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人間原理とマルチバースでこの宇宙の不自然さを説明する【哲学】


この宇宙は不思議で満ちている。素人だからそう感じるだけ? いやいや、宇宙物理学の専門家からみても、この宇宙は不自然にみえるらしい。むしろ専門家の場合は、ただ漠然と不思議がる素人と違って、宇宙の根本の部分に対してはっきりとした不自然さをみてとっている。

現代宇宙論では、この宇宙の不自然さを「人間原理」と「マルチバース」によって説明することがある。

何がどう不自然なのか。人間原理とマルチバースはその不自然さをどう説明するのか。本記事では、それらの解説を行う。

人間原理とは何なのか? これは本論で詳しく解説するのでここでは省略。

マルチバースの方は一言でいうと宇宙の集合のことだ。宇宙はふつうユニバースといわれるが、現代宇宙論によるとユニバースは複数存在する可能性がある。そこで一つ一つの宇宙をユニバース、宇宙の集合をマルチバースと呼び分けている。マルチバースは「多宇宙」と言われることもある。

この二つは宇宙論の新書においてもよく出てくるセット。私が読んだ中でいえば、以下が人間原理とマルチバースを好意的に紹介している。

・青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』講談社現代新書 2013年
・須藤靖『不自然な宇宙』講談社BLUE BACKS 2019年
・戸谷友則『爆発する宇宙』講談社BLUE BACKS 2021年
・野村泰紀『マルチバース宇宙論入門』星海社新書 2017年
・野村泰紀『なぜ宇宙は存在するのか』講談社BLUE BACKS 2022年

宇宙の解説としては申し分のない素晴らしい本たちだと感じたが、人間原理の解説としては、やや分かりづらいところ、もっと掘り下げてほしいところが見られた。そこで他の本なども参照しつつ私なりに論点を整理した。納得できるまでしぶとく考えたので長文となっている。



1 問題提起 不自然な自然定数


エレガントな大統一理論からの演繹によってすべての物理現象を説明すること。それが物理学の目標であった。20世紀前半には、自然界に存在する基本的な力を四種に絞り込むことに成功する。物理学者たちは、この四つの力も一つの根本法則の別側面ではないかと考えて探求を重ねた。

20世紀後半に登場したゲージ理論は、重力を除く三つを統一的に理解することに成功。素粒子物理、原子核物理、物性物理、原子・分子等の化学、生命、惑星・恒星の力学などの関係をたった数行のエレガントな数式で表せるようになったのだ。

このように順調にみえた物理学だが、やがていくつもの壁に突き当たることになる。自然界において決して変わらない定数のいくつかは、理論から導くことはできず、観測によって確かめる他なさそうなのである。
 
まずは粒子の質量をみよう。天体を構成する基本粒子としてはクォーク6つとレプトン6つが知られている。クォークの質量は、0.002、0.05、0.094、1.67、4.76、173。レプトンの質量は0.00054858、0.10566、1.7769(残り三つは無視できる小ささ)。これらの数値は恣意的にみえる。粒子の「混合」現象を司るパロメーターも存在するが、その値もまたランダムにみえる。

これらがなぜこの数値をとるのかは謎のままだ。単に謎なだけならいいのだが、これらの数値がほんのわずかにでも変わってしまうと、この宇宙の構造は激変してしまう。一例として、ヒッグス場の二乗質量パラメータというものをとりあげる。理論的には何十桁の範囲にわたって正負どちらの値をとってもよい一方で、この値が現実の値の数倍違えば、水素原子核を除いてすべての原子核が存在しなくなる。つまり、複雑な構造が一切ない宇宙になってしまうのだ(野口泰紀;2017年、57-61頁)。

まだまだ謎はある。原子核を安定させている「強い力」。これが現実のものよりもう少し強ければ、宇宙には水素がなくなり、水分子ができない。もう少し弱ければ宇宙に水素しかなくなるが、酸素がないので水分子ができない。水分子がなければ生命は誕生できないだろう。ある粒子をほかの粒子に変換する「弱い力」がもう少し強ければ安定的な原子核が作れない。「電磁気力」は弱ければ安定な重元素は生じえず、強ければ分子が安定せず物質は生じない。質量をもつすべての粒子に働く「重力」も、強ければ星の寿命が短くなり、生命進化の可能性は低下する(須藤靖;2019年、178-179頁)。

これらの値も、僅かなズレが宇宙を激変させる。約30の自然定数(物理定数ともいう)は、「その値だと考えれば現実をうまく説明できる」以上の正当化ができない。

レオナルド・サスキンド 2006年
しかし、ありのままの真実を言えば、物理法則はエレガントではない。あまりにもたくさんの粒子、あまりにもたくさんの頂点ダイアグラム、そしてあまりにもたくさんの結合定数がある。粒子を特徴づける質量の値がただのランダムな集まりにすぎないこともまだ話していない。もし、ある一つのことが欠けていたら、全体が非常に魅力がないつくり話になってしまうだろう。ある一つのこととは、物理法則が驚くべき精密さで、素粒子、原子核、原子、分子の性質を説明できるということにほかならない。しかし、それには代償がある。それを可能にするのは、約三十個の「自然定数」すなわち、質量や結合定数を導入しなければならないが、その値は、「それでうまくいく」という以外に、正当化ができない。これらの値はどこから出てくるのだろうか? 物理学者は、何もないところからさまざまな値を導くわけでも、立派な数学的な計算から導くわけでもない。それらは、多くの国々の加速器実験施設で長年にわたって行われた素粒子実験の結果である。その多くは、微細構造定数と同じように、非常に精密に測定されている。しかし結論を言えば、すでに述べたように、それらがなぜその値なのかわからないのである。

レオナルド・サスキンド著 林田陽子訳『宇宙のランドスケープ』日経BP社 2006年 78-79頁


本当のところ、なぜ自然界の定数はそれらの値になっているのだろうか? 

