地球世界への違和感の根本解決
人間は、自分で自分の進路を塞いだり、人生に苦しみを作ったりすることができる。自分にとって「デメリット」と感じている何かがあっても、それを作っているのは自分自身だ。
そんなバカな、なぜわざわざそんなことをするんだ! というのが、通常の私たちの「表層的」反応だが、深いところでは知っている。
「より恐れているものに直面しないで済むように、それら(デメリット)を利用しているんだ」と。
つまり、問題に囚われたり、解決できない何かに苦しんだりすることは、「本当の恐れ」を覆い隠すために役立っているのだ。
それまで避けていた「根本にある恐れ」を「全く恐れる必要がない」状態になったとき、その確信を持てたとき、「人生に様々な困難を作って、それを利用して根本の恐れに直面することを避ける必要」も消滅する。
恐れについて、この仕組みを理解することは何よりも大切だ。
別々に見える恐れは全部繋がっている。
大元に何があり、自分は何を信じているからそうしているのかを見極めなければ、「表現を変えるだけで別な恐れをまた作り出す」ことを繰り返す。
根本的恐れの表現として、人間の心には「無価値感」や「罪悪感」が起こることがあるが、私に関して言えば、それらはもう残っていない。
特に、無価値感についてはこう言えるのだ――自己を無価値と信じるためには、創造主(真の自己・森羅万象の源)への不理解が必須となる。自分とは何なのかということや、源を完全に忘れている状態で、はじめて可能になる信念だ。だから、真の自己を思い出したら、無価値感を「リアル」に感じることは不可能なのだ。
ただし、私にとって、「実人生にデメリットになっているが、残存し続けている」とわかっている、ある要素があった。
それは、「地球世界にフィットしない」という感覚だ。
「地球世界への違和感」と言ってもいい。
なぜこれが実人生へのデメリットになるのか、問題になり得るかというと、私が違和感を持っている地球世界とは「自分の中に」あるからだ。
私の外に、地球世界があるわけではない。
私は私の意識の中に地球を持っていて、その地球に違和を感じている。
ということは、これは自己内での「隙間」であるし、私が違和を感じている限り、自分の「外」に見える現実にも、その違和を「形にする現象」を手を替え品を替え、具現化し続けることになる。
これまでの人生を通して、なんとか地球になじもうとする自分と、違和感を持ったままの自分との葛藤があり、完全解決はされなかった。
「死ぬまでという期間限定のこの人生」だからと割り切って地球世界に浸り込むか、まったくそこになじまない人間のまま「別な生き方」を模索するか、どちらかしかないとかつての私は考えていた。
この人生の途中までは前者を採用し、自分の関わる地球世界の中で、人間としてなじんでいこうと最大限の努力をした。しかし、それが自分のよろこびにはなり得ないことを悟ってからは、別な生き方を体現することにしつつ、そうしていてもやはり根本的な「地球世界への違和感」はなくならないことを実感していた。
私の持っているこの感覚が、人生に与えていた具体的影響の一端は、
◆「家族がNext Stageに入ること」や、
◆「Extremely Ahead【取捨選択の実り】」
という記事の中で述べている。
この葛藤が未解決のまま、自己の「外」に解決を見出そうとしてしまうケースもある。たとえば精神世界やスピリチュアルといった分野でこれが誤った形で取り扱われると、教義や人や霊的存在や他の星などを自分の「HOME(故郷)」に指定してしまい、心の拠り所をそこにおき、地球世界に感じている葛藤を「大切に取っておいてしまう」。
私はそれをおすすめしない。根本を直視しておらず、自己分裂は温存されるからだ。
ここ最近私は、自分の持ち続けている地球世界への違和感に、エンディングをもたらす時期がきたと強く感じていた。
違和感自体には役割があった。他の恐れ同様、過去には役立っていたのだ。
それは私の人生に「必要だったプロセス」の一環だったのだが、もうそれが要らなくなる。
地球遊園地の中から選ぶよろこびは、真のよろこびではない
地球世界への違和感は、多かれ少なかれ誰もが持っているだろうと私は思うのだが、どうだろう。
