時の連続性という錯覚をほぐし、時を素材として扱う

先月(5月)の中旬くらいから、家の周りではムクドリが繁殖期を迎えており、ものすごい活気だった。
それまでは他の鳥の鳴き声の方が主に耳に入っていたのに、日がな一日ムクドリの鳴き声と、飛び回る姿を目撃していた。

そして今、6月に入ったら、ムクドリたちの活気はそのままに、活動内容に変化が表れている。
今度は雛の「巣立ち」の時期に入ったようだ。子連れの家族ムクドリの姿をよく見かける。その賑やかさといったら、「ここはムクドリの王国か?」と思うくらいだ。
なんてったって主役はムクドリで、頭上ではムクドリの多家族ご一行様が忙しく活動しており、人間(私)は首をすくめて歩く気持ちになる。飛行訓練とか色々やることがあるんだろうね。

最近も早朝には引き続きシジュウカラの「ツツピー、ツツピー、ツツピー」というあの特徴ある鳴き方をはじめとするかわいい声が優勢に聞こえるのだが、以後の時間、このあたりは圧倒的にムクドリ王国なのだ。
それまでほうぼうから聞こえていた色々な声、たとえばキジバトも、スズメたちも、今のムクドリの勢いの前ではかすんでしまう。

振り返ると、冬の間から春先にかけてはヒヨドリの存在感が大きかったし、2月頃から早々と繁殖期に入って営巣を始めていたのはカラスたちだった。その後はシジュウカラが繁殖期で活発になり、今度はムクドリだ。
こうして鳥の様子に注意していると、鳥の季節時計ができてくるね。

もちろんあなたの暮らしている地域では、そこに生息している鳥たちのまた異なる営みがあることだろう。
私にとっての時の推移はこのように、鳥をはじめとする自然界の様子を感じながら実感するというのが最近の主要なあり方になっている。
それが自分と地球との「繋がり」として機能しているようにも思える。

逆に言えば、私生活において、カレンダーなどで見る暦に沿った「時」への認識は、めっぽう薄れた。
ほぼ意識していないと言ってもいい。

昔はまだ、たとえば月の満ち欠けを意識する方が西暦より自分に合っているなとか、文化ごとに異なる「暦」への軽い興味を抱いてみた時期もあったのだが、現在は「どの」暦を参照するかではなく、暦そのものに関心がない。
どうも、時との向き合い方がすっかり変わってしまったのだ。

ここに至るまでには、一日一日を独立した「日めくりカレンダー」のように感じていた時期もあって、自分のブログを調べるとそれは大体2016年の11月頃からだったようだ。こんな記事を書いていた。
「『今』を生きると執着が薄れるのか」

しかし、しばらく続いたその感覚もとっくに変化し、すでにしっくりこなくなっている。
現在私が持つ「時」への感覚は、一日一日独立した「日めくりカレンダー」のようではないし、かといって暦が示すような特定の概念の「繰り返し」でもない。

ではどのようかというと、もやもやした渦巻のような、これから使いこなす「素材」という感覚になっている。自分の使い方次第でどうにでも変化する柔軟なもの。

時を素材と感じる以上、それを使う者であるという認識、「主体性」に近い感覚があるわけだが、それは通常の「自動的に時は流れる」という時間感覚とはだいぶ異なるものだ。

時の連続性をほぐす作業

まず、以下のことから認識しよう。

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