「単なる偶然だ、どんな値にせよ不思議だろう」と言いたくなるかもしれない。だが、それは不思議さの本性を掴めていない。

どんな値でも不思議がっていたわけではないのだ。先述したような自然定数は、どれか一つの値が少しでもずれていれば、人間どころか生命さえ存在しえない。この値でなければ、不思議がることさえできなかった。驚天動地、ギリギリの綱渡りがなぜだか成立してしまっている。ここにはたぐいまれなる「微調整」が働いているようにみえる。

そこで持ち出されるのが人間原理とマルチバースである。人間原理の方からいみていこう。字面からはスピリチュアルな印象を受けるが、内容は誰もが認めざるをえないような当たり前のことしか言っていない。

2 人間原理


2-1 人間原理による解決――自然定数の不自然さの説明


人間原理は、強い人間原理と弱い人間原理とに区別されることがある。本質的内容は共通しているが、単に人間原理と言われるときは、たいてい前者を指している。本記事で扱うのも前者だ。いちいち「強い人間原理」と書くのは面倒なので、単に人間原理と呼ばせてもらおう。

さて、人間原理の内容をみてみよう。

人間原理:この宇宙は、その歴史のどこかで観測者が生じ得る宇宙である。

――当たり前だ。

そりゃそうだ。わざわざ言われるまでもない! と言いたくなる。

だが、念のためにこの当たり前の原理が正しいことを確認しておこう。

人間原理が正しくないと仮定する。すると、この宇宙の歴史上どこにも観測者は存在しない。だが、この宇宙にはわれわれ人間という観測者が現にいる。仮定と事実が矛盾しているため仮定は誤っている。ゆえに人間原理は正しく、この宇宙はその歴史のどこかで観測者が生じる宇宙である。

もうちょっと詳しく書くとこうだ。

仮定 人間原理は正しくない。すなわち、この宇宙はその歴史上のどこにも観測者が存在しえない。
中間帰結1 この宇宙に観測者は存在しない(仮定より)
事実    この宇宙には人間という観測者がいる。
中間帰結2 この宇宙に観測者が存在する(事実より)
中間帰結3 この宇宙に観測者は存在せず、かつ、観測者が存在する(中間帰結1、2より。矛盾)
背理法 仮定は誤りである。(中間帰結3の矛盾より)
結論 人間原理は正しい。すなわち、この宇宙は、その歴史のどこかで観測者が生じうる。

さて、人間原理は、先ほど問題視した「不自然な値をとる自然定数」について、次のように説明していく。

問題 なぜ「強い力」は現実のような値をとり、より強い値ではないのですか? 

回答 「強い力」が現実のものより強いと仮定する。仮定と既存の科学理論を合わせて考えると、その宇宙には水分子が生じず、したがって観測者も生じない。しかしこの宇宙は観測者が生じうる宇宙である。ゆえにこの宇宙において「強い力」は仮定するよりも強くない。

これもちょっと詳しく書いてみる。

前提1 「強い力」が現実のものより強い宇宙だと、ほぼすべての水素は「陽子2個だけからなるヘリウム」になり安定してしまう。水素がないので、酸素と水素からなる水分子は存在しえない。(既存の理論)
前提2 たくさんの物質を溶かし込むことができる水分子が存在しないところでは、複雑な高分子が生じず、観測者が存在し得ない。(既存の理論)
仮定    この宇宙の「強い力」が現実のものよりも強い。
中間帰結1 この宇宙に観測者は存在しない。(前提1、2、仮定より)
事実    この宇宙には観測者が存在する。
中間帰結2 この宇宙には観測者が存在せず、かつ存在する。(中間帰結1、事実より。矛盾)
背理法 仮定は誤りである。(中間帰結2の矛盾より)
結論 この宇宙の「強い力」が現実のものよりも強いことはない。

この調子で、自然定数の値の不自然さが解消されていくわけだ。

これは不自然さを後付けで説明しているだけだろうか。〝だけ〟ではない。人間原理を用いて自然定数を予測し的中させた例もある。この宇宙に観測者が現にいる以上、いかなる自然定数であれ、観測者の存在を不可能にする値をとるわけがない。結果から原因を推測したというわけだ(後述する真空エネルギーの密度の絶対値)。

どう思われるだろうか? 私が人間原理を知ったときに抱いたのは「いや、そりゃそうだろうけど、それでいいの?」という印象である。そんなの当たり前に正しいという感じもするが、そもそも求められていたような説明にはなっていないとも思ったのだ。

物理学者にとっての困惑は相当なもののようで、人間原理を支持していながら「禁じ手」とも呼ぶ人もいるほど(戸谷友則;2021、267-268頁)。

物理学は困難に直面する度、いっそう奥深い基礎物理法則を発見することで進歩してきたはず。「観測者と両立する値がどうのこうの~」という話がでてきたら面食らうのが当然なのだろう。

宇宙論においては、コペルニクス原理という考え方がある。これは「人間は宇宙の中で特別な存在ではない」という考え方で、地動説を唱えたコペルニクスが名前の由来となっている。この考え方はきわめて説得力がある。地球は太陽系の中心でなかった。そればかりか、太陽系でさえ天の川銀河の小部分、天の川銀河でさえ局所銀河群という銀河団の小部分、局所銀河群でさえおとめ座超銀河団という超銀河団の小部分なのである。

コペルニクス原理からすれば、「エレガントな物理法則に統一された宇宙が存在し、その法則によって人間の存在も説明される」という順序が正道だと感じられる。「人間の存在をまず前提にし、そこから物理法則を推測する」という人間原理の考え方は転倒しているように見えるのだ。

2-2 人間原理の前提――この宇宙の存在


しかし、ちょっと立ち止まって考え直そう。

人間原理は、何を説明し、何を説明していないのだろうか。

まず、説明していることをみよう。この宇宙における「自然定数の値の不自然さ」に対してはちゃんと説明をしている。一言でいえば、「観測者の存在と両立できるのがその値だから」だ。この宇宙に観測者が存在する以上、この宇宙の自然定数は観測者の存在と両立する値である他ない。

しかし、重要な部分を説明せぬまま残している。説明されていないのは、観測者が生じ得るようなこの宇宙があるのはなぜなのか? だ。人間原理では、「観測者が存在し得るこの宇宙」があるのは前提とされる。現にこの宇宙はあり観測者はいるので、これを前提にするのは問題ない。だが、この前提の不思議さは放置されているのだ。

では問おう。観測者が生じ得るこの宇宙は、なぜないのではなくあるのだろうか? こんな微調整宇宙が、なぜある?

