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ソフトパワーで城主の座についたさんじゅーろー 備中松山城 頼久寺 岡山県高梁市

日本の各地にある多くのお城。なかでも現存天守と呼ばれる江戸期以前に建てられた天守を擁するお城は全国に12城、いずれも国宝か重要文化財指定です。お城好きが最初に目指すべき分かりやすい目標。
国宝の姫路、松本、松江、彦根、犬山の5城(市の人口数順)は知名度も充分でしょう。そして重要文化財は松山、高知、弘前、丸亀、丸岡、宇和島、備中松山の7城。丸岡と備中松山は、城名と所在地の市名が違うので知名度にはややキビシイかもしれません(ドコそれ的な)。ちなみに丸岡城は福井県坂井市にあるお仙泣かすな馬肥やせの城。
そして備中松山城というと、あの織田信長(1534-1582)同様に本丸で寝起きしている城主がいます(現在のはなし)。しかも彼は自らの力によって城主の座を手に入れたツワモノ。
そんな令和の殿さまがおわす高梁市、備中松山城の記録です。




高梁川と成羽川の合流地点 左奥が高梁市中心

高梁市は岡山県の中西部にある人口26,000人の小さな市。北からの高梁川と西からの成羽川が合流する旧城下町。合流ポイントにはかつて山陰で大勢力を築いた尼子氏の忠臣山中鹿之助やまなか しかのすけ幸盛ゆきもり:1545-1578)の墓碑があります。鹿之助はカタキである毛利家を相手に、没落した尼子家を再興しようとあきらめなかったシツコイ人。毛利に捕らえられても脱走し、播磨上月城で籠城の末に降伏。備中松山城にいた毛利輝元のもとへと連行される途中、ココで殺されました。尼子家は再興できませんでしたが、子孫は近畿地方に進出して鴻池財閥を形成しています。ちなみに尼子家の子孫は、毛利家に保護され家臣として存続しました。

鹿之助の墓標 「願わくば、我に七難八苦を与え給え」 いらんけど

高梁市は、ほぼ山です(笑) 備中松山城は、市の東部にある市街地の北側、臥牛山にあります。


備中松山城

岡山県高梁市内山下1


お城の歴史は鎌倉時代に遡ります。安土桃山時代には東に宇喜多家、西に毛利家のはざまにあった城主三村元親みむら もとちか(?-1575)が、毛利家との同盟関係を破棄し織田家に通じたため毛利家に滅ぼされ、以降は毛利家の城に。
1600年の関ヶ原の戦い後は、徳川家康に派遣された小堀正次まさつぐ(1540-1604)が支配。以後紆余曲折があって、高梁は徳川譜代が治める地に。
現在残る城郭は小堀氏や水谷みずのや氏の整備・拡張によるもの。

それでは現存天守の中ではアプローチが最も過酷な備中松山城へ! 県立高梁高校(旧藩の政庁跡)のそばから登城します(車で)。

中州公園あたり
すでに石垣化しています
振り返ると広がる棚田

棚田を過ぎると城まちステーション(5合目)の駐車場に出ます。車両規制時はここからバスでの登城となります。ステーションから天守まで歩けば1時間ぐらい。そしてふいご峠にある最後の駐車場(8号目)から天守までは徒歩約20分。

ふいご峠からはトレッキング
石垣の波にたどりつくまで黙々と歩く
櫓や門があったのでしょう
右奥が天守

天守と天守裏の二重櫓は江戸期の現存建築物ですが、多数の復元された櫓や塀によって江戸時代の雰囲気が維持されています。

天守(重要文化財)

よく見ると天守は岩盤の上に建っています。城主の姿が見えないので先に天守へと。

ハシゴのような階段は現存天守あるある。
囲炉裏を完備(暖房用)
勝重は京都所司代だった人

この板倉勝重(1545-1624)所用の具足は高梁市歴史美術館で見ることができます(常設展示かは不明)

天守からの眺めは微妙(開口部が少ないため)。本丸広場を見てみると人だかりが見えました。たぶん城主のおでましでしょう。


さんじゅーろー

五の平櫓内でリラックス中の城主さんじゅーろー。人慣れしていて恐ろしくマイペース(ネコはそんなもんか)。しかも周囲への警戒感はゼロ。

お客さんが集まってきたのでスタッフの方(たぶん家老のじいや)が「さんじゅーろー 散歩してきなさい」と何度か促しますが聞いちゃいない。

毛づくろいに忙しい城主
じいやがうるさかったのか、じいやのスリッパにガリガリと爪を立てる
御成りかと思わせて
動かず

「野良猫ですか」と聞くと、じいやは「迷い猫です」ときっぱり。何度かこちらが「野良猫」と表現すると、必ず「迷い猫」と訂正されるじいや。出自にこだわるあたりは武家と同じ。

