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なぜ世界はあるのか【哲学】


note開設当初から私のプロフィール欄には「哲学の存在論から目を離せません」などと書いてあります。にもかかわらず、今までその話題に関わる記事を書きませんでした。

思索と読書は続けていたのです。しかし、学ぶほどに「学ばねばならない論点」が逐次追加され続けて収拾がつかなくなっていったのでした。とはいえ、ここ最近になり執筆欲がでてきたので、現時点での見解を強引にでもまとめておくことにします。

今回のテーマは「なぜ世界はあるのか?」

もう少し具体的には、二つの問いを検討します。

問1 なぜ宇宙はあるのか?

問2 なぜ何かがあるのか?

似ているようにみえて、種類が異なる問題です。

問1は、おそらく答えようがある問題です。宇宙が生じたメカニズムについての説明をすれば、答えたことにはなるでしょう。これは科学者が探求していることです。現在はまだ未解明のことばかりであっても、いずれ正解にたどり着くこともありえなくはなさそうです。本記事では、現代宇宙論のすごみを眺めるような内容を書きました。ド素人の大味な解説ですが、宇宙のすごさを布教できれば幸いです。宇宙すごい!

問2は、もう少しちゃんと述べると、「なぜ何ものもないのではなく、何かがあるのか?」となります。これは哲学史上の難問ですが、答えようがあるのかを含めて謎です。だって仮にすべてを生み出す何かの「つきあたり」がみつかったとしても、「なぜこのつきあたりはないのでなくあるのか?」などと繰り返せます。どうも問い自体が暴走している気配があるのです。この点、本記事では問いそのものへの疑問も含めてネチネチ考えてみました。

二つの問いは独立しているのですが、世界の法外さを際立たせるために同記事内にまとめています。ずいぶん暴投していると思います。てっぺんからつま先まで全て間違っている公算大ですが、それでもよければご覧ください。

問1 なぜ宇宙はあるのか?


私たちが生きているこの世界は、宇宙(ユニバース)と呼ばれています。いまなぜ括弧つきでユニバースなどと書いたかといえば、宇宙という語がマルチバースを指す場合もあるからです。マルチバースとはユニバースの集合です。多宇宙論によれば、私たちのユニバースの外側にも無数のユニバースが存在します。その集合がマルチバースと呼称されているのです。

マルチバースは、ユニバースの由来を問うていった先に浮かび上がった存在です。私たちのユニバースのありようを説明する理論を考えていくと、その理論の帰結の一つとして「別の宇宙の実在」が出てきてしまうのです。

前置きが長くなりましたが、私たちがいるこの宇宙(ユニバース)の歴史をみますと、

誕生 → インフレーション → ビッグバン → 現在 

というように経過してきたようです。

以下は、宇宙物理学者である須藤靖氏(東京大学大学院理学系研究科物理学専攻教授)の著書からの引用です。

最後に、宇宙の「誕生」と「進化」は違うことを強調しておきましょう。単なる言葉の定義の問題だとも言えるのですが、少なくとも専門家は、ビッグバンと宇宙の誕生とを明確に区別しています。現在の宇宙を過去に遡ったときの高温高密度の状態がビッグバンであり、それは観測する立場から言えば現在の宇宙に対する初期条件です。しかし、それを説明するインフレーションモデルの立場では、インフレーションによって進化した宇宙の最終状態ということになります。
 インフレーションそのものもまた宇宙の誕生とは異なり、誕生後10のマイナス35乗秒に起こる宇宙進化の一段階に過ぎないというべきなのです。つまり、宇宙は誕生し、その後インフレーションを経験した後にビッグバンという状態に落ち着いてから進化し現在に至る、というのが標準的なこれら3つの概念の関係です。

須藤靖『不自然な宇宙』講談社 2019年 50-51頁


ビッグバンが始まりではありません。その前にはインフレーションがあり、その前に誕生があるのです。

宇宙誕生をめぐる議論をド素人なりにまとめてみましょう。

宇宙には物質以外のエネルギーが存在することが知られています。宇宙に物質しか存在しないとしたら、物質間に働く引力によって宇宙の膨張は減速するはずです。ところが、周知のとおり宇宙は膨張加速しています。これは物質以外の「場のエネルギー」の影響によるものです。そして、この場のエネルギーですが、真空(粒子ゼロの空間)でもなくなりません。それどころか、時刻が絞り込まれるほどにエネルギーの曖昧さが大きくなり、多くの粒子と反粒子のペアがぽこぽこと生じては消えていきます。真空状態における場のエネルギーを、真空エネルギーと言います。

