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転売規制、その先にあるもの:3 身近な問題としての書籍の絶版

本稿は、「転売規制、その先にあるもの:2 転売は悪いことなのか」からの続きです。


 では、誰が購入したのか、という本題に移る前に、調査研究という自分にとって身近な事例で需要と供給のバランスを考えてみたい。その上で、必要とする側の、転売にしてみれば購入する側の、理由に迫ってみたい。

 調査研究に着手するときにやるべきこととして、文献調査がある。それは、これからやろうとしている調査研究の鍵となる語句をいくつか絞り出し、それを手掛かりに、論文や報告書、書籍、雑誌記事などなどを洗いざらい拾い出す作業である。その代表的な作業場は、図書館だ。実物を手にして、これは要らないとか、これはここだけ複写しておこうとか、これは内容が充実しているので購入しようといった選別作業をするのである。

 複写したり、購入したりする段階で、問題が発生することがままある。複写の際の問題は、大半が著作権ってやつだ※11。細かいことはさておき、問題となるのは一点。著作権が効力を発している間は、複写が半分しか認められていないことである。書籍ならまだしも、雑誌に掲載された一編の論文を、複写係に「半分まで」と突き返された時には、閉口するしかなかった※12。加えてやっかいなのは、著者名が付されている場合、刊行から70年ではなく、その著者の没後70年ということである※13。現在では、インターネット端末で、すぐに調べることができるが、かつては、泣く泣く『人名辞典』で著者の没年を調べた記憶がある。

 一方、書籍を購入する際の問題は、絶版である。絶版とは、刊行した書籍が売り切れても、再度、印刷そして発行、すなわち再版しないことを指す。とりわけ研究成果をまとめたような専門書は、需要が少ないので、そもそもの印刷部数が少ないし、少ないから高いし、売り切れたところで、それ以上の需要が見込めないとの判断から、再版されるものは至って少ない。文芸書のように、2,3年で売り切るということが、きわめて稀だからである。

 このような状況下で、古書店が果たす役割は非常に大きい。絶版になった書籍も、流通するからである。そこでつけられる価格が、まさに需要と供給のバランスの結果を反映している。インターネット空間を通じて、古書の価格が容易に調べられるようになった現在※14、気になる本の一覧をつくり、定期的に在庫や価格の情報を収集するようにしているが、専門書の価格変動を示すと、概ね次のようになる。

 刊行されて半年から1年ぐらい経過した頃に、数量は限られるが、古書市場での流通が認められ、この時期は定価よりも安く取引される。購入した経験からいうと、著者による謹呈のしおりや、まれに手紙が入っていることがあることから見て、著者が献本したものが、読まれもせずに、古書店に売却されているといえる。それから、この時期には、読むには支障はないが、表紙などに比較的目立つ傷があるなどといった傷物商品が、安く出回ることもある。そして、その後、あまり流通しなくなる。

 次に動き出すのは、早ければ5年ぐらいが経過した頃だろうか。定価よりも高い値段で、取引がなされるようになる。この時期は、一般書店の在庫が底をついた時期と重なる。なので、時期はそれぞれの書籍によって、まちまちであり、5年で在庫がなくなるのは、専門書としては非常に優等生で、多くはもっと長い期間を要する※15。この時期は、買いたいという需要に対して、一般書店では買えないという供給不足が、古書の価格を押し上げるのである。ちなみに、アマゾンでいうところの「コレクター商品」という扱いになり、アマゾンに出品している業者の中には、べらぼうな値段がつけられることが多々ある※16。

 その後、再版されたり、文庫化されたりすると、当然ながら、高値をつけていた古書価格は暴落する。途絶えていた供給がなされた結果だ。ちなみに、専門書として賞を受賞するなど、輝かしい実績を生んだ書籍は、文庫化の可能性が高い※17。このように、専門書の古書価格もまた、見事に需要と供給のバランスにもとづいていることがわかる。

 ここまでは、図書館での作業という前提で、話を進めてきたので、これらの書籍は、例え、複写したり、購入したりできなくとも最低限、図書館内で読むことができる。困るのは、図書館にないという事態に出くわした時である。日本国内で最多の蔵書量を誇る国立国会図書館は、国内で発行された全ての出版物を納めることを定めているが※18、1948年5月25日に納本の受付を開始しているので※19、戦後、国内で出版された出版物はほぼ網羅しているといえるが、戦前に関しては、全てが納まっているわけではない。また、当然、海外の文献は限られている。

 図書館にない書籍は、古書店での扱いも格別で、まさに「コレクター商品」となり、値が吊り上がる。例え、高すぎて手が出せなくとも、存在がわかっているものに関しては、目を通す。これが研究の原則だ。なぜか。それは、この一冊の書籍が、研究成果の論拠を覆すかもしれないし、研究成果と同様のことをすでに指摘しているかもしれないからである。前者には法螺吹き、後者には二番煎じの称号がもれなく与えられる※20。つまるところ、研究者にとって死活問題にもなりかねないのだ。だからこそ、是が非でも、目を通す必要があるのである。

 個人的にはこんな経験をした。査読論文を9割がた書き終え、一息ついている時に、ふと中国専門書店から送られてきた目録に目を通した。一冊の本のタイトルに、目が釘付けになった。自分が掲げている研究テーマと、ほぼ同じタイトルの本が出版されていたからである。青ざめた。すぐさま書店に電話すると、幸い在庫はあるとのことだったので、財布を握りしめて、買いに走った※21。そして、論文の締切が迫っていたとはいえ、締切を度外視して精読した。

 結果、学問分野が違うし、論点も異なることがわかった。加えて、使っている史資料も重なっていない。胸をなでおろした。ただし、冒頭の先行研究にかかわる部分は、加筆修正することになった。先に発表したことに敬意を表し、彼の研究を書き添えたのである。これを加えることによって、先日公表された研究を見ていないのではないか、という批判をかわせし、なによりも彼の研究との違いを明確にすることで、自分の研究の独自性がより明白になる。いわば、論文としての厚みが出るのである。

 どんな条件であれ、入手しなければならないことが、時に存在することを伝えられただろうか。マスクの場合、より多くの人と関係するだけに、より身近な出来事だったはずである。そろそろ、本題に戻ろう。

転売規制、その先にあるもの:4 転売ヤーは誰で、購入者は誰なのか」へつづく

※本稿は、合同会社Fieldworkerが運営するウェブサイト「Fieldworker's Eyes」に寄稿したものの転載です。そこでは、すでに全文が公開されています。長文なので、noteには、6回に分けて転載する予定です。なお、オリジナルでは、注釈も見ることができます。

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「転売規制、その先にあるもの:5 当然の帰結としてのアベノマスク」(2020年7月25日投稿予定)
「転売規制、その先にあるもの:6 情報化社会における価値観」(2020年7月28日投稿予定)

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