想念体についてと、想念体はいつまで存在するか

非物質次元では、私たちの思いは、形を持つ。
想念は、物質的現象の「種(たね)」や「元」と言える。
この物質的体験の現実では、思いは「見えない」ものとして扱われる。
「見えない世界」を信じないという人でも、まさか自分が何も思考しないとまでは主張できないだろう。私たちはもの思う。意識的であれ、無意識的であれ。

前回の◆「人間外の世界への誘い(いざない)」に続き、今回は「想念」の話をする。
前回を読んでいない方も読める独立した内容だが、「次はこれを書こう」という気持ちになったのは、前回登場した妖(あやかし)君との体験があったおかげである。
また、その記事の中で、人間が知覚する内容は、時代や文化ごとの(最終的には本人自身の)「合意」に基づくことを書いた。

そう理解しても、「では、自分の想像と、実際に活動している霊的存在とをどう区別したらいいのだろうか」と疑問に思った方もいるのではないだろうか。

かつて行っていた個人セッションや講座の中でも、度々尋ねられたものである。
「私の想像と、見えない次元に本当に存在しているものとを、どう見分けるのか」という類の質問をだ。

この質問自体、物質世界の「常識」が絡んでしまい、質問そのものに決定的な誤解が存在している。といって、質問者がどんな区別をつけたいのかは、わかる。

回答を含めながら、想念体そのものについてと、それがいつまで存在するかという切り口からの説明をするので、物質世界の「枠」からあなたのフォーカスをより拡大するきっかけにしていただけたらと思う。

想念体について(歴史や文化の中での想念体、個人の思いによる生霊など)

想念体という言葉自体、色々な意味で使われている可能性がある。
私がここで説明するのは「思いが形になったもの」と捉えてもらいたい。
というより前述の通り、ある次元ではすべての思いは形をとると言っていいのだが、その説明は後にする。

まず、想念体の注目しやすい例をあげよう。

想念体にも色々な種類があるが、たとえば、歴史上の有名な人物の想念体がある。それは「本人そのもの」ではない。
後世の人たちが抱いている、「こういう人だと信じている」イメージが形をとり、活動しているものだ。

日本だと神社にまつられたような人々(中には名もイメージも大きく変えられている人がいる)はもちろんだし、世界だと、聖人と呼ばれる人や宗教のリーダーとされている人などの想念体もある。

私はキリスト教における「キリスト」の「想念体」を体験したことがあるが
◇2017年4月のブログ記事◆「贖いや償いの概念のエネルギー体と出会う」
今思えば、このとき出会った想念体はマイルドで、同じ人物として作られたもっと熾烈な感じの想念体もある。
なお、この後「ルシファー」に関する記事を連載しており、関連する事柄なので興味がある方のためにリンクを示しておく。人間の思う「相対的な悪」を考え直してみたい人に、おすすめする。
「ルシファーのエネルギーを見直す」
「続・ルシファーの話(外を見ているようで内を見ている)」
「ルシファーとキリスト、歴史の中の歪曲」
「”闇”が示す意味(ルシファー完結編)」

なお、イエスの磔刑についての考察は、上記リンク先に書いた内容のほかに、同じくらい可能性があると思う他の考えも持っているのだが、それ自体別にひとつの記事が必要になるので、ここでは一言添えておくだけとする。

——そのように、生きた当人とは別に「その人だと思われている想念体」が作られ活動していることもあれば、信仰や伝説の中で人々に親しまれている人間ではないキャラクターが、想念体として活動していることもある。

そうした中で「本物論争」をするのは無駄だと思える。
なぜなら、ある土地での信仰の対象は長年、その想念体に対してということで定着しているのだから。人々の中では「そういうもの」になっているのだ。そして、想念体もそれに応じる形でその役割を果たしている。
かえって、本物が登場しても本人とは気づかれないかもしれない。

これは、たとえば信仰の対象となった人物当人へ「繋がることができない」と言っているわけではない。
ただ、あまりに異なるイメージがひとり歩きしていて、教義すら変えられている場合、当人と、人々の信じている内容とが全くかけ離れてしまっている。それが信仰だとされているとますます、人々は非常に強いエネルギーで思い込みを維持するので、当人のエネルギーとは波長が合わない。
つまり、その人々は当人と接しているのではなく、自分たちの波長によってできている想念体が活動することを支持し、エネルギーを送っているということだ。

同様に、あなたが日々送り出している個人的な想念がある。
中でももし、あまりにある特定の事柄への過剰な執着があると、それが十分なエネルギーを注がれたために想念体として活動をすることがある。
「生霊」と呼ばれるものもそうだ。

執着の対象に特定の相手があれば、そのときあなたは、相手へ影響を与えていると考えるかもしれないが、実は、自分自身に影響が出る。
あなたの想念の力は、あなたに発揮されるのだ。

一方、対象とされた相手の方はどうだろう。
誰もが、自分の意思でどんなエネルギーも「受け取り拒否」をすることができるし、それ以前に、あなたとある程度同じ波長域でvibrateしていなければ(あなたとかぶる範囲が存在する心のエネルギー状態でなければ。これは◆「思考の感染について自覚する」で説明した)、気づきもしない。
つまり、あなたが「外」に向けたつもりでいるエネルギーは、あなた自身に「受け取られる」。シンプルだ。

「なぜそうなるの!?」と思う人は、しっかり理解するために、以下のように想像をしてみよう。人間関係を見つめるとき必ず役立つだろう。

ここから先は

2,975字

¥ 1,200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?