今年のヒヨの鳴き声は風鈴・地面とRangeは自分で決められる

同シーズンに同じような営みが繰り返されているという錯覚が成り立たなくなって、昨年の自分というのはすでにもう、ずいぶん遠い。別の誰かで、別の人……そのときの自分がどうだったのか、何を感じていたのかを本当の意味で今の私がわかることは難しい。たった去年のことでも。

それを言うなら半年前の自分、先月の自分、昨日の自分ですら、別の人。
連続性が幻想であるということが身をもって感じられ、かっこよく言えば「今を生きる」ことになっているんだけど。

そんな中、今年は、昨年の同シーズンに日々関心をもって耳にしていたヒヨドリの鳴き声がまったく違うということに気づいていた。
昨年(2020年)の私は周囲の野鳥にとても惹かれており、ヒヨドリの鳴き声についても複数回このnoteで記事にしている。
☆一例:◆「万年テレパシー状態に移行する【異種間コミュニケーションと全一性」
記事内の「周辺の生物ニュースとヒヨ先生(ヒヨドリ)」というセクションで、毎朝さえずるヒヨのエピソードを綴っている。

今年も、このときのヒヨとまったく同じように春頃から朝夕、今も毎日目立ってさえずる一羽のヒヨドリがいて、私は鳴き声を否応なしに耳にしているのだが……だがだが。

このヒヨドリの鳴き声、昨年のヒヨとは全然違っていて、最初は「これってヒヨドリ?」と耳を疑った。しかし、鳴き方のリズムは明らかにヒヨドリのそれであったし、日課として鳴くタイミングも去年と同じ。
けれども……。

ガラス製風鈴の響きで歌うヒヨドリと、心のずれ

声質、音の高さ、込められた情緒の感じ(いわば歌声から伝わってくる個性や持ち味)、全部去年のヒヨドリとは違っていた。別人ならぬ別鳥。
昨年に限らず長年、特に意識していなかった時も含めてヒヨドリの鳴き声は何気なく耳にしていたが、この鳥の鳴き声はその全体の中でも珍しい感じ。
同種の鳥でもここまで鳴き声が違うんだ……と、聞く度にしばらくは信じられないような、動揺するような気持ちが走った。

今年のこのヒヨドリの鳴き声は「風鈴」そっくりなのだ。それも、ガラス製の風鈴の澄んだ高い音なのだった。決して、金属製ではない。

去年は私の耳には、擬音化するなら「……ポッ、パッ、ヒヨヒヨヒヨ♪」などのように聞こえていた朝夕の歌が、今年のこの鳥はちょっと聞いただけでは「シジュウカラ?」と思ってしまうほどに音の線が細く音程は高め。そしてなんともガラスの風鈴を思い起こさせる透明質の、チリン♪と澄んだ高い声でいつでも鳴くのである。また、声質や音程の高さのせいだろうか、楽しくてしょうがないという風に際立って軽やかに聞こえるのも特徴だった。

――私はそのガラス製風鈴の鳥の声を聞くと何か心が落ち着かないような、自分は同調できない微妙なズレを感じた。
何かが違う、これじゃないという感じ。以前聞き慣れていたヒヨドリのもう少し低音成分が含まれている声の方が、音的に私の好みだったようなのだ。

きっと今年のこのヒヨの声の方が好きな人が一定数存在する。純粋に好みの問題で、こちらの方が心安らぐ美しい音だと感じる人もいるはずだ。

しかし。
そういった音の好みという理解以上に、この体験について私は気づいたことがあった。

今の私のThe most フォーカスは鳥ではないことを知る

前回の記事でちょうど象徴思考の話をし(◆「I to I, see eye to eye, 象徴思考と世界を用いた対話」)、その数回前、◆「牛の魅力にドキドキ☆」という記事内でも私はやはりシンボルについて述べた。後者は全文無料で公開している記事だが、該当部分を引用すると以下の通りだ。

『牛が好きになった今の私を、夢(睡眠中の夢も、この現実という夢も含む)に登場する事象をすべてシンボルとして理解する姿勢から見れば、牛という生き物も私のある側面、今の私のフォーカスしている何かを象徴してくれているのだな、と思う。

この地球体験をコンプリートするにあたり、生き物たちは、ひとつの存在を様々な角度から「鏡」に映した側面として、「自分」を映し出してくれている。(これを理解していれば、あなたの苦手な生物というのはいなくなるか、少なくともその存在を通してあなたに教えてくれている何かを見つめる気持ちになるのではないかな?)