宇宙はこの「真空状態」の相転移によって生じたとするのがインフレーション理論です。この理論は怪しいオカルト理論ではありません。天文学上の観察結果をうまく説明し、ビッグバンを理論的に説明するばかりではなく、宇宙の密度の揺らぎ問題、宇宙の一様性問題、モノポール問題という難問にも解決を与える宇宙に関する標準的理論です。

さて、宇宙は相転移に際して、莫大なエネルギーを放出しました。例えば高いエネルギーである「気体」の水蒸気が、低いエネルギーである「水」に相転移するとき、水はエネルギーを放出します(潜熱)が、事情はそれと同じです。ただし、真空エネルギーはあまりにも大きいために、インフレーションという、ビッグバンを遥かに上回る激しい膨張状態が生じました。このインフレーションに続いて、ビッグバンが起こります。さらにその後の姿が現在の宇宙というわけです。これがインフレーション理論による「粒子ゼロの空間からの宇宙創成物語」です。

インフレーション理論にもバリエーションがあるようですが、理論物理学者アレックス・ヴィレンキンのモデルによると、インフレーションは、「粒子がゼロの真空」どころか、時間や空間さえない「半径がゼロの閉じた時空」からでも発生しうるとのこと。そこにもごく微量の粒子が「トンネル効果」によって出現し、インフレーション発生にはそれで十分なのだそうです。普通のインフレーション理論は「量子真空」という空間を前提にしているようですが、このモデルはそれさえ必要としないそう。実は私には違いがよく分かっていませんが、ビレンケンの著書から引用してみます。

このトンネル効果に先立つ初期状態とは、半径ゼロの宇宙です。すなわち、宇宙はまったく存在していません。この特殊な状態には、どんな物質もなく、どんな空間もありません。また、時間もありません。何かが宇宙で起こっている場合しか、時間は意味をもちません。私たちは地球の自転とか、太陽のまわりの公転といった周期的な過程を使って時間を計ります。空間も物質もないのであれば、時間を定義することができません。しかし、ここでいう「無」の状態と、「絶対的な何もないこと」とを同一視することはできません。トンネル効果は量子力学の法則によって説明されるので、ここでいう「無」は、量子力学の法則に従っているのです。(中略)宇宙が出現する前に何もなかったのだとしたら、トンネル効果を引き起こしたものは何だったのでしょうか? 驚いたことに、どんな原因も必要ないのです。古典物理学では、ある瞬間から次の瞬間にいたる間に何が起こるかということは、因果関係によって決定されています。量子力学では、物理的な物体の振舞いは本質的に予測不可能であり、何の原因もなしに起こる量子的な過程もあるのです。たとえば、放射性原子を例にとってみましょう。放射性原子が崩壊する確率があるのですが、その確率はこの一分間でも、崩壊しなければ次の一分間でも、同じです。最終的にはいつかそれは崩壊します。しかし、その特定の時刻に崩壊を引き起こした何かがあるわけではありません。宇宙の核形成もまた量子的な過程であり、何らかの原因を必要としているわけではないのです。

アレックス・ビレンケン著 林田陽子訳『多世界宇宙の探検』日経BP社 2007年 305-6頁

まぁ、すごいってことはわかったぜ。

インフレーション理論はマルチバース論にも繋がっていきます。マルチバースをめぐる話は非常に面白いのですが、それは記事を分けて掘り下げます。

本記事の関心からして重要なのは、上述の理論は宇宙はなぜあるのかを説明するものになっているところです。

Q 宇宙はなぜないのではなく、あるのだろうか?

A 量子力学の法則(など)が存在するからである。この宇宙は、先行原因なくして生じたようだ。

上記の質疑応答はちゃんと成り立っています。

ただし、哲学気質、あるいは「なんでなんで攻撃」をする幼児気質だと、「なんでそんな法則等々があるの?」「その法則以外の法則じゃいけなかったの?」と続けたくなりますし、仮にその答えとして「〇〇の力」が見つかっても、「じゃ、なんでその力があるの?」と続けること疑いなし。問2ではそうした禅問答のようなものに向き合います。

ただ、宇宙の話はおもしろい話に満ちているので、ここ問1を終えるのはちょっと味気ない。一般書を読んでいて私が「宇宙すげぇ!」と思ったものから本記事で触れても不自然でないもの二つを紹介します。宇宙の大きさに圧倒されておくと、問2で展開される議論の奇妙さも薄れてくるはずです。

まずインフレーション現象を引き起こした真空エネルギーについて。真空にあるエネルギーのくせにビッグバンよりさらに桁違いの膨張現象を引き起こした強すぎるシロモノですが、なんと体積が増えるにつれ強くなっていくそう。水をこぼすと薄まりながら広まっていきますが、そういうイメージが当てはまるものではありません。