そんな問いに答えるのは時期尚早だとか、回答不可能だという向きもあるだろう。だが、ふつう「人間原理」と言われるときは、そもそもこの宇宙がある理由についても説明がなされる。

説明の一つはマルチバースである。もともと人間原理はマルチバースとセットで提唱されたものだ。「人間原理とマルチバース」によって宇宙の不自然さを解消するのが、正統派の人間原理論である。

説明のもう一つは宗教的バーションで、こちらは現代科学のパラダイムと全面衝突してしまう。しかし、この宗教バージョンはなかなかに流通しているようで、そのことが人間原理が非科学的理論扱いされる原因となっている。

まずは正統派であるマルチバース論を、その後に宗教バージョンを検討しよう。


3 なぜ微調整宇宙があるのか?


3-1 マルチバース説


(1) 宇宙は一つきりという先入観

人間原理では、「この宇宙」が存在することは前提になっている。

ただし、この宇宙があるという前提に対して、「そもそもなぜこの宇宙があるのか?」と問うことはできる。この宇宙は微調整を疑われるほどの仕上がりなのだから尚更問いたくもなるだろう。

マルチバース説の答えは単純、宇宙は多種類実在するからである。

宇宙が一つしかないのならば、その宇宙がたまたま微調整されたような値を示す現象はあまりに奇妙だ。

だが、宇宙は一つきりという確固たる証拠はない。われわれがいるものとは自然定数の値が異なる別種の宇宙も想定可能なのだ。それら異なる宇宙のあり様については色々な形が考えられる。

● われわれが観測できる宇宙の外側にある。
● われわれの宇宙は収縮・膨張を繰り返しており、そのたびに自然定数が変更される。
● われわれの宇宙とは因果関係をもたない形で並行して存在する。

いずれにせよ、宇宙が一つである、という想定は先入観でしかないかもしれない。マルチバースの可能性については、紀元前の段階で指摘されていた。たとえば、古代ギリシャの哲学者・エピクレスは次のように書いたという。

『ギリシア哲学者列伝(下)』
というのも、世界がそれから生じうるような、あるいは、それらによって形成されうるような、そういったもろもろのアトムは、一つの世界のために、あるいは限られた数の世界のために――それらの世界がわれわれの世界に似たものであろうと、異なったものであろうと――使い尽くされてしまってはいないからである。したがって、世界が無限に数多くあることを妨げるものは何もないのである。

ディオゲネス・ラエルティオス著 加来彰俊訳「第10巻第1章 エピクロス」
『ギリシア哲学者列伝(下)』岩波文庫 1994年 237-238頁


もし十分な数の宇宙があるのならば、そのうちの一つに、観測者の存在を許すような微調整宇宙が存在してもおかしくない。

この論理をくじ引きを例にして考えてみよう。

1000万分の1で当たるくじ引きが一回だけ引かれたとする。それで当たりがでたならばどうか? まずドッキリや何かの間違いかと疑うだろう。本当に当たりだと確認できたなら驚愕することになる。そうなったなら、もう説明のしようがない。強運とでも言っておくことになるが、「運」は能力でも法則でもないから、単に驚愕の事実が実現したという話だ。

しかし、われわれの微調整宇宙はこの例には似ていない。第一に、1000万分の1どころの騒ぎではないらしい。第二に、こちらこそが非常に重要なのだが、くじを引いた数が分からないのだ。次の問題を考えてみよう。

問題 1000万分の1で当たるくじがある。どうやら当たりがでたようだ。くじが引かれた回数は1回以上だと分かっている。さて、このくじが引かれたのは1回か、複数回か? 

合理的に考えようとするならば、複数回だと答えるべきだろう。1回で引いたなら驚愕だ。だが1000万回2000万回引いたなら話は変わってくる。

微調整宇宙をめぐる問題に似ているのは、こちらの問題なのだ。

「宇宙はたった一つこの宇宙しかない」という単一宇宙説からすれば、われら微調整宇宙を引いたことが恐るべき不思議となる。しかし、例えば「10の500乗倍の宇宙が実在する」ならば、そのうちの一つにわれわれのような微調整宇宙が含まれていても不思議でなくなる。

単一宇宙説のもとでこの宇宙が実現する確率よりも、マルチバース説のもとでこの宇宙がある確率の方が遥かに高いのだ。こう考えると、マルチバースの実在を否定するよほど大きな理由がない限り、単一宇宙説よりマルチバース説の方がもっともらしいといえる。

この議論はだいぶ素朴な確率論なのだが、素朴なだけに説得力もある。そして、改めて考えてみると、宇宙がここ一つであるという証拠はさほどない。確かにマルチバースを見た人はいないわけだが、それを言うならビッグバンや生命誕生や進化を見た人もいないのだ。

というわけで、マルチバース説はけっこう強力ではないだろうか。

さて、正統派の人間原理論の議論の骨格は以上で出そろった。

この宇宙の自然定数の不自然さの謎には人間原理、この宇宙の存在の謎に対してはマルチバースによって答えるこの論理。いま一度確認してみよう。

問題1 この宇宙においては、30近くの自然定数がまるで微調整されたかのような値を示している。なぜだろうか?
回答1 微調整されたかのような値である謎は、人間原理によって答えることができる。この宇宙に観測者たる人間が実在していると分かっている以上、それらの自然定数は観測者の存在と両立する値をとるほかありえないのである。

問題2 それでは、観測者の存在を許すほどに微調整された宇宙は、なぜ存在するのだろうか?
回答2 微調整宇宙が存在する謎は、マルチバースによって答えることができる。宇宙が一つしかないと仮定したならば、微調整宇宙の存在は不思議だ。しかしランダムにさまざまな自然定数をとるマルチバースが実在すると仮定するならば、そのうちの一つにわれわれの微調整宇宙があってもおかしくない。

