内と外の段差はなくした方がいい【本心で生きて大丈夫よ】
あなたの心の内と、外(現実)での振る舞いは同じかな?
心の中で思っていることと、外での振る舞いがズレればズレるほど、あなたは苦しくなる。そして、あなたの体験する現実の出来事もスムーズではなくなる。
意識の「反映」が現実であるという意味では、そんなときでもパーフェクトにあなたの内側が外側に反映されるシステムなのだけど、少なくとも、自分で「自分の内と外の差=自己の分裂」を自覚していなければ、発生する問題や何かがうまくいかないことを、他者や世の中のせいにしてしまうかもしれないね。
先月私は、テレパシーについて今まで以上に集中して鍛錬をしていた。
虫たちを含む野生生物とコミュニケートすることが動機で、そうするためには人間の用いる言語やボディランゲージではなく、エネルギーや想念の次元に没入する必要があった。
そうやってテレパシーの方が「日常の現実」であるというところまで意識を調節していくと、人間世界でのやりとりが異質に思えてくる。
人間は自己分裂すること、二重性、三重性、四重性……(笑)を持つことが可能だからだ。
平たく言えば、自分の心に嘘がつけると信じているということだね。
自己分裂することは後天的に学習した結果で、あなたは自分の立場に応じて「仮面」を作るかもしれない。「キャラを作る」とか「演じる」と言ってもいい。
人によっては無意識にそうしていて、それが自分だと信じ込んで、疑わないことすらあるのかも。
しかし、あなたの内に常にある「知っている部分」は、そうした分裂状態に必ず警告を発する。
そのように生きることはまぎれもなく「自己表現のズレ」だからだ。
あなた自身をそのまま表現することが、あなたが「統合された存在」であり調和しているという「自然な状態」だ。
それは何も、ぶしつけになるという意味じゃない。むしろ、あなたがあなた自身のままであると他者を不快にしてしまう……と信じて恐れているなら、それこそが幻想だ。
そう思い込むことで、真の調和の実現に逆らっている。
あなたが眠っている間の夢には、あなたの「ありのままの状況」が現れる。
内では「嘘」なんて通用しない。それが意味をなさない次元なのだ。
あなたの心の中の状況を夢は描写し、表現し、問題があればそれを改善するために必要なメッセージやアドバイスを伝えてくれている。
だから、たとえもし、あなたが「起きて活動している間に」自分の苦しみをわかっていなかったとしても、あなたの内側の知っている自己は、夢でそのズレを修正するよう働きかけるんだよ。
あなたにとって不快な夢、怖い夢なども恐れるべきものではなく、あなたに大切なことを教えてくれている「親切な療法」であると心して眺めよう。
さて、私はそのようにテレパシーに集中することで、人間が「可能であると信じている」自己分裂のありさまに違和感を持った。
つまり、どんな人、どんな存在同士でも、必ず内のどこかで「本心を知っている」間柄だとしたら、自己を偽って演じることや別のキャラクターを作ることに、いかほどの意味があるだろう?
人間の世界ではまだ、それが「意味ある」ことのような共通認識がある。
望ましいかどうかは別として、「役立つ」とは思われているふしがある。
すなわち、心の中の動きや本心など誰にもわからないのだから、表層の振る舞いは違ったものにすることが可能だし、有益でもあると。
なぜなら人は、見ている表層をこそ「信頼する」から、という誤解だ。
断っておくが、人間以外の生物と関わるとき、見事にこれは通用しない。
私の場合は、常に自分の夢を覚えていて観察する習慣があるので、そうした幻想を抱く「度合い」はだいぶ少ない方だと言える。
内の自分(夢などで体験することができる霊的自己)と、外の自分(日常、起きている間に活動している自己)との間に、「大きな隙間、懸隔」はもう存在していない。
しかし、ちょっとしたズレ、ブレは見つけることがあり、それを今回の記事で「段差」と呼ぶことにした。
隙間というほど隔たっていない「段差」でも、もう、なくす時期にきたのだという認識がある。
文化に見る、本心を見せないようにする「癖づけ」
自己を偽る必要がある、都合のよい別キャラを作る必要があると信じるのは後天的な学習によるとすでに述べたが、ここには文化的背景も関わってくる。
もちろん、どんな文化においても、そのような影響を「採用しない」個人は存在するのだが。
たとえば日本では、道徳的には「正直さ」を重んじる一方で、何としてでも集団からはみ出さないことをかなり重視する。
そのために「本音と建前」が生まれ、同調圧力も発生する。
そこには、皆が我慢し、合意しているルールなのだから、お前も守れよ! という悲しい怒りがあるのだ。
