幸せ温度測定

「サワさん、サワさん」
 見知らぬ人から下の名前で呼びかけられたので、早羽は驚いて足を止めた。
 商店街のベンチから黒い学ランを着た少年が一人、今まさに立ち上がったところで、早羽の方を向いて笑っている。
 中学生のようだ。知らない子……私の持ち物に名前がついているということはないし!? 普段着で歩いていた早羽は念のため、腕にかけていたバッグも眺めてみたが、自分の名を示すものは何もなかった。

 少年の顔に見覚えはない。早羽のことをあちらが知っているとしたら、友達の身内とか……もしかして私の忘れている親戚? そう思って早羽は彼の顔をよく見た。
 どこかで会ったことがあるような、懐かしいような感じがなくもない顔だったが、やっぱり何も手がかりは湧いてこない。間もなく三十になろうとする早羽に、この年頃の知り合いなんていない。誰……?

「ここじゃなんですから、そこに入って話しましょう、ハンバーガーでも食べながら」目の前にあるハンバーガーショップを指さして、少年はにこやかに言った。

 待ってよ、と思いながら、言葉にならなかった。この子から何も危険な感じや悪い意図は伝わってこない。意味不明な状況に、少しの好奇心はそそられながらも、このまま乗っかりたくなかった。
「時間、ありません」
 早羽が無難に断るつもりでそう言うと、少年はまっすぐに早羽の目を見て、
「サワさん。時間なら、あるでしょ。僕にそれ、通用しません」と言った。

 確かにそうだった。早羽が勤めていた会社を辞めて、かれこれ三ヶ月。辞めてしばらくしたらきっとわかるだろうと期待していた、次にどんな仕事をしたいかのひらめきは待てど暮らせど訪れず、貯金を切り崩しながら生活。一緒に暮らしている彼氏が帰宅する前に夕飯の支度をする以外は今日もあてもなく近所を歩いてみていただけだった。
 時刻は午後二時十五分。まだ時間はある。

 勤めていた頃は毎日忙しくて、通勤に便利なこの街に引越してきてからちっとも周りを散策する時間を持たなかった。だから今、あちこち歩き回ったり、気になる店に入ったり、思う存分この街を知るようにしている。
 ――そんな活動も楽しかったのは最初だけ。三ヶ月も過ぎると、実はもう飽きていた。

 少年はさらにこう言った。
「僕、サワさんがここ通りかかるの、待ってたんです。行きましょう」

幸せ温度測定

 二人が向き合って座ったハンバーガーショップの二階は、まだ空席があるものの適度にざわついていて、何か妙なことがあってもここならついと席を立って出て行っても誰も気にしない、そのことが早羽に安心感を与えた。

 少年はシェイクを飲み、ハンバーガーをパクつきながら、「サワさんにこれ、見せないと」と、学ランのポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出した。自己紹介などは何もない。

 A4くらいの大きさのその紙を広げると、早羽が読める向きにしてテーブルに置いた。早羽がのぞき込むと、そこには折れ線グラフの形にされた何かの数値の推移が表にまとめられていた。

「これは、サワさんが生まれてから今までの、幸せ温度の推移です」
「は?」
「幸せ温度です。本当は幸せの度合は、数値にまとめられるものではありません。これは、サワさんに現状を自覚してもらうための便宜的な策です」

 見ると、早羽の生まれた年の誕生日から記録はスタートしている。まさか。なんで生年月日まで知ってるの。ぐらりと現実感が揺らぐ気がした。何なの、これ?