以下は世界有数の宇宙物理学者である佐藤勝彦さんの新書から引用。

真空エネルギーは体積が増えても決して薄まることはなく、逆に増えていくのです。たとえば宇宙の体積が二倍になれば真空のエネルギーも二倍、体積が一〇〇億倍になれば真空のエネルギーも一〇〇億倍になります。
「それではエネルギー保存の法則を満たしていないではないか」
 そう思って首をひねる人も多いでしょう。しかし、それが真空エネルギーの性質であり、だからこそ指数関数的な膨張が可能になりました。(中略)
 私とほぼ同時期に同じ理論を考えたアラン・グースは、そんな真空エネルギーの増大のことを「フリーランチ(タダ飯)」と呼びました。
 放っておけばいくらでもエネルギーが増えるのですから、そう呼びたくなる気持ちもわからなくはありません。

佐藤勝彦『宇宙は無数にあるのか』集英社新書 2013年 138-140頁


そして、インフレーション後に起きた「ビッグバン」ですが、これもすごい。ビッグバンはみなさまご存じだと思いますが、花火が開くように、爆弾が炸裂するようにイメージされていませんか? 私はそう思っていました。 人間スケールでイメージすると、そう思うのが自然でしょう。しかし、さすがは宇宙スケールというべきでしょうか。そうではないようなのです。

太陽光の話をしましょう。私たちがみる太陽は八分前の姿だ、とはよく言われますね。太陽表面を出発した光は約八分かけて地球に届くからです。この光を逆さに辿れば、太陽が八分前にあった位置がわかります。

さて、宇宙マイクロ波背景輻射(CMB)というものがあります。これはビッグバンの残光とされる電磁波で、なんと地球に届いています(※)。その光を逆さに辿れば138億年前にビッグバンが起きた位置について分かると思うのですが、その光はあらゆる方向からきている。しかも、ビッグバンは一瞬の出来事のはずなのに、光は降り注ぎ続けている。

※ 正確にはビッグバンから約38万年後の光。それ以前の光は直進できないので私たちのもとには届かない。

なんだかおかしいですね。しかし実際に起きた事実そのものがおかしいそうです。ビッグバンは「ほぼ無限の体積をもつ空間のいたるところで同時に起こった現象」とみられています。

ビッグバンという言葉から想像されるイメージは、花火や爆弾が爆発するのと同様に、宇宙はある一点で爆発し、我々はその「爆発地点」からずっと離れた場所にいて、そこから届く光(すなわちCMB)を眺めている、といったものでしょう。しかしすでに述べたように、CMBはある瞬間にある方向だけからやってくるものではありません。全く逆に、全天のあらゆる方向から等方向に、しかも常に届き続けます。この事実は、ビッグバンの情報はその時点で我々を囲む地平線球の境界面から常にやってくることを意味します。したがって、「ビッグバンは点ではなく(ほぼ無限の体積を持つ)空間のいたるところで同時に起こった」と解釈せざるを得ないことになります。

須藤靖『不自然な宇宙』講談社 2019年 78頁


ビッグバンにせよ、インフレーションにせよ、法外な大盤振る舞いです。やはり世界のスケールは人間の直観を遥かに超えてきます。

この時点で人間の直観は遥か彼方に置き去りにされているのですが、『宇宙入門』みたいな一般書を読むだけでも面白い情報・発想・学説めじろおし。一説によると私もあなたもあの宇宙もこの宇宙も無限に存在するんですってよ。宇宙論の本がどんどん売れて宇宙談義だらけの社会になっていってほしいです。

今後も人間の直観を裏切る新発見が続々なされていくことでしょう。

進化の過程で私たちが獲得した直観というのは、私たちの祖先が生存するうえで価値のあった物理の日常的側面に関してのみ、有効なものなので、高度な技術を使って日常のスケールを超える実在をのぞき見ようとするときにはいつでも、私たちの直観は誤りを犯すと予想されるのだ。すでに見たように、実際これは過去に何度もくり返し起きている。たとえば、私たちは相対性理論や量子力学が直観に反する性質を持つことを知っている。当然、究極の物理理論も、それがどんなものであれ、いっそう奇妙に感じられるはずなのだ。

マックス・テグマーク著 谷本真幸訳『数学的な宇宙』講談社 2016年 426-7頁


問2 なぜ何かがあるのか?


そもそも、なぜ何かしらが存在するのでしょうか? はじめから何も存在しないのならば、厄介事も含めて何も生じません。それはそれで大変結構なことではないでしょうか。喜怒哀楽もないものの、生老病死含めて苦しみのすべても存在しないのです。もっとも、「大変結構なこと」も含めていかなることもないわけですが。

宇宙があること、地球があること、あなたがいること、わたしがいること、素粒子があること……。どれをとっても不思議です。どの存在もそれぞれに謎めいているわけですが、ここで問われているのはさらに一歩前の問いです。
そもそもなぜ何かしら一つ以上のものが存在している状態なのか。「何もない、それでおしまい」ではなかったのはなぜか? 

