べてはくれない。自分らしく生きる・働き続けるために子どもを持たない選択をしても、「少子化」だなんだと騒ぐ無関心・非協力的な外野がいる。
グロリアの叫びからは彼女がこれまでに同様の壁にぶち当たり、向けられてきた理不尽であったことを感じる。
バービーランドの復活
グロリアのスピーチとバービーたちの作戦によってバービーランドを取り戻したバービーたち。「これで元どおりだ」と満足気なステレオタイプおじさんに対し、大統領はいう。
バービーランドでのもう1人の犠牲者はアランであった。アランは家父長制のもと常にケンの影に生きざるをえない苦悩に悩む存在である。苦悩を抱えているのは女性だけではなく、ある一握りの人間以外は生きづらさを抱えている。この映画は社会制度のもと理不尽に苦しめられる万人に対し手を差し伸べようとしているのである。
自分らしく生きるということ
理不尽な女性像が深める溝
とはいえ何もかもそんな平和に済むなら警察はいらない。ケン・ダムが崩壊した原因、それは同性間の権力関係による対立だ。これは今の現実世界でも同様のことがいえるのではないだろうか?
「仕事に専念することを選んだ人」「仕事と家庭の両立を目指す人」「子どもを持つ選択ができなかった人」。自分で選んだこと、選べなかったことまるで子を産み育てることが当然というような、両立ができていることが素晴らしいというような、仕事に専念できる女性だけが求められるような、そんな見えない「世間」からの視線と固定概念が女性たちのしなやかの心を蝕み、次第に互いの溝を深める。でもそうじゃない。どんな選択をしてもいい。みんなが自分の生きたい人生をヒールやお気に入りのスニーカーを履いてスキップで進みたい。そう思うのは自分が酸いも甘いも知らない学生だからかもしれないが、この気持ちは今だけかもしれないからちゃんと大事にしてやりたいのだ。
母という存在
自分がフェミニストであるという自覚はあまりないし、「女性だけが優遇されるべきだ」とは思わない。ただ若者の眼に映る今の社会はまだ女性に理不尽な女性像を求める。
私の母は私が幼少の頃に仕事に復帰した。教育関係だったこともあり、朝は早く夜の帰宅は遅かった。保育園や小学校の入園式は父が付き添った。(父も働いていたが、新年度に忙しい教育現場で働く母に変わり仕事を休んで来てくれた。感謝しかない)参観日に来られないことも多かったし、運動会は小学校4年生まで来てもらったことは無い。母に代わり面倒を見てくれたのは祖母だった。かく言う祖母も同じく教育関係で退職後も再任用で働くほど仕事熱心な人であった。
母は私にとって世界で一番憧れる女性であった。寂しい想いをしたことはないかと言われればきっとあったと思う。今となってははっきり覚えていない。しかし夜9時過ぎに帰宅する母を毎日祖母と待っていた。疲れているだろうにいつも笑顔を見せてくれる母が大好きだった。小学校の頃、授業で母のことを詩に書いた。部活動の顧問をしている母のポロシャツはいつもちょっと汗臭い、だけど母が頑張っている証だからその匂いが好きだという詩だったと思う。母からは「恥ずかしい」と少し叱られた。
そんな家庭環境で育ったことは少なからず自分の女性像やジェンダー観、キャリアへ影響を与えていると思う。幼少期少しだけ身体の弱かった私はたびたび学校を早退することがあった。母に迎えに来てもらうことがあったがきっと迷惑もかけたと思う。祖母も、母もきっと「女性だから」「母だから」という壁に何度どもぶつかったと思う。それでも私は母のようになりたいと思うのだ。
これは作中でバービーの生みの親、ルース・ハンドラーがバービーに語り掛けた言葉だ。私のこれまでの20年弱の人生も、この先続く人生もきっと振り返れば母はずっとそこにいるのだろう。
私たちは何にでもなれる!
グロリアのこのセリフを聞いて、私はこの映画を観ながら感じていたもやもやが少し軽くなった気がした。母親となることを選んでも選ばなくても、仕事をすることを選んでも選ばなくても女性はみんな自分の人生を自分で選ぶ権利がある。女性が男性社会で生き残る手段の一つとして「男性らしく」生きることが挙げられると思う。私も仕事で役職を得たり出世したりするためにはやむを得ないと思っていた。しかしそうではないのだ。私は女性であることを誇りに思いたいし、「女性だから」という理由に阻まれ「女なんかに生まれなきゃよかった」と思いたくない。働き続けたいけど、機会に恵まれるならば家庭を持ちたい。スカートだって履きたいし、かっこいい服も着たい。自分でいることを「幸せ」と思いながら生きていきたい。
これは別に女性だけではない。男性だってそうだ。「男らしく」とか「男なんだから」とかではなく自分が生きたいスタイルを選択できるべきである。家父長制に支配されることも、フェミニンな性格をいかした仕事に従事することだって最高なのだ。人間だれしもあらゆる可能性を持って生まれてくる!何にだってなれる!誰だってなりたい自分で生きる権利があることをこの映画は教えてくれているのだ。
最後に
随分と長くなったが、映画「バービー」を観て感じたことをまとめてきた。きっとこの映画を高校生の私が観ても、社会人の私が観てもまた違うことを感じるのだろう。モラトリアムの学生生活の中で将来に悩む自分だから感じたことがきっとあるはず。社会はほんとはもっと優しいかもしれないし、想像できない程厳しいかもしれない。それは実際にやってみなくちゃ、なってみなくちゃ分からない。
しかし今の私にこれだけ考える機会をくれた映画「バービー」に今は感謝したい。またいつかどこかで。
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