まとめてみると、非常にシンプルな説明である。


(2)人間原理と観測選択効果

正統派人間原理は宇宙物理学者にも受け入れられてきているようだ。

正統派人間原理は、実は人間を特権視していない。人間に物理法則を捻じ曲げる力を認めたりはしていない。よくみてみると、物理学に限らず通用している通常の合理的な思考の枠組みを宇宙論に適用しているだけなのだ。

これもやや詳しく説明しよう。

合理的思考の前提には「平凡の原理」がある。

平凡の原理:無作為抽出されたサンプルの属性は平凡なものと推定すべし。

平凡というのは、極端ではないということだ。要はガチャが外れなら外れが多いのだろう話。大きな湖に多種多様な魚が棲息するように、「マルチバース」には多様な宇宙が実在する。これらの宇宙から無作為抽出ができるならば、抽出された宇宙は平凡だと仮定できる。

ただし、平凡の原理を適用する際には、「選択効果」に注意すべし。

選択効果:サンプルの選択方法が観測結果に与える偏り

この点、われわれの宇宙は無作為抽出されたサンプルではなく、選択効果によって得られたものである。マルチバースという湖に投げられたのは、「観測者」という特殊な網なのだ。

観測者を一つのモノとして捉えてみよう。パスカル風に言うなら、自己の生まれた宇宙についてさえ思索を行う一本の葦。とびきり特殊なモノではないか。観測者が直面するような宇宙は、ランダムなサンプルとは似ても似つかないとびきり変なものでもおかしくないのだ。

選択効果の中でも、観測者の属性が結果に与える偏りのことを、特に観測選択とよぶ。

観測選択:観測者の属性が観測結果に与える偏り

観測選択こそ人間原理の核心である。人間原理の内実は、「観測選択に注意せよ」というものなのだ。

以上の通り、正統派人間原理は、人間を特権視しない。確かに人間の特殊性は認めるのだが、宇宙のスケールをべらぼうに大きいものだと考える。マルチバースの中には、ほんの微かに観測者が生じうるスペースがあり、そこで観測者が生まれてくる。観測者目線からすると、まるで自分たちを生み出すために誰かが「微調整」をしているかのように見えるが、じっさいには調整などはなされていない。ただただ多様な宇宙が膨大にあるだけだ。

正統派人間原理は直観にこそ反するが、合理的ではあるし、宇宙に対しては謙虚な考え方なのである。

ただし、すぐさま納得するにはスケールが大きすぎるのも事実で、支持を広げるのが遅くてもおかしくない。当然のことだがマルチバースは単なる可能性としてではなく、実際に存在してもらわないといけない。「数撃ちゃ当たる」ためには、実際に数が撃たれている必要があるからだ。ここを認められるか否かには相当な個人差があるだろう。マルチバースを拒否するとしたら、その大きな理由の一つは、「そんなものは信じがたい」という素朴な感覚になりそうだ。素朴なだけに強力である。

とはいえ、現在では永久インフレーション理論や量子力学の多世界解釈など、人間原理とは別の筋道からもマルチバースの実在が示唆されるようになっている。それらにも触れるとマルチバースを拒否する素朴な感覚は収まり、照応して素朴な確率論への納得感は増してくるのではないかと思う。


(3)存在そのものを巡る謎は、別の問題として残る

とはいえ次のような疑問も湧いてはいないだろうか。マルチバースがあるのは仮に認めるとしよう。マルチバースがあるのはそもそもなぜなのか? と。これについては、「現時点では分からない」が答えだ。

しかし、存在そのものの基盤を問うような問いは、原理的に答える術がないのかもしれない。例えば仮に将来「マルチバースはXYZ原理により説明される」と明らかになったとしても、XYZ原理はなぜあるのか? が疑問になるだろう。「それ以上の答えはない」としても、なぜ答えはないのか? と問を続けられる。こういう謎は、どうすれば答えることになるのか、答えることは可能なのかという基本的なところからして謎なのである。

ここでは最近読んだ本からとても感心した文章を引用しておこう。

土屋賢二 1998年
最大の困難は、どのような事実を挙げても答えにはならないことにある。そもそも答えが「存在とは……である」という形をしているなら、それはすでに「である」ということを前提にしている点で答として失格である。しかしそれ以外にどんな答の形式がありえようか。(中略)かりに存在の観念にも、この世界にも、まったく不整合な点がなく、われわれの概念体系がどんなに整然としていたとしても、存在の謎はいささかも減ずることはないであろう。たとえこの世界がどのようになっていたとしても依然として存在は謎であることを止めることはないのである。

土屋賢二『猫とロボットとモーツァルト』勁草書房 1998年 117-119頁

存在の不思議さに関しては、おそらく最後の最後はお手上げなのではないかと思う。ただ、私としては進めるところまで進むとお手上げの美しさが違ってくると感じている。同じ白旗でも美しい白を掲げたいということだ。

存在をめぐる謎については別記事でとりあげたことがある。



3-2 宗教版


(1)人間原理の宗教的理解

人間原理はマルチバースとセットで提唱されたのだが、どこかで曲解され、そちらが知名度を獲得してしまった。こちらはいわば宗教版人間原理だ。

人間原理をおさらいしよう。

人間原理:この宇宙は、その歴史のどこかで観測者が生じ得る宇宙である。

これは事実。

では、なぜこの宇宙は観測者が生じ得る微調整宇宙なのだろうか。

宗教版の人間原理は、〝目的〟をもってこの問いに答える。ただし、何のどんな目的であるかについては色々な説明がある。二つ例をあげよう。

● 宇宙の意思説:大いなる宇宙には人間を誕生させるという目的があり、その目的に照らした調整がなされたのだ。
● インテリジェントデザイン説:設計者である神がいて、人間を誕生させるという目的を達成すべく自然定数を調整したのだ。

物理現象に目的を読み込む目的論的世界観は、現代科学のパラダイムたる機械論的世界観と対立する。その点、宗教版の人間原理はストレートな目的論である。しかも目的を読み込む対象がよりにもよって宇宙の基礎的な物理法則なのだ。「まともな科学者には相手にされない」理論の典型である。