仮に宇宙物理学が次々に宇宙の謎を解明し、宇宙を「誕生」させたメカニズムまでもがすっかり明らかになったとしましょう。

それでも「そもそも、なぜそのメカニズムが存在するのか?」が別途問題になると思われます。そして、その構造が存在する理由となっているメタメカニズムがいずれ明らかにされたとしても、再び「なぜそのメタメカニズムが存在するのか?」と別途問われることになるでしょう。「それはなぜ存在するのか?」式の問いは際限なく続けられていきます。

というのも、「宇宙を生み出すメカニズムはどうなっているか?」という問いは「具体的にどんなものが存在するのか?」という問いの一種です。しかしそれらとは別種のものとして「具体的にどんなものが存在するかはさておき、そもそも何かしらが存在するのはなぜなのか?」という問いがあるのです。前者の問いに答え続けても、後者の問いに答えたことにはなりません。

深遠さと浅薄さ、肥沃さと不毛さを同時に感じさせるこの問いは、幼き日の私をずいぶん悩ませていた問いでした。「ドラえもんで学ぶ宇宙のひみつ」みたいな学習マンガ(どのマンガだったかは忘れてしまった)にはインフレーション理論や多宇宙の話がでていたんですが、やっぱり「なんでこんなものあるの?」と思ってしまうのはやめられない。

存在って謎だなぁ、と漠然と感じつつもうまく言語化できずに過ごしていた私なのでしたが、あるときたまたま読んだ哲学入門書(どの本だったかは忘れてしまった)によってライプニッツの一文「どうして何もないのではなく何ものかが存在するのか?」を知り、膝を打ちました。

そうだ、私はこれを不思議に思っていたのだ! と。

常識的な人たちからは「そんなん分かりっこないじゃん」と一蹴されそうな問いでもあるわけですが、誰かこうした根本的なことを考えてくれる人がいると私のような人間のQOLが著しく改善されます。なんなら人類の1割くらいはこういうことばかり考えていてほしい。

ちなみに、一文の元ネタは「理性に基づく自然と恩寵の原理」にあります。最近岩波から出た訳書に収録されていました。示唆に富む文章なのでやや長く引用しておきます。

ライプニッツ「理性に基づく自然と恩寵の原理」
ここまで私たちはただ自然学者としてだけ論じてきた。これから形而上学ヘと上らねばならない。その際、一般にはあまり使われていない大原理を用いる。すなわち、何ものも十分な理由がなければ起こらない、言い換えれば、どんなことでも、事物を十分に知る者が、なぜこうなっていて別様ではないのかを決定するのに十分な理由を示すことができない場合には、何も生じない、という原理を使うのである。この原理を認めたうえで当然に問える第一の問いは、何ゆえ無ではなくて何かが存在するのか、という問いであろう。なぜなら、無のほうが、何かあるものよりも単純で容易だからである。さらに、事物は現実存在しなければならないと仮定したうえで、何ゆえ事物はこのように現実存在しなければならず別の仕方ではいけないのか、という理由を示すことができなければならない。

ライプニッツ著 谷川多佳子 岡部英男訳「理性に基づく自然と恩寵の原理」
『モナドロジー 他二篇』岩波文庫 2019年
84-85頁 太字部分は原文だと傍点

「何ゆえ何かが存在するのか?」という問いと「何ゆえこのように存在するのか?」という問いは別種のものであるという点をきちんと指摘しているところにグッときます。

ただ、ライプニッツ自身による解答は私にはチンプンカンプンで分かる見込みがなさそう。そこで別の哲学者の論考をもとに考えをまとめていくことにしました。具体的には以下二つが主要参考文献です。

ロバート・ノージック「なぜ何もないのではなく、ものがあるのか?」『考えることを考える(上)』(坂本百大監訳、西脇与作・戸田山和久・横山輝雄・柴田正良・服部裕幸・森村進・永井均・若松良樹・高橋文彦・荻野弘之訳)青土社 1997年

ピーター・ヴァン・インワーゲン「そもそもなぜ何かがあるのか」(柏端達也・青山拓央・谷川卓共訳)『現代形而上学論文集』勁草書房 2006年

議論の順序は私にとって分かりやすいように再構成し、適宜内容を削ったり補ったりしています。また内容についても私の誤解等によって真意が歪められているところがあるかもしれません。この問題について関心のある方は、上記文献を直接当たっていただきたいと思います。

