概念上の柵、個人という錯覚[全文公開販売]
自然環境に、本当の意味での「仕切り」ってあると思う?
私たちはたくさんの「概念上の仕切り」を作って、まるでそれらが実在するかのごとく「そのことを前提にものごとを考える」誤りをおかすから。
他の例も同じだよ、ということを理解してもらうために、まずは「物理的にも、よく考えたら受け入れやすい」この質問から始めてみよう。
自然環境に本当の意味での「仕切り」はある? と。
一定の期間、ある特定の場を観測して「これこれの影響は、この範囲内のみに及んでいると結論できる」などと答えを出すことはあるかもしれない。
でも、それは私たちが現在計測できる範囲内、そして追うことのできる時間内での答えにすぎないことは確かだろう。
そういった枠組みを外せば、果たして、あるものごとが自然環境の「どこまで、どのように」影響を及ぼしているのかは、私たちには理解できない。
自然界に明確な仕切りはない。
どこにも切れ目はなく、全体が繋がっている。
私たちが体験に基づいて名前をつけ、現象や場所をそれぞれ別々のもののように呼んで認識しているからといって、それらが本当に完全に分かれて存在しているわけではないのだ。
国という概念だってそうだ。
外国、他国などの考えが現状の私たちの「合意」に基づく発想だということはわかるだろう。
私たちはそれになじんで生きているので、あの国が、この国が、我が国では……などの考えが自然に思える。あたかも本当に仕切りがあって、個々に区切られた別々のエリアが存在しているかのように感じているのだ。
でも、国も私たちの概念の中で定めたものであり、その合意を前提にものを考えたり、それに沿って行動したりしているというだけだ。
概念の柵を外せば、地球は地球で、その中での区切りというものはない。
だから自然環境の例と同じで、「ここにしか影響は及ばない」というような国単位の考えも錯覚に基づくんだよと説明すれば、ここまでは何となく受け入れやすいかもしれない。
では、個人という概念についてはどうだろう?
個人、これも概念上の仕切りにすぎないんだと言われたら、あなたはどう感じるだろうか。
……でも、自分は自分の体しか動かせないし、とか、
他者の心はわからない、とか、
個人が存在することの様々な「確かさ」が思い浮かぶかもしれない。
けれども、それは主にあなたの「身体を通した感覚から」そのように信じているということはないだろうか。
これを言い換えると、「ある設定をしたコンピューターの、設定を変えずにそのコンピューターを使ってものごとを確かめている」というのに近い。
設定が誤っている場合、設定をオフにしてみないと検証できない。他の答えがあるのかどうかすら確かめられないという状態だ。
では、さらに。
この問いを、地球から「宇宙」に広げてみたらどうだろう。
私は、ときどき耳にすることがある。
地球外に知的な生命・文明が存在するとしても、地球になんてわざわざ来ない、地球を見つけられない、地球に関心を持たない、などの考えを。
どうしてそう思うんだろう?
どうしてここ(地球)での物理法則や常識が、他でも通用すると思うんだろう。
そして、どうしてそうも、地球だけが特別な柵で囲われてでもいるように「孤立」しているはずだと信じるのだろう?
私たちはたくさんの錯覚に陥る。
自分たちの「概念上の柵」を、「事実」だと錯覚しているのだ。
概念の中で作った柵は、本人がそれを信じるからこそ、自身の感覚や体験をその範囲内に制限しておくことができる。
しかし、その概念を採用していない者にとっては、そのような仕切りは存在しない。
個人という観念も、地球という枠組みも、私たちが作った概念上の仕切りにすぎない。
これらを「確かなもの」と考えているとき、錯覚の中で生きているんだよ。
ここから先は
¥ 400
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?