内と外は同じものだと気づくこと(五感すらも……)

色々な分離をなくしていっている昨今。変化は「内」からしか始めることができないということをこれまでも伝えてきたけれど、私たちが体を通して、体を自分としてものごとを体験している間は、この「内と外」という概念が有効で、それぞれが異なるものを指しているかのように感じられる。
「INside(内側)」「OUTside(外側)」と言うとき、何かを基準に内だ外だと言っているはずで、その基準をどこに置いているかと問えば、「自分自身だと思っている、これ(ほとんどの場合は体)」の内か外を考えている。
漠然と、心や意識は体の「中に」あり、「外ではない」といったイメージを持っている人もいるかもしれない。外には、客観的現実や皆と共有している事象などの「外界」がある、という具合に。

もしくは、内と外という概念について「自分の心の内か外かを考える」「意識の内か外かと捉えている」という回答が思い浮かぶ人がいるかもしれないが、心と意識をどう定義しているかという言葉の違いは置いておくとして、あなたの心や意識の「中に」全体験があり、その「外というものはない」のだ。

であれば、次の点も理解しやすくなるだろう。
私はこの間、ライブ配信中の質問に回答するうち、エネルギーの見え方についての話をしていた(該当するのは★2023年4月8日のアーカイブpart2)。
そのとき、あくまで私自身のケースとして、いわゆる「心眼」のように内の視覚で見えているエネルギーと、肉眼で見えているエネルギーとに言及したのだが、このとき本来なら「けれども本当は……」と、私たちの知覚にまつわる続きの解説を入れたかった。それだけで別の回が必要になりそうなのでやめておいたのだが。

そのとき言いたかったのは、「私たちが肉体の器官を通して知覚している『外』も、実は外にあるのではない。視覚に限ったことではなく、内にあるものを外にあるかのように私たちは知覚している。この意味において、肉眼で見ることも内なる目で見ることも違いはない」……ということだった。

まさに私たちは「投射機(projector)」のような働きをしていて、その結果がこの世界の体験まるごとだと言えよう。
「五感」とは、肉体の五官を通して経験していると私たちは錯覚しているが、肉体に「依るものではない」のだ。

この構造をもっとわかりやすくするために、詳しく掘り下げてみよう。

文字通り、あなたがこの世界を作っている

――それでは、客観的現実というものは「ない」の? と、戸惑う人が出てくるかもしれない。
「物理的」現実と思っているものですらも私たちの意識が作っている。ただし、この世界をある程度共通した外観・形態のものとして共有するための「ソース」的な仕組みはある。

この世界という表れを、コンピューターでたとえると

ごく身近な例として、ウェブサイトをいじったことがある人なら、コンピューター言語で記述し、指定することにより、ある程度は共通の外観や構造を「どのブラウザやデバイスから見た人にも再現できる」ように作れる体験をしているだろう。

まさにそのように、地球世界を体験する際のデータのソースはあるが、私たちがそれを元に「用いて」各々の現実を創造している。
その結果、経験している世界は本当に各人異なる。同じ時に同じ場所にいたとしても、「どこを見ているか」「何に注意を向けているか」という視点の問題だけでなく、違っているのだ。
つまり共通のソースを参照していても、各々異なるデバイスやブラウザを使っているケースを考えてもらうと、「似ているようでもそれぞれの表示(体験)は違うんだな」と理解しやすいだろう。

加えて、各々の観念そして感情や思考によって「どの」現実を体験するかのチャンネルを選ぶという要素もある。さらには並行現実では、同じ時、同じ場所にも異なるバージョンがある。
私たちは、そうではないのに、あたかも他者と同じ現実を体験しているかのような幻想のもとで生きているのだ。
言い換えると、これは合意の上での「ごっこ遊び」に似ている。

体験の仕組みと、統一した理解【原因と結果】

こうしたことを踏まえて、「内と外」の話に戻ろう。
私としては、以後はこんなシンプルな認識の仕方を提案したい。

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