というわけで、ようやく問2の本編スタートです。

1 問いそのものの偏り


一般論として、「なぜYではなくXなのか」式の問いが浮かぶのは「Yが自然であり、Xが不自然にみえるとき」です。「本来はYのはずなのに今回はXだとは不思議だな。なぜYではなくXなのか?」と疑問に思うときに、こうした問いが立てられます(ノージック、前掲書、187頁)。
 
ゆえに、「どうして何もないのではなく何ものかが存在するのか?」と言われてしまうと「本来は何もない方が自然なはずだ」という姿勢をとるよう促されます。ですが、「何もない」と「何ものかがある」の自然さを比較しようとするときに、どちらが有利かを最初から決めてかかれるでしょうか? 

むしろ、決めてかかるとしたら「何もない」の方こそ不自然な状態だと推定されてよいでしょう。現実は「何ものかがある」のですから。

それにさらなる問題があります。

「何ものもない」こそが世界の真実であったとしましょう。

しかし、世界に何もなかったらなかったで存在をめぐる謎は解消しないはずなのです。というのも、「どうして何ものかが存在するのではなく、何もないのか?」という不思議が湧いてくるからです。もちろん、何もない世界では、何もないことを不思議に思う存在もまたいないわけですが、現実に問いが立てられるか否かに関わらず、謎は謎です(ノージック、前掲書、182頁)。

実は、「何かがある」にせよ「何もない」にせよ、どちらにせよ謎はあると思えてしまうのです。問い自体に偏向の疑いがありますので、そもそもなぜ謎を謎だと感じたのかを再検討することが有益でしょう。

――どうして何もないのではなく何ものかが存在するのか?

この問いは、そもそもなぜ生じたのでしょうか。本記事でも引用したライプニッツの議論に立ち戻りましょう。

かの議論を整理すると、

●『何ものも十分な理由がなければ起こらない』という前提に立つ。
●「ある」より「ない」のほうが単純で容易である。
●  ゆえに、何か十分な理由がない限り「ある」は生じていないはずである。

●  なのに現実は「何ものかが存在する」。その理由が謎である。

という展開になっていました。

しっかり前提を明示している議論は素晴らしい。この前提を手がかりにすれば、次に考えることにも見当がついてきます。

2 理由なしに生じた説


第一に考えたいのは、「何ものも十分な理由なしには生じないはずだ」という前提は確固たるものなのか、という点。 

「十分な理由がなくとも生じるものもある」と認めてしまえば、世界そのものは特段の理由なく生じたという可能性がみえてきます。

私たち人間は何事にも理由づけをして生きています。理由づけはときとして非常にうまくいき、宇宙規模の現象さえ説明します。おそらく私たちが生きている領域でみられる現象の多くには理由があるのでしょう。しかし、宇宙を包摂する「世界全体」のスケールで考えたときには、理由なしに生じている現象があるのかもしれません。そして「世界全体」自身にしても、理由なしに生じる現象の一つかもしれないのです。

あるものが理由なしに生じうるとするのならば、単純で容易なものほど生じやすい等と考える必要もなくなります。こうなると「何もない」より「何かがある」という状態の方が実現しやすかったとさえ言えるかもしれません。

どういうことか?
 
まずはきわめて大雑把に考えます。「何もない」と「何ものかがある」という二つの状態を、どちらも平等に実現し得た対等な選択肢だとみなしましょう。こうなると、どちらの実現確率も半々とみなすほかありません(もちろん実際に半々なのかは知りようがないのが大前提ですよ。できる範囲で合理的に考えてみようという話に過ぎません)。すると、「何ものかがある」世界なのは、50%の確率が実現したからだと説明されます。
 
とはいえ、世界に関しては、実現する結果が「何もない/何ものかがある」の二択と捉えるべきではないでしょう。何ものも存在しない状態は一つしかありえません。他方で、「何かがある状態」は無数に考えられるからです(ノージック、前掲書、188-189頁)。
 
状態1 すべてのものがある
状態2 一つのものを除いてすべてのものがある
状態3 二つのものを除いてすべてのものがある
 ……
状態X すべてのものが、どれも存在しない(=何もない)
 
「何もない」は状態Xのみ。残りすべての状態は「何ものかがある」に分類されます。どの状態も実現確率において平等であるならば、何ものかがある状態が実現するのは当然の結果だったといえるでしょう。この現実を状態Aとするならば、状態Aが状態Xである確率はゼロということです。
 
理由なしに生じた説は、世界についてこう説明します。

――世界は理由なく生じた。ゆえに理由を問うても不発に終わる。「なぜ人間は八本足か?」という問いには「そんなに足はない」と答えるだろう。「世界はなぜ生じたの?」との問いには、「なぜなどない」と答えよう。

