自由を恐れるとき、何が起こっているか【創造者として独り立ちする】

いかにもそれを欲しているように「自由がほしい」と言いながら、不自由でいることの方が結局は安心するんだな、と見受けられる場合がある。
自由が手に入らない「憧れ」である間は安全だが、もし本当に自由になってしまったら「何をしたらいいかわからない」「やりたいことが見つからないかもしれない」など、本人にとっては「現状以上の不安や恐れ」を伴う考えがあるようだ。ただし、それらの表面上の理由は恐れの正体ではない。

どんなに文句が口をついても、日々の憂鬱さやむなしさ、苦しさが大きくなっていっても、自分を縛っているまさにその不自由さが「私には必要だ」と感じていて、それを手放さないのは自分自身なのだ。
出たいのか、出たくないのか。変えたいのか、変えたくないのか。
長くその「間」にいて、答えが出ない。すると、そんな自分の心を直視する代わりに、あたかも状況や他者があなたを「留めさせて」「現状を強いる」かのような現実も経験する。
こんなとき、ありのままに、あなたが何を恐れているかに気づくことでしか答えは得られない。

恐れは錯覚だ。恐れを手放すとは、自身の中にある誤解を解くということである。

安全という名の幻想と、真の安全に気づくこと

生まれたときからずっと、自分は「完全に自由だ」と感じて生きてきた人は少ないのではないだろうか。
たとえば日本なら義務教育の年齢になったら規定通りに学校に行くことが、その次は社会人として何らかの形で働くことが、ほとんどの人に課せられ、歩む道として示される。大人になるともっと選択肢があるように見えるが、独自の道を行くには社会が提示する「最も安全な道」から離れる覚悟が必要だと感じている人もいるだろう。

この場合の「安全」とは何だろうか。
具体的には、人それぞれの回答があり得る。中には、「人の目」「親や家族など身近な人の目」を含む「人間社会からの評価」が良いこと、人から承認してもらえる状態を「安全」と考える人もいるかもしれない。

他には、私たちの肉体の維持、生存が関係してくる。
意識的にであれ無意識的にであれ、衣食住など「生きるため」に必要なものや条件を思い浮かべ、それらを確保したいと思う。肉体の維持を脅かすことは「安全ではない」と感じられる。
すると、現代社会では、衣食住に交換が可能で「確かさ」も備えていそうな「お金」に思考が行きがちだ。この発想に続いて「お金を得るための仕事」という考えも控えている。そうだ、お金を得るために働こう!

現代において格別不思議に思われそうもないこれらの発想は、本来のあなたである「霊的存在」のあり方からはズレている。
霊的存在としての「私」が、衣食住などの物理的なニーズを無視するという意味ではないが、それらを「第一目的」にしていないことは確かだ。

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