ゲジが教えてくれたこと・虫と鳥と私の恋と

ある日、洗面所の壁と洗面台のわずかな隙間のそば、ごみ箱の陰のあたりに見慣れない何かを認めた。

人間の知覚は、慣れ親しんでいないものを見たときに「知っている何か」に関連付けて無理矢理解釈しようとする傾向がある。
しかもそのときは夜に近い夕刻で、まだ電気をつけておらず、全体的に場が暗かった。

私は「自分が見たものは壁の汚れ、もしくは影の様子である」と安易に結論づけた。結論づけたというより、特にまともに考えようとしなかったのだ。
自分が一体、何を見ているのかを——。

シャワーを浴びて出た後、脱衣所兼洗面所のその位置に再びなにげなく目をやると、明らかにそれは壁の汚れでも光の影でもないことに気がついた。
目をこらすと、脚がたくさんある生物だとわかったのだ。

ただ——虫であるとしたら、普段見慣れている虫よりも大きすぎる。

洗面所と壁の隙間から、ごみ箱に向かって半身を乗り出す形で壁にとまっている生物を認めた後も、一体それが何なのかが私にはよくわからなかった。
その何かは動く気が全然ないようで、初めて見かけたときと同じ様子でじっとしている。もっと奥まった位置に隠れるでもなく、半身は見えるところに出しっ放しの格好を維持している。
見える範囲だけで判断しても、全長はかなり大きそうだった。

このときは電気をつけていたので、距離を保ったままその生物をまじまじと見つめてみた。
私はまず、羽がある生物かどうかを確認した。羽があると、思いがけない形でこちらに飛んでくる可能性があるからだ。
しかし、この生物に羽はなかった。

飛んでくる可能性はなさそうだとわかったし、相手から穏やかなエネルギーしか伝わってこないので、私の内に恐れは湧いてこなかった。
ただ、半身しか見えないながらも外見がかなりドラマチックである。

エビ、もしくはサソリに似た何か。
私が持った感想はこれだった。
蜘蛛ならば大きなものをたまに見かけるが、蜘蛛にしては脚が多すぎるし、立派な触角もある。
エビやサソリがここにいるはずがないことを思えば、虫なのだろう。
ムカデだろうかとも思ったが、私の記憶の中にあるムカデは全体的に細長い胴体のインパクトが強く、まず胴体の長さに目がいってサイドに脚、という印象だったはずだ。こんな風に脚や触角が目に迫ってくる虫ではなかったと思った。

短時間で私はそう考えつつ、差し迫った問題は、この生物をどうするかだった。
このままにしておくと、間もなく次にシャワーを浴びる家族がここにやって来る。これほど大きな虫を見つけたら、家族は驚くのではないか。

今住んでいる家は大自然に囲まれているような環境ではないものの、虫の活動が活発な時期には外から紛れ込んでしまった虫を含め、そこそこの頻度で虫が出る。
近年、そうした虫を見つけて捕まえて外に逃す役割はだんだん私が担うことが増えていた。たとえば皆が寝静まった後に執筆していると、ひとりで虫と対面する機会が多くなる。周囲がしーんと静まった時間帯に無言で虫と向き合う経験がわりとあった。

そういう事情も併せて諸々考慮すると、今、みんなが活動しているこの時間にリアルタイムで報告しておいた方が気が楽ではないか。
そう考えた私は、すみやかに「エビやサソリに似た姿の大きな虫がいる」と家族に知らせたのだった。

しかし、ここで私は告白しなければならない。
こう伝えることによって、その虫が殺されてしまう可能性があるとわかっていたのにそうしたのだ。
自分が本気で怖かったわけでも、虫が何か危険な行動をしてみせたわけでもなかったのに、そうした。
強いて言えば、そのあまりにドラマチックな外見に、「うわっ、これは家族にも知らせなきゃ」と感じてしまった。私がかつて「虫が苦手だった頃」の習慣に応じてそう考え、行動したのだ。

これを読んでいる方に安心してもらうため結論を先に書くと、虫は殺されずに難を逃れた。けれども私のこの行動のせいで、虫に大変怖い思いをさせてしまったことは想像に難くない。

私は後でこの虫のことを調べ、一体どんな虫であったかを知った。

以来、「ごめんね」と心の中で謝りながら、虫がいた場所を度々眺めるのだが、危険を感じさせてしまったその場所にも、家のどこにも、再びその虫が姿を現してくれたことは今のところない。

ここまでが、この記事のプロローグである。

ゲジが教えてくれたこと

あなたは、ゲジ(伝統名称ゲジゲジ)という虫を知っているだろうか。
私はその名前にこそ親しんでいたものの、実態を思い浮かべられるほどには理解していなかった。

優美に長いたくさんの脚、おとなしい性質、そして、あなたが「家に増えてほしくないな」とおそらく思っているであろう虫たちを食べてくれる虫だ。

●ゲジ - Wikipedia

そう知れば、ゲジを恐れたり嫌ったりする理由は何もないことがわかる。
しかし、この虫への知識がないと、その大きさや外見から駆除しようとしてしまうかもしれない。

私が今回遭遇した虫は、この「ゲジ」であったことを後で調べて知った。

自分の家にいたゲジのエネルギーがとても無防備で穏やかなものだったことを私は忘れることができない。
その顔も、よく見るとかわいいと感じるものだった。

画像1

(↑ウィキペディアの画像より。海外のゲジの一種の写真。
本当はもっと大きく載せた方が美しさがわかるのだが、苦手な方もいるかもしれないので、このくらいのサイズで。)