――理由なく生じたこの世界が「何ものかがある状態」なのは自然である。何もないとは極めて実現しにくい可能性だったのだから。

3 「何かある」の方が実現しやすい説


第二に指摘したいのは、「十分な理由がないと生じないもの」があるとして、それが有であるとは限らない点です。むしろ十分な理由がなければ生じないのは無の方かもしれません。

ライプニッツは、無を単純かつ容易だと考えています。この認識があるから、「何かある」と言えるためには何もない状態を覆すほどの「十分な理由」があったのだと考えたくなるわけです。

ただし、「無は単純である」「無は容易である」のどちらかまたは両方に誤りが含まれているかもしれません。順にみてみましょう。

無は単純である、についてはさほど違和感がありません。ただ、単純であることとありふれていることを混同しないために、ここでいう「何もない状態」は未だ発見されていないことを強調しておきたいと思います。サイコロ大の空気中には10の19乗の分子が含まれます。そして以下の引用文にもある通り、大型加速器実験では真空から反粒子を調達しています。「何もなさそう」と「何もない」では全く違うということです。

陽電子は電子の双子のような存在で、電荷の符号だけが正負逆の素粒子です。陽電子のような粒子を「反粒子」とよびます。ところが反粒子は自然界にはほとんど存在しません。素粒子実験では、陽電子を一体どっからもってきているのでしょうか? 陽電子は、エネルギーをあたえて真空からつくりだすことができます。まず、加速させた電子を金属のかたまりに打ちこみます。すると金属電子の中の空間で、電子は高エネルギーのガンマ線(光)を放出します。このガンマ線から、陽電子と電子のペアが誕生するのです(対生成)。「もともと存在しなかった陽電子と電子のペアを真空から“拾って”くるのです」と語るのは、東京大学素粒子物理国際研究センターの駒宮幸男教授です。ただしこの反応をおこすには、金属原子の原子核から出ている別のガンマ線の手助けが必要となります。そのために加速させた電子を金属原子に打ち込みます。金属といえども、その中は素粒子にとってはスカスカの真空です。つまりこれは真空から陽電子と電子を生み出したといえます。

『ニュートン別冊 インフレーション,パラレル宇宙』ニュートンプレス 2015年 26頁


こう考えると、「無は単純である」は認めてもいいものの、そこから「無こそが自然である」だとか、「無であることには理由を要しない」を認める必要性はでてこないと思われます。

無は容易である、の方はかなり怪しい話です。「容易である」とは何なのかが重要となります。「容易である」とは「生じやすいこと」だと定義してしまうなら、「無は生じやすい」という理由なき断言になってしまいます。理由なしでよいならば「有は生じやすい」とも言えますね。

別の定義でいきましょう。ふつう「容易である」は「簡単だ」という意味で使われますが、「無は簡単だ」では、いかにも人間的な偏見を読み込んでしまいそうです。例えば今だって私は「何もしないと記事は完成しない。ゆえに無の方が容易だ」と感じます。ただし、これはいかにも人間スケールの話であって、世界のスケールでみたとき何が「簡単」なのかは分かりません。

むしろ、現実は真空にさえ「何かがある」のです。何かある方が容易なのでは? ライプニッツの議論は、無と有を入れかえるべきかもしれません。

● 「ない」より「ある」のほうが容易である。
●  なぜ容易かといえば、「ない」は一通りしかありえないのに対し、「ある」のあり方には無限のものがあるからである。
●  ゆえに、何か十分な理由がない限り「ない」は生じていないはずである。
● 「ない」を生じさせる十分な理由はない。

●  現に現実は「何ものかが存在する」。ここに説明を要するものはない。

これはこれでそれらしい説明になっているのではないでしょうか?

また、そうでなくともライプニッツの議論は「何かがある」に対して厳しすぎるようにみえます。無は存在理由を要しないのに対して、そこから少しでも逸脱すると十分な理由が求められるというのですから。

「単純で容易なものほど存在しやすく、複雑で困難なものほどは生じにくい」というように程度問題にまで緩和する方が、納得感は増します。この路線だと、現実は「生じにくい」ものの一つというだけで、「十分な理由を要するもの」に当たるほどのものではないと言えるかもしれません。

ちなみに、「単純で容易だと存在しやすい」という前提を拒否することもできるでしょう。ごもっとも。しかし、それらしき前提を置いてみた上で考えるというスタイルもまた大事だと思います。

4 生じていない説


第三に考えたいのは「世界は生じたものだ」という問題意識そのものが先入観かもしれない点です。「無から世界が生じた」というイメージは完全に誤りで、世界は「生じる/生じない」というカテゴリーが適用できない形であるのかもしれません。