なのでこの記事でも省略していいかと思ったのだが、押さえておいていい論点もあるので書いていこう。


(2)広まる誤解

宗教版人間原理は学術界でもそれなりに知名度を獲得してしまっているらしい。プロの科学者・哲学者の中にも人間原理=宗教版人間原理だと勘違いしている人をみかける。

私が以前読んだ以下の本にしても、たいへん面白い内容ではあるのだが、どうも正統派人間原理の存在を知らないようだった。

フランス・ドゥ・ヴァール 2017年
皮肉にも、私たちのワークショップの主要テーマの一つが「人間原理」だった。この原理によれば、宇宙は知的生命体(すなわち、私たち人間)に特別ふさわしいかたちで意図的に創造されたことになる。
 この原理を信奉する哲学者たちの言説はときとして、あたかも世界は私たちのために創られているのであり、私たちが世界に合うようにできているわけではないかのように聞こえた。

フランス・ドゥ・ヴァール著 松沢哲郎監訳 柴田裕之訳
『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』紀伊国屋書店 2017年 34頁


引用部分の後には人間原理批判が続くのだが、当時の私は正統派の人間原理しか知らなかったので、「なんの話をしているの?」と驚いた。既に述べた通り、正統派人間原理においては神や宇宙の意図など出てこないし、人間の存在が物理法則に影響を与えることもない。著者がワークショップで出会った哲学者は宗教版を信奉していたのかもしれないが、人間原理一般を批判するつもりだったのなら正統派の議論を確認してほしかった。

もっとも、この著者が動物学者であるのはポイントかもしれない。生物ときたら進化論だが、アメリカを中心として反進化論を唱えている者はかなりの数いる。そして進化論に反対する主な論拠の一つがインテリジェントデザインなのだ。人間原理に接し、「宇宙論でもインテリジェントデザインがでてきたか!」と警戒を感じてもおかしくない。そして、これが押さえておくべきもう一つの話に繋がる。


(3)デザイン仮説の検討

インテリジェントデザイン説は「まともな研究者」からは一蹴されるのがお決まりだ。だが、よくよく聞いてみてしまうと素朴な説得力があり、舐めてかかるのは危険なのである。少し足を浸してみよう。

インテリジェントデザインのデザイン論は、時計の譬えを持ち出すのが定番だ。それは次のようなお話になっている。

荒地で時計をみつけたとしよう。この時計を観測してみたところ、次のような観測結果が得られた。

観測結果 時計は複雑であり、かつ部品全体が時を刻むことに適した仕方で結びついている。

この観測結果は、仮説1と2のどちらを確からしくするだろうか?

仮説1 デザイン仮説 時計は知的な設計者による産物である。時計職人がいたからこそ、複雑かつ時を刻む課題に適した「時計」が作られたのだ。

仮説2 ランダム仮説 時計はランダムな物理過程の産物である。金属の塊に対して雨、風、雷などが働きかけることによって、偶然に時計の形になったのだ。

観測結果は仮説2よりは1の信頼性を上げるだろう。これは認めざるを得ないと思う。だが、デザイン論者によれば、時計と同じ理屈がこの宇宙についても当てはまる。

この宇宙を観察したところ、以下のような結果が得られている。

観察結果 この宇宙は複雑であり、かつ複数の自然定数が観測者を生み出すことに適した仕方で結びついている。

この観測結果は、仮説1と2のどちらを確からしくするだろうか?

仮説1 デザイン仮説 この宇宙は知的な設計者による産物である。宇宙職人がいたからこそ、複雑かつ観測者を生み出すことに適した「この宇宙」が作られたのだ。

仮説2 ランダム仮説 この宇宙の自然定数の値はそれぞれランダムに定まった。それらは、たまたま観測者の存在と両立できる値となったのだ。

観測結果は、仮説2よりも1を支持するのではなかろうか? 

その上で、デザイン仮説をできる限り擁護してみよう。

知的設計者を持ち出すやり方は、確かにものすごく胡散臭い。いかがわしい団体はデザイン論を持ち出して「われわれが奉じるこの神こそが宇宙の知的設計者なのだ」と続けてきそうだ。だが、デザイン論自体は設計者が具体的に誰なのかを特定するようなものではないし、教義は何も提供しない。特定教祖の崇拝や特定の教義偏重、高額献金や無償奉仕に繋がる論理はない。つまり、倫理的にいかがわしいとは限らない。

また、設計者候補は、今まで人類に信じられてきた神たちには限定されない。人間とは姿・感覚・思考に至るまで何もかも全く似ていないかもしれない。サムシンググレートのような「偉大な存在」とも限られない。空飛ぶスパゲッティモンスターや、宇宙をシミュレーションできる超文明の研究者も候補に入る。こう考えると存在可能性ゼロとは言い切れないではないか。

しかも、この宇宙の不自然さはどんどん積みあがっている。後で見る宇宙定数問題一つとってもわかることだが、値がランダムに決まるというならば、観測者の存在と両立する宇宙が実現する確率は1000億分の1とか1000兆分の1とかいう生易しい次元の問題ではないのだ。ランダム仮説の説得力はどんどん落ちているではないか。

なお、デザイン論に対しては、哲学者ヒュームの議論を援用した2つの批判が知られているが、その批判は的外れである。

批判1は、「時計」と「この宇宙」は類似していないので、類推に基づく論証は失敗しているとするもの。だが、デザイン論は類推ではない。「時計とこの宇宙はよく似ているから、時計に当てはまる説明はこの宇宙にも当てはまる」と言っているのではない。観測事実をよりよく説明するのはどの仮説なのかを比較するものであり、「最善の説明への推論(アブダクション)」の一種である。よって批判は当たらない。

批判2は、「時計」と違い「この宇宙」は一つしか観察できていないので、帰納による推論はできないというもの。だが、いま述べた通り、デザイン論は帰納でもない。「あの宇宙は設計者がいるね、その宇宙も設計者がいるね、だからこの宇宙にも設計者がいるよ」という議論ではないのだ(ちなみに一回限りの事象に対しても合理的な推論は可能である。でなければ生命誕生や恐竜絶滅に関する仮説は何も立てられないことになる。それどころか、たいていの事象は詳しくみると「一回限り」と言えてしまうので、経験科学全体が成り立たなくなりかねない)。

以上の通り、デザイン論証はけっこう説得力がある上に、有名どころの反論を実はかわしている。では現代科学のパラダイムは危機を迎えているのか?

