〈われ在り〉は奇跡なのか? ――誕生奇跡説vs転生説【哲学】
死生観に関連する内容です。苦手な方は注意して下さい。
理想的な死生観というより、「信仰心、スピリチュアル、道徳抜きでもこれくらいは言えるのでは?」と思っている内容を書いています。こんな考え方をする人もいるんだなぁ、くらいの気持ちで読んでいただけると幸いです。
死生観の話をするのには気恥ずかしさや、気まずさもありますが、元々リアルでは話しにくい話題も載せたくてnoteを始めたのでした。
暴投覚悟の記事です。
1 誕生奇跡説について
『性交で発射される精子は3億、だからあなたが生まれたのは3億分の1の奇跡だったんだよ』
こんなお話を聞いたことはありませんか?
私はたしか中学生の頃に保健の授業で聞かされました。
この計算には深刻なつっこみどころが複数あります。
単純な問題は、「その性交」が起きた確率が無視されていること。両親が性交に至るまでは100%確実だったが、そこからあなたが選ばれた確率は3億分の1なのだ、とするのでは一貫性がありません。
私があの父親とあの母親からしか生まれないとするなら、あの父親とあの母親が生まれてこないといけません。性交の場面に限っても、父親も3億分の1、母親も3億分の1を引き当てねばなりませんでした。こうなると、あの父―母から私が生まれる確率は、1/(3億×3億×3億)になるでしょう。
同じ理屈は祖母・祖父合計4人にも当てはまりますし、以下同様。実際には、歴史上近親交配がたびたび行われていたことなどを考慮する必要があるため、この計算をそのまま続けていくことはできませんが、世代を溯るほど先祖が増えていくことは変わりません。ホモ・サピエンス誕生は15万年前、ヒト亜科を含めればその歴史は500万年とされています。これだけでも途方もないですが、起源を問題にしている以上、有性生殖の始まりどころか、最初の生物まで辿らねばなりません。
また、以上の計算方法では、宇宙が誕生した確率、地球が誕生した確率、生命が誕生した確率、人類が誕生した確率や、父親と母親が出会う確率などの偶然事を考慮していません。繁殖の場面だけに着目しているのは話を単純化しすぎです。
俗に言うバタフライエフェクトは常に起きているもの。5億年前に三葉虫が一匹余分に死んでいれば人類は誕生しなかったという指摘もあります。
もちろん、人類が生まれたからといって私が生まれるわけでもなく‥‥‥。
どう甘くみつもっても、私が生まれてきた確率は3億分の1とか3000那由多分の1とかいう高確率にはなりそうにありません。
2 よくある反論は的外れである
誕生奇跡説に対して次のような反論がよくなされます。
しかし、この反論は的外れです。この反論は「生まれてくること」が「問いを発すること」の必要条件であると言っているだけであり、謎と関係がありません。確かに「誰であれ問いを発する者がいるならば、その者は生まれている」という主張自体は正しいのですが、それはその者が生まれてくる確率の高低について何も示唆しません。
一等が三億円の宝くじに喩えていうなら、「外れくじを引く確率の方が圧倒的に高かったのに、一等が当たったなんて奇跡的だ」と当惑する相手に、「賞金の三億円を手に入れたのは、君が一等を当てたからだ」と応じているようなもの。確かに一等を当てたことは賞金三億円を手にすることの必要条件でしたが、だから何という話。「私が一等を手にすることの確率の低さ(=不自然さ)」に関して何の説明にもなっていません。
3 誕生奇跡説と死
ここまで誕生奇跡説に有利なことを書いてきました。
誕生奇跡説は私の誕生をたぐいまれな奇跡的な事象として扱います。そのためからか、「人生は一度きりであり、私は死をもって永遠の無に帰す」という世界観とセットで持ち出されることが多いように見えます。
論理的に言えば、誕生が奇跡だからといって死後が無であることにはなりませんが、〈あの受精卵から生じて死ぬまで〉のみが私であるならば、そう連想されるのも無理はないでしょう。
しかし私は誕生奇跡説には深刻な問題が複数あると考えています。また、私が考える対案は、結果的に「死後は永遠の無である」説も否定します。この立場からすれば、〈われ在り〉は自然と発生し続ける事象です。
4 対抗仮説:輪廻転生と多宇宙