果たして、この地球世界に大満足していて、生まれてから死ぬまでこの世界が好きで好きしょうがない、もっといたい……という人はいるのだろうか。
私はそういう風に思ったことがないので、そんな人がいるのかどうかもわからない。生まれてこの方どうしても、この世界の体験は一時滞在なのであるという気持ちはなくならなかったし、必要以上に長居したいと自ら望むことはなかった。
といって、人生やこの世界を嫌っているわけではないし、幸せも、よろこびも感じてきた。
でも、意識が「この人生(物理的なこの世界)」に向いている以外のときの記憶も認識もあって、「真のよろこび」を忘れることはできない私からすると、この世界は良く言っても「束の間によろこびが差し挟まれる悪夢」だと感じる。
ベースには悪夢があるのだが、日常ではある程度、その事実を覆い隠すことが可能だ。世界のどこかでは殺し合いやひどい状況があるかもしれないが、自分の生活圏内ではそんなことはないのだと「心を保つ」というような。
しかし、世界全体が自分の意識内にある夢だと捉えれば、現状はまだ悪夢である(その要素が残っている)ことには変わりがない。
人間は、その要素に巻き込まれないように、自分なりに安全をはかりつつ、自分の思う幸福や成功や自己実現を追い求める。形にしようとする。
この状況を、「地球遊園地」にたとえてみよう。
以前から記事を読んでくれている方にはおなじみのたとえだが、地球遊園地の中にある遊具を「好きに選んでいいよ! 自由に遊んでいいよ!」と言われても、その中で選ぶこと・遊ぶことは真の自由ではないし、本当に自分で選んでいることにもならない。
これはペットの世界にも似ている。
飼われている状況なので、用意された環境の中で楽しいこと、興味を持てることを探す。そして、その範囲内で生きる。
世界とはそういうものだ、それしか世界は無いんだと信じていれば、選択肢はその中におさまる。もし、それでは満足できないと気づいていても、自分の感じ方を調節し、自分の心を説得し、あきらめることになる。
しかし、地球遊園地の「外に出たい!」という自分の望みに気づいてしまったら、遊園地で遊ぶことではなく、遊園地から「出る」ことが目的になる(他の記事でも繰り返しているが、「死ぬ」ことは「出る」ことではないので注意。私たちは今も「体があるせい」でここにいるわけではない)。
出ることが目的の者にとって、遊園地内の遊具は興味の対象にならないし、プロセスの途上で遊具を使用する、遊びに参加することになったとしても、そこから得るもの・抽出するものは「出るためのインストラクション」だ。
この世界で、「選択しているつもりになっているが、選択肢はちっとも自由ではない」ということに気づいたことがある人は大勢いるはずだ。
ここでも、自分の「外」に何かがあると信じている人は、何らかの仕組みや権力や特定の人物(あるいは霊とか宇宙人とか神とか)のせいにする。
自分のそうした経験を、誰かや何かから「強いられている」と思うのだ。
そして、仮想敵に対して戦っているつもりになるかもしれない。
「悪の仕組みを崩壊させる」「やっつける」という考えは地球上で散見される。それは犬が自分の尻尾を追いかけ回すような行為だ。
あなたが経験する世界とは、自分の精神と地続きな世界であり、それ以外のものではない。
あなたが「違和」を感じているということは、自分の内に隙間がある、分離があると気づいたということだ。
私はこの「違和感」の効能をしっかり考えてみた。
明らかに私は「意識的に、地球世界にフィットしたくないと思い続けている自分がいる」ということを知っていた。
その自分がいる限り、私はずっと地球に違和感を持ち続けるだろう。
しかも、この違和感は何をしていても、どう生きていてもずっと続いてきたので、ただ否定や無視をしても解決しないことはわかっていた。
では、地球への違和感は私の人生にどう役立ってきたのか。
これを完全に理解したとき、次のステップ、解決とは何かがわかった。
その理解の下地には、度々経験した「明晰夢」があった。
明晰夢の経験が答えそのものだった【違和感の役割と解決】
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