さんじゅーろーは2018年の西日本豪雨災害後にお城周辺に姿を現したそうです。高梁川下流の倉敷市では浸水被害が甚大だったのですが、高梁市も浸水や半壊した住宅が多く、観光客が激減したころのコトです。
実はさんじゅーろーは高梁市内の方が受け入れていた保護ネコで、豪雨後に逃げ出して行方不明に。そのまま現れたお城に居ついて人気者となり、観光客のV字回復に貢献。その噂を聞きつけた飼い主が自分のネコだと確認し、幸せそうだったので観光協会へと譲渡され、めでたく城主の座に。
武のチカラではなくカワイイのチカラでトップへと登り詰めました。

実はその後脱走したそうです。しかもメディア取材の日に。そして大捜索の末に発見され、無事帰城します。なんだか上杉謙信の高野山への出家エピソードのようです。彼もまた人の欲に疲れたのでしょうか。

詳しいさんじゅーろーストーリーを知りたい方はこちらを


殿は散歩には気乗りしないようだったので、天守裏側にある二重櫓を。

二重櫓(重要文化財、通常非公開)
天守の石垣

分かりにくいのですが、石垣は岩盤の上に。

本丸石垣の周辺は岩だらけで、コケれば大惨事に。
左に見える五の平櫓(復元)がさんじゅーろーの常駐&寝所。さすがに重文の天守には立ち入れないでしょう。ガリガリ爪を研ぐのは不可避(笑)

ちなみに名前のさんじゅーろーは高梁出身の新選組の人からだそうです。
ちょっと調べてみると微妙な人。藩から御家断絶されていて、現城主とはキャラクターに落差ありすぎ。
さらに驚いたのが当時の藩主板倉勝静いたくら かつきよ(1823-1889)。板倉家には養子で入っていて、祖父は松平定信さだのぶ(1759-1829)。つまり勝静さんは8代将軍徳川吉宗(1684-1751)の孫の孫。その次の城主がネコ!


じいやはインスタ使い

二重櫓から降りてくると専用櫓?でまたもリラックス中。ただしTシャツの販売促進には一役。

似てないような

本丸から降りてきた二の丸には早くも石像(寿像)が。

高梁市街

あそこからよくネコが登ってきたものです(岐阜城時代の信長は日常的に金華山頂上の天守と麓の御殿を往復していたそうですが)。
その距離は6km、さんじゅーろー恐るべし。ただの看板ネコではなく、城主になるべくしてなったネコ。

帰り道で3人組のオジサンたちとすれ違いましたが、「こんなトコわざわざ攻めるヤツおらんやろ」と会話していました。そういうお城です。

下城して美のチカラで武家も公家も魅了した人の足跡を。


天柱山 頼久らいきゅう

岡山県高梁市頼久寺町18

頼久寺は臨済宗のお寺。室町時代に足利尊氏あしかが たかうじが安国寺として再興。1504年に当時の城主上野頼久よりひさが伽藍を再整備し、彼の没後に安国頼久寺となります。庭園は小堀遠州作とされています。遠州は父の後を継いで備中の代官を務めています。お城は荒れていたので小堀親子は頼久寺を仮の館として政務にあたったそうです。

もはや要塞
蓬莱式枯山水の庭園


悟りの窓?
中央の愛宕山を借景に
左側のサツキの大刈込は大海を表現
刈込はプードル的


小堀遠州という人

小堀遠州こぼり えんしゅう政一まさかず:1579-1647)、茶の湯の師匠は古田織部ふるた おりべ(1543-1615)。茶道遠州流の祖で綺麗さびの人。豊臣秀吉のちに徳川家康に仕え、作事奉行として才能に恵まれたテクノクラート(お城や御殿を造る官僚)の面と茶の湯や作庭等にセンスが光るアーティストの面を持っていた人。

(参考)大徳寺孤蓬庵(京都市北区)
遠州開基の塔頭 門前の石橋は遠州作
(参考)小堀遠州具足 @トーハク

戦場を駆け巡ったタイプではないようです。具足もありますが、派手さを抑えた目立たない系。高梁ではさんじゅーろーほどの押し出しはありません。

頼久寺から江戸時代の風情を残す町並みへ。

個人宅ですがちょっぴり遠州

何軒かのお宅の玄関戸には花入れにさりげなくお花が。見学可能な武家屋敷もあります。

さんじゅーろーの出現はドラマティックでしたが、探せば地味に歴史の足跡が残っている高梁。ちなみに市内の成羽町には、もう一つお城のような陣屋跡があり、そこには安藤忠雄設計の成羽美術館が。土地の記憶と現在の歴史を積み重ねています。



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