一方で、私は過去に自分のブログで書いたことがあるが、アメリカなど一見「個人の発言が尊重される」かのように見える文化でも、その国ならではの窮屈な「本音と建前」が存在していることを経験した(ただし、私がそれを経験したのは白人家庭の中流より少し上の階級)。
2016年11月に、アメリカの大統領選挙をきっかけに書いた以下の記事でその洞察を語っている。
◆「表の顔と、裏の顔」
その発展形として、もっと個人的な経験をつづった記事はこちら。
留学時と違って、私が大人になってからは、様々な個性のアメリカの人々と出会って心を通わせたのだけどね。
◆「アメリカ留学の思い出、表と裏編」
表層的には国民性が真逆のベクトルであるかのように見える日本とアメリカ双方で「本音と建前」を経験した私にとって、風穴を開ける体験となったのが、一時期親しくしていたブラジル人講師との交流だった。
彼らはブラジル人なのだが、スピリチュアルな教えを説く活動で世界のあちこちに旅していて、私が出会った頃はイギリス在住だった。
彼ら、と書いているのは、ご夫妻だったからである。
初来日の彼らと講座以外の時間でも共に過ごし、楽しい経験を色々とした中で、私の印象に鮮烈に残った出来事があった。
ある日本食のレストラン(というか、うどん屋さん)で、初めてそのご夫妻はうどんの定食を食べた。
確か、うどんの他に、小鉢や刺身、丼物もついていたように思う。
日本食に慣れていない外国人と同席することにある程度慣れていた私は、箸を不便に思っていないか、料理は口に合っているか等、配慮することは日常茶飯事だったのであるが、それまでよく交流していたアメリカ人の講師だと、無理をしてでも「悪くないよ」「おいしい」などと言って見せることが多かった。
ところが、そのブラジル人夫妻の奥様の方が、定食に含まれる料理を一通り試してみた後で、すごくかわいい満面の笑みで、こう言ったのだ。
「ここにあるもの、私はどれも好きじゃない」
と。
衝撃だった。
こんなに感じ良く、本音を伝えることができるんだ! ということに。
私はその人のことが大好きだったが、さらに好きになった。
(ちなみにそれに続けて彼女は、初めて食べるシソが、ブラジルにいる虫と同じ香りがすると言った。旦那様や同席していた通訳さんも交えて会話し続けてわかったことは、日本でいう「カメムシ」なのではないかということだった。)
口に合わなかったということは、何も、その人の落ち度じゃない。
それに、誰かが個人的にその料理が好きじゃないからと言って、日本料理を否定することにはならない。
(実際、そのご夫妻は来日の回数を重ねるにつれ、お気に入りの日本食が出てきて日本食フリークになった。)
本当に懐かしい思い出。
彼らの率直すぎるほど率直な「心の距離感」は、意外と「気遣い屋」であるアメリカ人とは全然違っていて、私には新鮮で、温かく楽しいものだった。
それは単に彼ら個人の資質だった可能性も否めないけれど。
彼らと過ごしたシーンのひとつひとつが、心のアルバムに保管されている。
で、突然だけど、「刑事コロンボ」というアメリカのドラマを知ってる?
●刑事コロンボ - Wikipedia
うちの母がこのドラマを好きで見ているので私もいくらか、筋書やシーンを目にしているのだが、このドラマの特徴は、先に犯人がわかるということだ。
よくあるミステリーのように、誰が犯人かを探っていくのではなくて、視聴者は犯人を知っている。
そして主人公であるコロンボも、持ち前の鋭い眼識で犯人をわかっているんだよね。
だから、ドラマの中ではしれっと嘘をついている犯人をコロンボがどう追い詰め、逮捕するための証拠を見つけ出していくかが見どころになる。
私はある日、母が見ているテレビの画面を見つめながら、ああ、テレパシー的な観点で見るとこれは恐ろしいドラマだなぁ、と同時に人類はまだ、このドラマのようなことをしているのだなぁと感慨深かった。
コロンボは、犯人に対してナイスな(親切で社交的な)体で、グイグイ相手に近づいていく(このドラマのファンである母に確認したところ、コロンボ本人はおおむね素の振る舞いをしており、相手を犯人であると考えているという本音すら、そのまま相手に伝えたりもするそうだ)。
それをくぐり抜けようとする犯人とコロンボとの何気ない会話、愛想のよい振る舞い――しかし、心の中でのやりとりはどうだ?
真のテレパシーと、私たちの「無罪性」
私が言いたいのは、道徳的なルールとして「嘘をついちゃダメ」ということではない。
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