――そうではない。そう。マルチバースの実在がすべてを解決する。

宇宙がこの宇宙一つきりならば、自然定数の不自然さはまともに説明できない。しかし、さまざまな自然定数をとる宇宙が無数にあるのならば、その中には微調整されているかのような宇宙も存在するだろう。マルチバースは、ランダムな過程がこの宇宙を生み出す筋書きを与えてくれる。マルチバースと合わされば仮説2は弱点を克服する。「知的設計者の存在」のような怪しいものを持ち出さずに済む分、仮説1よりももっともらしいといえそうだ。

また、デザイン仮説の方は、やはり科学理論にはなりそうにない。科学理論ならば、現在・過去・未来の物理現象について何か予測を立ててもらわないと困る。しかしデザイン仮説の「知的設計者」はこの世界を設計したという以外全く不明。科学をする際に設計者を考慮すると、この宇宙のあり方に関してどんな予測をすべきか全くわからなくなるのだ。設計者は未だこの宇宙に介入できるのかできないのか? 何を意図しているのか? 今日まで通用した物理法則が明日にも通じるのが当然なのか、通じないのが当然なのか? 全てが謎。信仰の問題を物理学の領域にごっそり持ち込むことになる。他方、ランダム仮説の方はこの種の問題をしょい込まずに済む。

というわけで、科学理論に搭載するものとしては「人間原理+デザイン論」の宗教版人間原理よりも、「人間原理+マルチバース」の正統派人間原理の方が説得力をもつといえるだろう。

(4)デザイン仮説が正しかったとしても……

ちなみにデザイン仮説は存在を巡る哲学的な難問を解消するものでもない。仮に将来とんでもない発見がなされてデザイン論が事実として正しいと判明したとしよう。それでも、「その知的設計者が属する方の宇宙はなぜあるのか?」と「なぜなぜ物語」は終わらない。存在の謎を掘り下げていくと、何をどうしてもお手上げの地点に行き着きそうだ。


4 人間原理による問題の解決


(1)宇宙定数問題

人間原理は、具体的な問題に対して予測を行い的中させたことがある。

それが、宇宙定数問題だ。宇宙定数とはアインシュタイン方程式に登場する定数Λ(ラムダ、あるいは小文字λ)である。正体は不明だが、有力な候補は真空エネルギー。この真空エネルギーは、宇宙の加速膨張の原因となっているとみられる。

現代においては、この宇宙が加速膨張していることは常識となっている。だが、つい2-30年前はそうではなかった。むしろ、物理学者たちの多くは、加速膨張を否定するか、判断を留保していたようだ。

さて、以上を頭に入れた上で本題に入ろう。

真空エネルギーについては奇妙な事実が知られていた。理論が予測する数値と、観測が予測する数値があまりにも乖離していたのだ。

理論的に単純に示唆される値は、絶対値にして、10の90乗グラム/㎝3
つまり、1000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000g/㎝3
である。無限大と言っていい。

他方、観測値から計算される現実の値は、上限値でも理論預言値より120桁以上低いとみられていた。上の値の120分の1ではない。120低いのだ。
0.0000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000001以下
つまりは、
0.000000000000000000000000000001g/㎝3以下
ということ。
以下だから0も含む

以上の事実をどう受け取るべきか。物理学者たちは次のように考えた。

● 現実の真空エネルギーはぴったりゼロだろう。よほど特殊な理由でもない限り、ここまでゼロに近いのにゼロではない方が不自然だからだ。真空エネルギーがゼロであるからには、宇宙は加速膨張しない

● 観測予測値と理論預言値がこれほどまでに乖離しているのは、真空エネルギーを低く抑えるような未知のメカニズムが存在しているからだ。


対して、人間原理を真剣に受け止める立場をとっていたのが、ワインバーグである。1987年にワインバーグが行った予想は、上記のものとは違っていた。その予想の趣旨は以下のようなものだった。

予測① 真空エネルギーの密度は2.7×10のマイナス30乗g/㎤、つまり、
0.0000000000000000000000000000027g/㎤
に近い数値を示すだろう。

予測② しかし、ぴったりゼロではない。つまり宇宙は加速膨張している

予測③ 真空エネルギーを低く抑える未知のメカニズムが存在すると考える必要はない

人間原理がなぜこの予測に至るのかを解説しよう。

まずは、なぜ予測①のような数値が出てくるか。これは人間原理の適用そのものだった。この宇宙の物質のエネルギー密度は2.7×10のマイナス30乗g/㎤だと分かっているのだが、仮に真空エネルギーの密度がこの物質のエネルギー密度より数桁大きいと、星などを形成するあらゆる構造が生じず、観測者も生じなくなる。しかし、観測者は現にいる。つまり、真空エネルギーの密度は物質のエネルギー密度と数桁しか違わない値をとる。

ちょっと詳しく書いておく。

前提 この宇宙の物質のエネルギー密度は、2.7×10のマイナス30乗g/㎤である。真空エネルギーの密度がこれよりも数桁以上大きいと、その宇宙には星や銀河などのあらゆる構造が生じない(既存の理論による計算)
仮定 この宇宙の真空エネルギーは、物質のエネルギー密度より数桁以上大きい。
中間帰結1 この宇宙に観測者は存在しない(前提1、仮定より)。
事実  この宇宙には観測者が存在する。
中間帰結2 この宇宙には観測者が存在せず、かつ存在する(中間帰結1、事実より。矛盾)。
背理法 仮定は誤りである。(中間帰結2の矛盾より)
結論 この宇宙の真空エネルギーは、物質のエネルギー密度より数桁以上大きいことはない。

予測②の「ぴったりゼロではない」がでてくる理由は簡単だ。2.7×10のマイナス30乗g/㎤以下で0以上の数値はいくらでも考えられる。その中からたまたまぴったりゼロが選ばれる可能性は極めて低い。

この予測①②については的中したと考えていい。

1998年、パールマター、シュミット、リースらの観測によって、真空エネルギーの密度は、
約6.0×10のマイナス30乗g/㎤
であると確かめられた。

ワインバーグの言う通り、0が30も続く極めてゼロすれすれの数値でありがなら、しかしゼロではない宇宙は加速膨張しているのだ。

では、予測③はどうして出てくるのか?