彼らはあなたの一部であり、あるときのあなたが特別に惹かれる生き物は、あなたのそのとき必要なエネルギーだったり、資質だったり、ある角度から見たエッセンスの表現だったりする。
関連記事◆「あなたがどう生きたいかを、生物たちが教えてくれる」

……実は私は、2020年に情熱を持っていた体験、その年の今頃(7月)までに心を向けていた流れとくらべると、今は相当異なる関心を持っていることを自覚している。
野鳥についても、昨年の私の関心の度合と比較するなら、今は半分以下しか意識が向いていない。
好きでなくなったということはまったくないのだが、ここにきてまた惹かれる対象が大きく変わっていっているのを感じている。「また」というのは、十年程度昔にさかのぼると、私は自分が鳥をそんなに好きになるとは思っていなかったからだ(詳しくは◆「あなたがどう生きたいかを、生物たちが教えてくれる」を)。

しかし、結果として野鳥はかなり長い期間私の心惹かれる対象となり、そして今、ガラス製の風鈴のような澄んだヒヨドリの鳴き声に「これじゃない」と感じることで、「あ、今の私の関心は、鳥以外の生物に移ったのだなぁ」と認識した。ここでその変化をはっきり自覚したのだ。

しかも、そのヒヨの鳴き声が格別に美しく楽しげですらあるのだから、ますます「あ、私の感性が他へと移っていっていることの表れなのだ」と、現在の私の心が野鳥に向かっていないことの象徴として受け取りやすかったのである。

人生の錨をおろす地面と自分のRangeは自分で決められる

同じく◆「牛の魅力にドキドキ☆」で私は、地球世界上にある自分の関心を「錨(いかり)」という言葉で表現した。

地球経験に自分の意識フォーカスを繋ぎ止める錨という意味で使っているのだが、それについて私の最新の確信から、これを読んでいるあなたにシェアしたいことがある。

私はスピリチュアリティーにフォーカスした道を歩んでいくうち、自然と「この世界」に属して見えるものごとへの興味や関心、強い願望はなくなっていった。興味や関心が何も持てないという意味ではなく、「この世界」に属して見える中でのそれら、というのがポイントだ。

とはいえこの世にまだ身を置いている以上、何かはあるのだろう、そう思っていた時期がけっこう長いが、最近になって「ああ、錨をおろす地面自体を自分で位置決めしていいんだ」と確信した。
なにも過去に経験した世界、学び定義してきた地球を地面にしなくてもいいのだ。そこにはもう望むものがないのだったら、なおさらだ。

便宜上「次元」という言葉を使うなら、どの次元を自分の足をつける地面にするのか、「錨」をさす対象とするかは自分で決めていいし、決めることができる。そしてそれを自分自身の地球の経験にすればいい。
(私の場合、極めて非物質次元寄りの物質次元を地面として定着させているところ。いわゆる次元上昇。)

別な言い方をすると、自分の体験する周波数の「Range(範囲、領域)」は自分で選ぶということ。下限、上限、あなたが決める。
私たちが、自分たちの見える領域、聞こえる領域の範囲内でしか知覚・感知しないように、あなたが定めた範囲・領域内のものをあなたは自分の現実として体験する。

もし、「かつて体験してきたような地球世界」をあなたの足をつける(錨をおろす)地面にしようとすると、もう何もやりたいことや興味はそこにないと感じるなら、私のこの発見はあなたにも役立つだろう。
私に必要だったのは「自分の経験する地球世界」という舞台の底上げ、地面になる次元を上げることだったのだ。
そしてこれは、自分の意識によって実践できる。

ちなみに「Range」という語は、音域のことも表す。
音域……私の現実では、高い音域で際立って軽やかに、日々楽しげに歌っている今年のヒヨドリの存在が、Rangeを上げること、そのように変えられるということをも同時に象徴してくれているようだ。

★本記事後半の話題に心動くところがある方は、こちら◇「この世に興味が薄れたら・魂はチャレンジが好き」もどうぞ!

★生き物に関する話題で2020年から2021年への変化の続き、こちらの記事もあります↓
「クモへの今年の心情と、全生物に新たに実用したい夢」


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