誕生奇跡説がもつ問題のうち、ここでは二つとりあげます。
問題1 私はあの受精卵からしか生じなかったのか? ――対抗仮説:輪廻転生
第一に、〈私はあの受精卵からしか生じなかった〉という前提が不確かです。「AがBから生じた」からといって、「AはBからしか生じない」とは限りません。
他の受精卵からも私が生じえたならば、私候補は複数あったことになります。ひょっとすると全ての意識的存在は潜在的に私候補であり、どこかの身体からでも〈私〉は生じたのかもしれません。宝くじで喩えるならば、「実は一等は複数(ひょっとすると無限に)あったのだ」というわけです。
むろん「私はあの受精卵以外からも生じた」と直接的に証明する手段は多分ありません。しかし、当たりクジの総数が分からないクジを引き、当たりを引いた場合、当たりは一つしかなかったと考えるよりも、複数あると考える方が自然です。同様に、私クジに当たりが複数あると考えるのも自然ではないでしょうか。
それに「私はあの受精卵以外からも生じた」はそうおかしな話ではないと思います。ある意味で、私の本質は身体であるより意識だからです。私の身体は10年前とは細胞単位で随分と異なりますが、私は私。じゃんけんでグーを出すかチョキを出すかで脳内の活動は随分異なるでしょうが私は私。
さらにデカルトの方法的懐疑風に考えれば、「歩く、ゆえにわれあり」「この脳あり、ゆえにわれあり」「あの記憶あり、ゆえにわれあり」「あの受精卵あり、ゆえにわれあり」等々は疑いえる一方で、「意識あり、ゆえにわれあり」は疑いえません。意識の存在こそが「われあり」の本質的内容です。
つまり「意識あり」以上の内容は、衣服と同じく、私の存在にとっては非本質的なのかもしれません。〈われ〉の身体や記憶内容が岸田文雄のものと一致するか、貴方のものと一致するかさえ〈たまたま〉でありえるということです。まぁ、そういう世界観が整合的なものとして思考可能だということで、それが現実であるという直接的証拠はないですが。
私があの受精卵以外からも生じうるのなら、死後に別個体として転生しても何らおかしくありません。これは輪廻転生の可能性を示唆するものです。
問題2 世界は一つなのか? ――対抗仮説:多宇宙→死に戻り、永劫回帰
第二に、〈世界がただ一つである〉という隠れた前提も証明されていません。世界が複数実在するのならば、そのうちのどれかが〈私〉を引き当てる確率も上昇します。あらゆるパターンの世界が実在するならば、そのうちのどこかに〈私〉は確実に存在するでしょう。宝くじで喩えるならば、「実はくじを引いたのは複数回(ひょっとすると無限回)だった」というわけです。
宇宙物理学内ではマルチバース(多宇宙)仮説が有力説になっているようですから、こちらのアプローチに関しては説得力を上げていると思います。
結論部分だけの紹介で申し訳ないのですが、宇宙物理学者のマックス・テグマークは物理法則と矛盾しない可能性はマルチバースのどこかですべて実現するとしており、次のように書きます。
なお、テグマーク説は専門的見地からいってバカげていないようです(須藤靖『不自然な宇宙』講談社 2019年など参照)。
もっともテグマークを含め、宇宙物理学者たちは専門家としての慎みから死生観にまでは踏み込みません。が、素人たる私は無遠慮に突き進みます。
多宇宙論からは、二種類の転生説が追加されると思われます。追加、というのは輪廻転生の可能性を否定するものでもないからです。
死に戻り 一つは死に戻りです。あの受精卵と物理的に同一の材料から生じた可能性ならば、すべてが私候補でありえるとします。前述の通りマルチバースの中には、人生の諸段階において異なる道を辿ったIFの私も無数に存在します。
「あの受精卵が辿る物理的な過程こそ私である」とするのならば、死後も私はそれらの無数の〈私たち〉のどれかとして生じ、今後も生じ続けることになります。死後は記憶継承なしの死に戻りをするのでしょう。
永劫回帰 もう一つは永劫回帰です。あの受精卵にはじまり死によって終了する現実の一通りの物理過程のみが私候補であるとします。マルチバース内では、私の人生と同一の物理過程が実現し続けるので、私は死後も同じ人生を繰り返すことになるでしょう。