益虫・害虫というのは人間が作った区別だ。
ゲジが人間の役に立つ虫だと知ったからではなく、私自身が直に接したゲジのエネルギーが前述した通り優しく穏やかなものだったために、
「何の敵意もなかった虫を追い詰め、『駆除』しようとした」
自分のあり方をとても反省し、ゲジに対しての申し訳なさで胸が痛んだ。

自分たちが「家の中」と定めた場所内にゲジがいたこと、その大きさと外見にびっくりしたこと、それだけでゲジを脅かすなんて言語道断だった。

この出来事で不幸中の幸いだったのは、私からの報告を受けて正体不明の虫(ゲジ)を怖がった母が、すぐさま父に駆除を頼んだのだが、父がそうすることをかなり嫌がったという点だ。
父は虫好きというほどではないし、植物の手入れなどで虫を駆除することには慣れているが、不必要な殺生には気が向かなかったと見える。
私の示した場所にゲジを認めると、
「こんなの、家のどこにでもいるよ! 蜘蛛の一種だよ」
と怒って言い、しぶしぶティッシュでゲジを捕まえようとして、かえって手の届かない奥の方へゲジを追いやってしまった。

おかげで、ゲジは無傷のまま逃げることができたようだ。

しばらく後になって夕食をとっている父に、
「調べたら、あれはゲジだったよ。蜘蛛じゃなかったよ」
と私が伝えに行くと、涼しい顔で、
「知ってるよ。悪い虫じゃないよ」
と答えた。
私も、「そうだね」と答え、父が本気でゲジを殺そうと行動しなかったことに感謝した。

こうした出来事が深く心に残った理由のひとつには、今年に入ってから私はこれまで以上に著しく、日常に存在する「身近な自然界」への関心を深め、学んでいるという事情がある。
この関心の二つの柱となっているのは野鳥と虫で、虫に関してはその大部分を苦手になっていた時期があるだけに「世界が一変する」と言っても大げさではないほどの違いが生まれている。

その変化全体を振り返れば、何年もかけて進行した結果が今に至ると言えるのだが、自然への愛が深まれば深まるほど、どの生物も除外できないことを実感するのは当然の道理だろう。
と同時に、一度身につけてしまった苦手意識や拒絶反応などを修正するためには、細かく見ると何段階ものステップを踏んだことも事実だった。

たとえば、近年最後の一人暮らしをしていた頃には、家の中で遭遇するのが最もいやだったゴキブリに対し(その前から徐々に気持ちが変わってきてはいたものの)、ついに自分の感じ方が「完全に間違っている」と心の底から悟った体験があったし、
(該当記事はブログの◆「自然界の仲間の声にもっと耳を澄ますには」
カテゴリー★異種間コミュニケーション(多様な生物とのお話し)★には、他にも色々な自然との交流にまつわる記事がある。)

今年に入ってからは、蜂たちに抱いた愛情によって虫全体への思いが劇的にアップデートされたという経験があった。
(該当記事はnoteの◆「蜂が開いてくれた扉・夢は現実のラフスケッチ」
自然や生物についての話題をnoteでは主に★「日常生活」マガジン★に収録している。)

それなのに、まだ! ゲジに対する自分の態度に「虫への先入観や差別」があったこと、さらには漫然と「古い習慣を演じている」自分がいたことにも気づかされた。
つまり、ゲジを見ていたその瞬間リアルに自分が感じていたこと(平常心や、ゲジから感じる穏やかなエネルギー)をそのまま認めるより、「過去の自分ならこうするであろう」という行動に従い、そちらを選択し、実行したのだ。

本当はもう、虫は気持ち悪くも、恐くもなかった。
奥にある真の自分に従えば、ゲジを脅かす必要などなく、むしろ観察の機会として感謝できたはずだった。

過去ではなく、今を生きなければ。

生物への興味を認めつつ、恐れを持っていた頃の反応と行動を維持したままで、彼らから学ぶことができるだろうか。できるはずもない。

同時に、人間の住んでいる家をまったく虫の出現しない環境にすることは「不自然」であるということも思った。
見えるところ、見えないところ、色々な生物が共存していて、その全体像を知らないままある状況を「良い・悪い」と判断することはできない。
ゲジと対面したことで、色々な生物が一緒に生きている環境がいい、ゲジにそのまま家にいてほしいと自分が感じていることに、改めて気づかされた。

野鳥の心に同調すると・様々な食事情

ところで、私の現在の強い関心のもう一方である野鳥を観察し、彼らの心に同調するようになると、虫は食料としても重要な役割を果たしていることが見えてくる。

環境問題への意識が高い人などが「昆虫食」を提案していることがあるが、私は以前は、自ら実践したいと思えることはなかった。

それが、鳥を好きになるとどうだろう。
虫を見るにも「鳥目線」が加わり、栄養源として素晴らしいもの、おいしいものとして認めることができるようになるのだ。
私が食べたらどんな味がするのかな、という興味すら生まれてくる。

これに似た感覚を思い出すと、私は子供の頃、飼っていた金魚やカメ、リス用の餌を味見してみたことがあった。
彼らがあまりにおいしそうにパクつくのを見て、「どんな味がするのかな」という好奇心が抑えられなかったのだ。

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