この線も十分にあり得る話です。

いかなる粒子も、時間・空間も、その他いかなるものも絶対に生じない状態を「無」と呼ぶことにしましょう。その無からこの現実が生まれた可能性はゼロです。なぜなら、そうした「無」がかつて一度でも存在したと仮定するならば、そこからは一切なにも生じないはず。私たちのこの現実が存在するという事実と矛盾するのです。現にこの現実があるという事実が、そうした「無」の存在を反証しています。「全く何も生じる余地がない無の状態」は、かつて一度も存在したことのないという意味で不自然な状態なのです。
この発想は以下の記述によって知りました。

こうした特定の背景理論のいずれとも独立に、私たちはものがある状態が自然状態だとする一般的な理由ないし論拠に注目しておかねばならない。(この論拠は、当時一二歳のエミリー・ノージックによって私に指摘された。)あるものが無から創造されることがありえないならば、現にものがある以上、それは無から生じたのではない。さらに、無だけがあった時など決してなかったことになる。かりに無がかつて実現した自然状態だったとしても、あるものは生じ得なかったはずだ。しかし現にあるものはある。したがって、無は自然状態ではなく、もし自然な状態なるものがあるならば、それはものがある状態である。(もし無が自然状態であるなら、私たちはあるものを手に入れることはありえない。つまり私たちは無の状態からこの状態へと至ることができないはずである。)

ロバート・ノージック著 坂本百大他訳『考えることを考える(上)』青土社 1997年 185-186頁
太字部分は原文だと傍点


無や存在に関する議論は色々読み、さまざまに啓発されましたが、その中でにいちばん感心したのがこの発想です。当時12歳のエミリーさんに感謝。

――何もなかったことなんてない。そもそもなぜ何もないことがありえたと思い込み、しかもそこから何かが「生じた」などと思ってしまったのか? ちょっと考えのスケールが日常生活的すぎるよ。

個人的には納得感が強く、これで話はおしまいでも良いとさえ思いました。

しかしながら、もう少し続けましょう。世界が生じていないにせよ、ライプニッツが立てた二番目の問い「なぜものはこのようにあり、別の仕方ではいけなかったのか?」は依然として答えを求めています。

私たちがいるこの現実を状態Aだとみなしましょう。可能性としてはありえたようにみえる状態1、2、3……状態Xそれぞれのうち、なぜ現実が状態Aであるのか。どれも同じ「ある」なのに、よりによってなぜこのありさまなのでしょうか。

この点に関して、ノージックは豊饒性原理なるものを提案しています(ノージック、前掲書、189頁以下)。大雑把に紹介しましょう。

豊饒性原理:可能なことのすべてはどこかで実現している。
 ① 可能なことのすべてはどこかで実現している。
 ② 「可能なことのすべてがどこかで実現すること」は可能である。
 ③ ①②より、可能なことのすべてはどこかで実現している。

なお、この原理が正しいとしても、「あらゆる可能性が実現していない」という領域は存在します。可能なことが起こらないことは可能だからです。これを領域Xと呼ぶならば、この領域は「無」と言えましょう。

領域1 すべての可能性が実現している
領域2 一つのものを除いてすべての可能性が実現している
領域3 二つのものを除いてすべての可能性が実現している
……
領域X すべての可能性が実現していない(=何もない)

私たちがいる領域をαとするならば、領域αには私がおり、あなたがおり、地球と宇宙があり、もしかすると多宇宙があります。しかし別の領域をみれば、天国や地獄のような領域、量子力学の法則さえ成り立たない領域、もっと突拍子もない支離滅裂な領域、私たちからすれば何もないとしか言えない領域も実在するのです。もっとも、それぞれの領域は因果的な繋がりが一切ありません(因果的な繋がりがあるなら同じ領域とみなせます)。ゆえに、実在を確認することはできないでしょう。

この原理の魅力は、「何ものもない」「何かがある」と形容しうるすべての可能性について平等に配慮しているところです。可能なことはどれも無差別に実現しています。「なぜこのようにあるのか?」という問いには、「別の仕方のあるでもよかったし、現に別の仕方で存在する世界もある」と答えることができるのです。

これは何でもありな突拍子もない話にみえます。じっさい突拍子もないとは思いますが、何でもありというわけではありません。というのも、この原理が正しいとしても、不可能なことは起きないのです。緑色をした爆音がやまびこを捕鯨することはありません。

豊饒性原理には事実による裏付けがありません。事実による裏付けができるという可能性さえ否定しているようにも見えます。観測データや先行理論との整合性を求められる多宇宙論などとは違うわけです。ただし、世界の眺め方の一つとしてはだいぶ魅力的だと感じました。

もちろん、「なぜ何かがあるのか?」という問いに対しては、上記以外にも答え方はあるでしょう。とはいえ、私は本記事でとりあげた諸説に面白みを感じています。

5 二つの説に関する補足


2、4で紹介した説明によれば、すべての状態またはすべての領域は、どれも等しくあり得るものだとされています。

しかし、これが真実だとすれば、私たちの生きている世界がかなり秩序だっている(法則という観念が成り立つ程度には規則性がみられる)のは不思議です。種類においては無秩序状態の方が圧倒的多数だと思われるのに。私たちはとりわけ幸運だったのでしょうか? 