(2)マルチバースと大統一秩序の不在

真空エネルギーの密度Λがなぜこのような値をとるのか? それは人間原理で説明できた。観測者が生じうる宇宙だけが観測されているという話。

ではこんな値をとる宇宙がそもそもなぜあるのか? これはマルチバースで説明する。さまざまな値のΛをとる宇宙が無数に存在するからだ。

真空エネルギーの密度については、理論的に単純に示唆される値が無限大だと述べた。これは理論の誤りではないかもしれない。自然な姿の宇宙は、無限大のΛをとるのだが、たまたまΛが小さい宇宙だけ観測されているだけかもしれないのだ。

この説明において、真空エネルギーの値を低く調整するような未知のメカニズムを想定する理由はない。ゆえに、予測③「真空エネルギーを低く抑える未知のメカニズムが存在すると考える必要はない」がでてくる。

では本当に未知のメカニズムはないのか? これは直接的に証明はしようがない。発見されていないだけかもしれないからだ。だが、「さまざまな物理定数をもつ宇宙からなるマルチバースが実在し、その中から観測行為ができる宇宙だけが観測されている」という人間原理の世界観が正しいとすれば、真空エネルギーの密度に限らず、観測者の存在と両立する以上の過剰な秩序はないと考える方が合理的になるのだ。すなわち、この宇宙は、大統一理論が成り立つような宇宙ではない。

次の問題を考えよう。

宇宙A 観測者が存在可能であり、かつ、全ての自然定数を少数の公理から演繹できるような大統一的秩序が存在する。
宇宙B 観測者が存在可能であり、かつ、大統一的秩序はない。
宇宙C 観測者が存在可能ではない。

われわれのこの宇宙は、どの種類の宇宙だろうか?

宇宙の圧倒的多数は宇宙Cであろう。だが、ここは観測者が存在し得ないので、われわれのこの宇宙は宇宙Cではない。この宇宙は宇宙Aか宇宙Bである。だが、異なる自然定数をとる宇宙がランダムに生じているというのなら、宇宙Aと宇宙Bとでは圧倒的に宇宙Aの方が少数派だろう。

下手な鉄砲数うちゃ当たる。とはいえ、的の中心に当たるよりは、端の方にあたる確率の方が高い。われわれの宇宙は、観測者の存在と両立するという意味では少数派だが、その少数派の中においてもさらに少数派であると考えるべき理由は今のところない。

コペルニクス原理により、この宇宙は宇宙Bと推定すべきである。

三浦俊彦 2002年
ではこの宇宙は実際、どのような宇宙でありそうなのか? 例えば、ロジャー・ペンローズは宇宙はきわめて平坦な初期条件を持っていたと唱え、スティーブン・ホーキングは宇宙の初期に特異点はなかったとする無境界条件を唱えるが、ホーキングの指導教授だったデニス・サイアマは、彼らの仮説は数学的にあまりにエレガントすぎ、知的生命の発生にとって最低限必要な秩序を大幅に越えていると見る。もっとランダムな、ありそうな初期条件でよいのではないか、多数の宇宙が実在するとすれば私たちはランダムな初期条件を持つ宇宙の1つに住んでいる確率が高いのだから、というわけだ。多宇宙説が正しければ、ペンローズやホーキングのあまりにエレガントな理論はいずれ誤りであることが判明するだろう。人間原理を考慮すると、多宇宙説は、この宇宙のあり方について検証可能な予測をすることになるのである。

三浦俊彦『論理学入門』NHKブックス 2002年 219頁


正統派人間原理のマルチバース説は、物理学者が長年追い求めてきたエレガントな大統一理論の不在を予測する理論なのである。

物理学者の中には、人間原理をきっぱり拒否する者も多いようだが、その理由の一端はここにある。

佐藤勝彦 2013年
もし究極の理論が宇宙の初期条件や物理法則について「唯一の答え」を持たず、複数の宇宙を示唆するものになったとすれば、「人間にとって都合のよい宇宙」は人間原理で説明するしかないでしょう。
 しかし、そうなるかどうかはまだわかりません。人類の叡智を結集すれば、この宇宙の物理法則が唯一の法則になるような原理が解明される可能性があります。その場合、ユニバースであれ、マルチバースであれ、宇宙というものが生まれれば必ず知的生命体が誕生するといえるでしょう。人間原理は必要なくなるのです。
 物理学は、あらゆる科学の基礎になる学問だと私は思っています。私たち人間が生きている宇宙を根源から説明しようとする学問はほかにありません。
 そして物理学は、本書でお話してきたとおり、宇宙のさまざまな謎を解き明かしてきました。その仕事は、物理法則を決める究極の原理を見つけるまで終わることがありません。人間原理は、その過程で投げかけられた一つの問題提起にすぎないと考えるべきでしょう。

佐藤勝彦『宇宙は無数にあるのか』集英社新書 2013年 202-203頁




(3)宇宙はどれだけあるのか?