「もっと細かく表示することもできるのですが、大体半年か一年ごとにまとめて変化を記録しておきました」
 少年がそう説明するのを聞きながら、早羽はグラフを確かめていた。
 幸せ温度のピークは小学校三、四年生のあたり。五年生頃からゆるやかに下降。その後にやや回復している年があるものの、ピークの頃の数値には至らず。おおむね、二十歳をすぎてからは数値は低調で、そこだけ細かく区切って頻繁に計測されている最近は、ゼロに達するほどではないものの一桁の記録まであった。

 自分のことだからこそ、これが正しいのを知っている早羽は大きく動揺していた。
「ま、待ってよ。あなたの言っていることが仮に本当だとして、この数値はどう見たらいいの? 幸せ温度ってたとえば零下、マイナスなんてあるの?」
「ありますよ。むしろ、一時的であればその方がいいときもあります。零下まで行くと、本人が奮起するんです。あまりにもつらいから、そのままではいられなくなるんです」
 少年はシェイクをもう一口すすると、
「まずいのは、サワさんのような場合……決定的不幸とまでは感じてない、ぎりぎりマイナスとまではいかない低い幸せ温度を自分の常態にしてしまっている場合なんです。これってほぼ、幸せでないのと同じ。でも、苦しんでもがいているというほどじゃない。緩慢に死んでいくようなものです」
 そう言って早羽の目を見つめた。

 少年の目には特徴があって、青みがかったような黒い色の瞳。そして白目の部分も澄んでいて、そのせいでやはり薄青っぽい色に見える。
 早羽はその目を見ていられなくなって、自分のトレーの上の飲みかけのホットコーヒーに目を落とした。
「よくわかんないけど、あなたの話が本当だとして……それが私の現状を表しているとして。その場合、どうしたらいいの?」
 知らない中学生の少年に、こんな相談をしている自分は馬鹿みたいだとちらっと思ったが、この際、乗ってみてもいい気がする。実際に最近の早羽は、決定的に不幸だと思うことは何もないが、この生活が続くなら気が狂いそうだという感じを持っていた。何も、何もない。私の人生には希望が何も!
 このまま生きていくこと、生命を維持するための生活をしていくことは、想像ができる。でも……それだから、何なの? こんな答えのない自問自答を繰り返しては、外の景色を見たり、歩いたり、その日の幸せを数えたりすることで、極力考えないようにしていたのだった。

「サワさん。サワさんの人生は、あなた自身がつくってます。変えられるのは、サワさん自身です」
 少年の声の深みがぐっと増したように聞こえた。
 早羽は、そのトーンを心地よく受け止めながら、こう考えた。
 そうだ。きっと、私にはまだできることがある。将来何をしたらいいかはわからないけど、とりあえず、今したくないことをやめてみよう。私の生きたい人生を生きるために。たとえば、今の生活。私、本当は、ここにいたいわけじゃない。

 通勤をやめた今、早羽はもうこの街にいる意味がわからなくなっていた。街の魅力を発見することで、ここに住んでいる現状を好きになろうとしていたけれど、かつてメリットだったことが今の早羽にとってはエンプティ、何も自分にとっての「引き」ではなくなっているとわかっていた。それを言ったら、そうだ、一緒に暮らしている彼とのこともだ。
 二人がお互いを大好きで、どこに行っても、何をしても、魔法のようにすべてが楽しかったのはごく短い期間だった。それが終わってからも私たちは当たり前のカップルのように色々なことをしてきたけれど、本当はわかってる……私だけでなく彼もまた。二人にこの先なんて、ないことを。
 日々の繰り返しは、どちらからも何も言い出さなければ続けられる。今日も一緒に夕飯を食べて、お互いに、そばに誰かがいるというぬくもりを感じながら並んで眠る。私たちの幸せの温度が低いというだけで、大きないさかいなんて何もない。だけど――これをいつまで続けるの? これからの人生を共に創りたいという意欲なんてどちらも持っていない本心を隠して?  
 そうだ、まずは、彼と別れてこの街を出よう。今私が決意することはそれだよね。

 早羽がそう心に決めたとたん、早羽の盛り上がりかけた思考に、すかさず少年が口を挟んだ。
「サワさん、行動だけでものごとが変わると思わないでください。サワさんの幸せ温度が低いのはこの街や、彼と暮らしているせいではありません」

 早羽はドキリとした。心臓がどきどきして、手が震えた。なんでこの子、私の心の動きまでわかるの? それに、行動だけでものごとが変わらないって、どういう意味?
「ここから先は、僕が誰で、なぜここにいるかを言った方が効果的なようです」
 少年は、食べ終えたハンバーガーの包みをきれいに畳んですみによけてから、こう続けた。

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