この永劫回帰はニーチェが畏れた思想です。永劫回帰を導くニーチェの論証は間違っているようで評判は悪いですが、宇宙論の進展によってニーチェとは異なる根拠から永劫回帰を導ける可能性がでてきたわけです。
宇宙物理学者のアレックス・ビレンケンは「起こりうるすべてのことはすでに起こり、すでになされ、過去のものになっているのではないか?」というニーチェの文を、肯定的に引用しています(林田陽子訳『多世界宇宙の探検』日経BP社 2007年 第11章エピグラフ。邦訳に出典はないが、おそらくニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部の二「幻影と影」からの引用)。本職による再評価があるわけです。
死に戻りと永劫回帰は物理主義の帰結です。唯物論者は同時に転生論者であり得ます。
「〈この宇宙〉だけが私の生まれうる領域だ」という反論に応える
死に戻り説、永劫回帰説には次のような反論がありえます。
一見するとそれらしい反論ですが、大きな欠点があります。
欠点1 この反論は「物理的内容や意識的内容では定義できない〈私〉」を認めてこそ成り立ちます。しかし、この〈私〉とはなんなのでしょう。物理的構成をみても、意識内容をみても、それが〈私〉か〈私のそっくりさん〉かは区別ができないのですから、発生条件がわからない存在です。発生条件が不明なら、「この宇宙、あの場所、あの時間にしか生じ得なかった」とする根拠はありません。
欠点2 この反論が正しいなら、私が誕生するためには、誕生奇跡説が想定するよりもさらに強い奇跡が必要です。
誕生奇跡説は、あの受精卵と物理的に同一のものが出生に至ったならばそれが私だと認めます。なので、「宇宙くじは無数に引かれているのだ」と想定するならば、私の発生確率はその分は高くなるのです。
他方で、物理的に同一で、同一の意識内容であっても、〈この宇宙〉で生じたのでなければ〈私〉ではありえないとするなら、多宇宙の存在などは関係なく、私が生じるかは一回勝負です。こうなれば、誕生奇跡説再び。私が生じるには大奇跡が必要です。
私としては、上記の欠点を抱えた説よりは、多宇宙にいる〈私のそっくりさん〉もまた私候補であると考えるほうがしっくりきます。
もっといえば、「多宇宙にいる〈私のそっくりさん〉全員が共通して意識しているのが、まさにこの意識である」という可能性もありえないではありません。この宇宙と他の宇宙では距離が遠すぎますが、多宇宙論の前提にある量子力学では量子のもつれなどの現象も想定されており、距離が離れてる物質が相関しないとは限らないと思います。もっとも私に量子力学の知識はありませんが。
――以上みた通り、誕生奇跡説には、さしあたり輪廻転生、多宇宙という対抗仮説があるのです。そして多宇宙説は死に戻り、永劫回帰をも帰結すると思われます。
輪廻転生、死に戻り、永劫回帰を転生説と総称することにしましょう。
転生説は科学の裏付けはない非科学的信念ですが、科学の成果に反するところもないので反科学的ではありません。〈誕生奇跡説ー死は無である〉ラインと比べたとき、どちらが科学的かと言えば、対等だと考えます。
また注意点ですが、転生説が含んでいなければならないのは、「その身体の死後にも生が開かれる可能性」です。因果応報、記憶の承継、身体から離脱する魂や霊魂、転生先を定める法則、地上における転生の実例などは必須の要素ではありません。これらは人によっては是非ともあって欲しい要素だとは思いますが、要素を足すごとに要求される根拠も増えていくことでしょう。「転生はナンセンス、反科学」という風潮があるように見受けられる昨今だからこそ、少なくとも「ミニマムな転生説」に関してはナンセンスでも反科学でもないことを主張したいと思います。
5 誕生奇跡説に対する転生説の強み
誕生奇跡説は、次のような構造です。
しかし、私からみると前提1と2は強い証拠のないままに導入されています。
私たちにクジの結果(事実)として見えているのはあくまで「私は誕生した」まで。そのクジを一等だとみなすのも、一回で引いたとみなすのも、都合のいい偏見ではないでしょうか。その思い込みが、誕生奇跡説を支えているのではないかと思うのです。前提1、2を否定する方が〈私〉を特権視せずに済むので、世界に対して謙虚な推論だと思います。
6 記憶継承なき転生に意味はあるのか?