正統派人間原理のマルチバース論は、ただ漫然と無限の多宇宙を謳っているわけではない。あくまで、「われわれのこの宇宙」を「マルチバース」で説明するという話だ。われらが微調整宇宙一つを生み出す程度のマルチバースは想定されるが、微調整宇宙が複数あるとは言わないのだ。

1等が1つ当たったならば、1等を1つ当てるのに自然なだけのクジは引かれたのだろう。しかしだからといって、1等が複数当たったとは限らない。

とはいえ、現在では永久インフレーション理論や量子力学の多世界解釈など、人間原理とは別の筋道からもマルチバースの実在が示唆されるようになっている。

いったいいくつの宇宙があるのだろうか? 超ひも理論という量子重力理論によると宇宙は10の500乗種存在するという。

100000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000種

しかも、これ以上にあるかもしれないそうだ。

ひも理論などが予測するスケールを前にしてしまうと、われわれのいる宇宙のような微調整宇宙もまた無数に存在するとしか思えない。

微調整宇宙には観測者が生じうる。

きっと異星人ならぬ異宙人も無数にいて観測行為を行っているのだろう。

そして、異宙人たちがいる宇宙もまた、不自然な微調整宇宙なのだ。

異宙人たちはわれらと同じく困惑しているに違いない。

――われわれはなぜこんなへんてこな宇宙に生まれたのだろうか?



【主要参考文献】

●青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』講談社現代新書 2013年
数学・物理学系の書籍翻訳者による本。人間原理が主軸の本だが、古代メソポタミアのカルデア人の占星術から現代のひも理論までが俎上にあげられているので宇宙論史の本としても読めると思った。

わたし自身について言えば、COBEの結果が発表されたときに覚えた、「これ(宇宙誕生)」が一度きりの出来事であるはずがない」という感覚は、その後一度も薄れたことがない。むしろ、「なぜこの宇宙だけと思い込んでいたのだろう?」と不思議な気がするほどだ。わたしはこの宇宙の唯一性を、もはや信じる気になれないのである。

青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』講談社現代新書 2013年 244頁


●佐藤勝彦『宇宙は無数にあるのか』集英社新書 2013年k
インフレーション理論の発案者の一人による著書。著者はマルチバースを肯定しつつも、人間原理には拒否感があるようだ。

人間原理のマルチバースは、さまざまな自然定数をもつ宇宙からなる。対して、佐藤氏のインフレーション理論によれば、宇宙は親宇宙・子宇宙・孫宇宙……という形で無数にはあるものの、どの宇宙もおおむね同じ自然定数をとる。一口にマルチバースといっても、そのあり方にはさまざまありうる。

私は著者のタイプのインフレーションのみでは自然定数の謎は解けないのではないかなぁと感じるが、「究極の統一理論によって宇宙の謎が解明されて欲しい」という思いストレートに吐露されていて好感がもてる本だった。読み物としても面白く、非常に読みやすい。



●須藤靖『不自然な宇宙』講談社BLUE BACKS 2019年

まさに「人間原理とマルチバース」の本。量子力学の多世界解釈を解説する際に「量子自殺」の思考実験がでてきたり、「世界はなぜ数学で正確に記述できるのか?」という問いに対して、「任意の無矛盾な数学の体系に対しては対応する物理法則・世界が存在するからである!」という過激派の意見が取り上げられたりと、すごくおもしろい哲学の本を読んだ気分だった。過激な意見も俎上にあげつつ、著者自身の見解は程よい。


●戸谷友則『爆発する宇宙』講談社BLUE BACKS 2021年
「爆発」をコンセプトに宇宙を俯瞰する本。最終章で人間原理とΛにまつわる著者らの研究の話がでてくる。人間原理がでてくるような本だとは思っていなかったので得した気分。ちょっと紹介しよう。

最新の銀河形成理論モデルを用いて、Λの数値によって銀河や星がどれほど生まれやすくなるかを調べたところ、Λの値が観測値よりも10倍、100倍高くても銀河や星は十分形成されることがわかった。しかし、それだと銀河内の恒星の密集値が著しく高くなってしまうようだ。恒星が多ければ、超新星爆発の発生率も高まる。近くで超新星爆発がおきるのでは、初期生命が観測者のような知的生命にまで進化する時間が足りない。観測者の存在と両立しそうな宇宙を考えていくと、われわれの宇宙のΛの値こそが典型的な値となるようなのだ(戸谷友則:2021年、269-271頁)。

そのためΛが大きな宇宙では、ある惑星に生命が誕生しても、致命的になるほどの近距離で超新星が発生する確率も当然高くなる。知的生命体にまで進化する確率は低くなり、ゆえに我々がそのような大きなΛの値を観測する確率も低くなる。この効果を考慮して我々のグループでまじめに計算したところ、たしかに、我々が観測しているΛの値が、確率論的に典型的な値となりうることが示された。(中略)
もちろん、これで小さなΛの原因が人間原理であることが証明されたわけではないが、このシナリオをさらに有望なものとする結果といえる。

戸谷友則『爆発する宇宙』講談社BLUE BACKS 2021年 271頁


●野村泰紀『マルチバース宇宙論入門』星海社新書 2017年
●野村泰紀『なぜ宇宙は存在するのか』講談社BLUE BACKS 2022年

詳しい……。後者は副題「はじめての現代宇宙論」。現代宇宙論の面白いところを幅広く、しかもけっこうディープに解説してくれている。ぜんぜん咀嚼しきれていないが、それは内容の豪華さの裏返し。



●三浦俊彦『論理学入門』NHK出版 2002年

哲学者による本。論理学入門であるにも関わらず、第Ⅱ章(第17節から第28節)が人間原理の論理を解説することに当てられているという不思議な本。さすが哲学者という感じのねちねちした詳しさにはとても助けられた。

記事執筆においてある意味一番お世話になったと思うが、話の展開がかなり速いと感じた。すごく面白いが、ちゃんと読めているかどうか自信がない。


●エリオット・ソーバー著 松本俊吉、網谷祐一、森元良太訳『進化論の射程』春秋社 2009年
科学哲学者の本。進化論について調べていた時に読んだ。

宇宙論について触れている本ではないのだが、デザイン論の論理について教えられた。日本においてはデザイン論の知名度は低い。それだけに、デザイン論の論理をちゃんと踏まえた上で丁寧に反論しているこの本は私にとって非常に新鮮だった。

ただでさえ高価だが、絶版なのか高騰している(「良い」中古品でも7700円はする。2023年3月4日時点)。私は図書館で借りて読んだ。













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