この点、4で紹介した豊饒性原理からは幸運以外の説明が可能です。

領域A:秩序だっている    ごく稀
領域B:秩序だった部分をもつ 少数
領域C:無秩序        圧倒的大多数

これらすべての世界が実在するとして、理性的存在の居住可能地域は専らAとBです。そしてたぶんこの世界は居住可能地域のうちでは多数派を占めているBの方にあるのでしょう。Cは多数あるのだが私たちが生まれにくい世界だったというわけです。

この点、2の「理由なしに生じた説」だと、なぜ私たちのいるこの世界がCのような無秩序状態でないのか謎にみえます。

ただ、理由なしに世界が生じ得るならば、状態A世界(秩序だっている)、状態B世界(秩序だった部分をもつ)も多数生じていると考えることもできるでしょう。そしてそのうちの一つに私たちが属しているというわけです。おそらく状態B世界です。

これは豊饒性原理の帰結にかなり接近していますが、「理由なしに生じた説」である以上は、あらゆる状態が網羅的に実在しているとはみなせないでしょう。網羅される理由もまたないのですから。

6 まとめにかえた問答


――なぜ何もないのではなく、何かが存在するのでしょうか?
「問いを明確にしてみよう。いったい何がないことが不思議なんだい?」

――宇宙はなぜないのではなく、存在するのでしょうか?
「どうやら宇宙は先行原因なくして生まれることもあるようだ。宇宙の専門家がどんどん謎を解き明かしてくれている」

――『先行原因なくして宇宙が生まれる』のような説明が仮に本当だとして、そうした仕組みはなぜないのではなくあるのでしょう?
「それさえも説明する究極理論があるのかもしれないが、そうした種類ではない答え方が二通りある。一つは、その仕組みそのものが理由なく生じたというもの、もう一つはその仕組みは単に常にあるというものだ」

――しかし、やはりその仕組みも含めて『何もない』という世界の方が自然だったと思えてしまいます。
「自然さを言うなら、何もないよりも何かがある方が自然だろう。現にいまが何かがある状態なのだし、もし『絶対に何も生み出さない』という意味での無が一度でもあったのだとすれば、この現実は生じていないはずだ。この現実が生じているということは、そんな無は一度もなかったということになる。」

――しかし、そうであったとしても、『何もない』もまたありえた可能性だったと思ってしまうのです。
「『何もない』はありえた状態かもしれないし、別の領域として現にあるのかもしれない。だが、『何もない』という一通りの種類しかない可能性に対して、『何かがある』には無限の種類の可能性がある。いま・ここは、多数派である後者の世界の一つということかもしれない」

――「何かがある」のが自然だとしても、「何かがある」には無限の種類があるはずです。なぜ他ならぬこの状態が実現しているのでしょうか?
「他であるあの状態やその状態も実現しているのかもしれないじゃないか。そして、それぞれの状態にいる理性的な存在は、それぞれ『なぜ他ならぬこの状態が実現しているのか』と不思議がっているのだ。しかし、その状態でなければならなかった理由が実在するとは限らない」

――可能な世界が無数にあるという説明にリアリティはあるのでしょうか?
「人間はいつも世界の大きさを過小評価してきただろう。海の向こうには大陸があったのだし、太陽の向こうにさえ限りない宇宙が広がっていた。今度はこの宇宙さえ無数に実在する宇宙の一つに過ぎないのかもしれないと言う説に驚いているが、さらにその先がないとも言い切れない。多宇宙でさえ、無数に実在する可能性の世界の一つ。ありえない話ではないだろう」

――さらにその先もあるのでしょうか? 不可能な世界も存在するとか?
「さすがにそれは不可能だろうよ。だって不可能なのだから」

――しかし可能・不可能、存在する・存在しないなどという言葉で捉えられるものがすべてなのでしょうか? というか、すべて、の中にあるものだけがすべてなのでしょうか? ああ、謎が解けていないのに謎ばかりが増えていきます。
「まぁまぁ、ゆっくり考えていこうじゃないか。私にとっても世界はさっぱりわからないことだらけだ」


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