本記事では必須ではない要素を削ぎ落したミニマムな転生説を論じており、死後の記憶継承はないものとしています。
しかし、記憶継承がない転生に意味などあるのでしょうか。自身の記憶と全く関りをもたないものなど、あってもなくても同じとも考えられそうです。
永劫回帰は、寸分違わぬ同じ人生が無限に繰り返されるという、一見そら恐ろしい思想ですが、前回や次回の記憶は一切継承されないので、「同じ希望や同じ絶望を何回も経験した記憶」は誰にも生じません。永劫回帰でさえ、あってもなくても「だから何?」かもしれません。
この論点について考えは詰められていませんが、ミニマムな転生説にも「主観的な意識は死によって消滅しない」という消極的な意味はあるでしょう。
各人生は死によってその記憶と共に幕を閉じるものの、次の人生ははじまるので、意識だけは無とならずに継続する。過去の人生は「決して思い出せない夢」として、未来の人生は「想像さえできない夢」としてある。
このあたりの説明は難しいのですが、共感した文章を引用しておきます。
よく分からないところが多いとはいえ、転生説の世界観は「死は無であることが何よりも怖い人」には救いになるかもしれません。
ただし、反出生主義者や、解脱を目指している輪廻転生主義者からすると、たぶん恐ろしい見解でしょう。
死は無説にしても、輪廻転生・死に戻り・永劫回帰といった転生説にしても、万人にとって最善の死生観とはいえません。
もとより万民が支持できるような死生観があるのか疑問なのですが、本記事のような抽象論では、どうしても内容が希薄になるので人生の教訓になるような前向きな死生観にまではならないと思われます。
ただし理想を求めると想像や願望、道徳観で補わねばならない要素が増えるので、宗教性や神秘性、説教臭さが増していくと予想されます。宗教も神秘も説教も重要ですが、本記事での趣旨はそこにはないので、ここまで。
7 私の奇跡か世界の悠大さか
本記事の内容は間違っており、やはり誕生奇跡説が正しい可能性はあります。世界は一つで一回きり。人生もただ一度きりで死によって終幕。私は〈あの受精卵〉がたまたま世界に生じてくれたおかげで生まれてきた。
事実かもしれません。ただこうなると私が今を生きているというのは、《本当にとんでもない大奇跡》です。
どれだけ驚いても驚き足りないくらいでしょう。人類が少々鈍感で良かったです。そうでないと驚きすぎて食事もままならないと思います。あんまり驚きすぎた個体は子孫を残せなかったりしたんでしょうか。
転生説は奇妙かもしれませんが、誕生奇跡説もやはり奇天烈なものだと思います。ここまでの大奇跡に頼った説明でいいのかと思ってしまうのです。私からすると転生説の方がもっともらしく感じます。
ただし転生説の方は、「私が誕生したこと」「私が生きていること」を奇跡にしないものの、世界の方を〈とてつもなく〉悠大なものと捉えています。なので手記千号は私の誕生の奇跡性を世界の凄まじさに置き換えているだけだと思われるかもしれません。
そう言われると、確かにそうかもしれない。世界のスケールはどれほど盛ってもいいように感じてしまいます。これは私の偏向なのでしょう。
まぁ、いずれにせよ世界ってホントに凄いところだなぁと思います。大奇跡が起きているにせよ、あまりに巨大なだけにせよ、その他にせよ、トンデモナイところに生じちゃっているもんですよ、私たちは。
8 結局、不可知論?
長々と書いてきましたが、そもそも論理と現代科学の成果の組み合わせで世界の全体像が捉えきれるとは限りません。というか、捉えきれるという方が私の直観に反します。
さらに致命的問題として、私は論理にも現代科学にも詳しくありません。
直観的にも、私の能力的にも、この種の問いは不可知論で通すのが無難だとは感じます(不可知論は不可知論で色んなタイプがあって興味深いので、勉強してはいます)。ですが、私はどうもそれでは終われない性格みたいで、形而上のことを考え続けてしまいます。理性の暴走。
私の世界観は数年毎に激変してきました。かつての自分に「なんであんな見解を信じていたんだ? あまりに不合理だっただろ」と思ったことが何度もあります。今後もあるに違いありません。見解に安定感がないのです。本記事では触れていないが興味深いと思っている議論も既に複数あります。私の世界観には今後も色々変更が加えられていくでしょう。
というわけで、決定的な議論は提供できないわけですが、本記事を読んで下さる皆様に少しでも興味深いと思っていただけたならば幸いです。
補足論点 時間経過は実在するのか?
本文に組み込みにくかった論点をここに追記しておきます。
「誕生奇跡-死後は無」説には、4で書いた以上の前提があると思っています。例えば、以下のものです。
しかし、これらの前提を認めると、世界の《現在》に私が生きている事実がこれまた奇跡的低確率事象になってしまうと思われます。
次の問いを考えてみます。
生物Aが生きている時間は宇宙Xの全時間のうちの15億分の1です。生物Aの事情など考慮にせずに宇宙Xを覗くなら、生物Aはまだ生まれていないか、すでに死んでいると考えるのが合理的。生物Aが生きているとしたら超低確率の奇跡的なクジを引いたようなものです。
さて、諸説あるようですが、われわれのこの宇宙の寿命も1500億年以上だという説があります。その中で、私が生きていられるのは長くて100年。その短時間が世界の《現在》であるというのは、仮想宇宙Xを覗いたときに生物Aが生きているのと同様に奇跡的低確率です。
なお、ここでも次のような反論をしたくなる方がいるかもしれません。
しかし、この反論は世界の《現在》と私の〈現在〉を混同しています。
確かに、私が発する〈現在〉が指示しうる期間は、21世紀付近の一定の短期間(長くて100年前後)でしかありえません。この事実は、客観的な世界の《現在》がいつであっても成り立ちます。世界の《現在》が紀元前20億年だろうと、西暦10億年だろうと、「手記千号が生きているうちに指示しうる〈現在〉は、21世紀近辺の一定期間に限られる」は事実です。
問題はそのことではなく、私の事情などとは関係なく経過するものとされた(前提1、2)世界側の《現在》が、まさに私が生きている〈現在〉と一致してしまっていることです。そんな時間領域は極小です。合理的に考えるならば、《現在》、私の〈現在〉はまだ生じていないか、とっくに終わっていてしかるべきなのです。
換言すれば、問題は「私が〈現在〉という語で指示できる期間はどの範囲であらざるを得ないか」ではなく「なぜ世界の《現在》が私の〈現在〉と重なっているのか」。端的に言うなら、なぜ現に私は生きているのか? なぜもう生まれており、まだ死んでいないのか。
ありえる答えの一つは、奇跡的低確率が実現しているから。
しかし奇跡のバーゲンセールに疑いをもってしまう私は、ここでも前提を否定するルートを考えてしまいます。
どの前提も疑うことができますが、ここでは前提1と2を疑って、宇宙の永久性(無時間性)を認めてみましょう。「現在・未来・過去」や「時間経過」などは世界の側の性質ではないと考えるのです。
世界自体は不可知の広大な領域を含みつつ生成も消滅もしない。世界の《現在》などない。ただし世界の領域の中には、時間経験の意識を可能にするような領域があって、私たちの意識現象はその限定された領域内でのみ常に生じ続けている。こう考えれば(≒妄想すれば)、私が現に生きていることを奇跡に頼らずに説明できます。
これは転生説の一種である永劫回帰を導きそうです。
さらに輪廻転生の可能性も認めるならば、私が生じうる領域は広がるので、現に生きていることの不思議さはさらに低減すると思われます。
宇宙観によっては前提3を疑うこともできるでしょう。そうなると、追加で死に戻りの可能性もでてきます。
【主要参考文献】
・レイモンド・スマリヤン著 高橋昌一郎訳『哲学ファンタジー』ちくま学芸文庫 2013年
「第4部 生きるべきか死すべきか」(155-224頁)が死生観のお話。不可知論や輪廻転生論をけっこう深く掘り下げています。
第4部に限らず、世界観を揺さぶってくれる好著でした。大部分は対話篇で、登場人物の発言は著者の考えを表しているわけではないのですが、だからこそ自由な思考が次々開陳されていくので面白い。理屈っぽい方におすすめです。
・三浦俊彦『多宇宙と輪廻転生』青土社 2007年
哲学説として輪廻転生を分析していく本。この本の存在には驚きました。どんな分野にも先人はいるものだと感心した一例です。
ただし、ぐんぐんと進んでいく議論に私はついていけず、理解できたのは1割以下かもしれません。内容は本記事よりもずっと先に進んでいます。
哲学説としての転生説はもっと広く検討されてよいと思うのですが、あまりみかけないので残念です(他方、思想史的なものはみかけますね)。たぶん、トンデモ論者の仲間入りするのが怖いのだと思いますが、世界は事実としてトンデモな場所だと思うので、多種多様な人が沢山暴投しないと誰も正解に近づけないと思います(正解にたどり着く必要があるとも限りませんが)。私も暴投していきたい。
【関連記事】
これも暴投覚悟の記事です。世界はとんでもないものだ。
人間原理の話。多宇宙説は正しいと思っています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?