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Ⅰ章 彼の場合⑤

 「さて、どこから話そうか……」

 木嶋聡は、テーブル越しに見つめてくる彼女に諦めた様子で言った。
結局、2人は川沿いのホテルのラウンジにあるカフェテリアに落ち着いた。
ここからは川が一望できる。都心にあって海が近いこの街には川が多い。

 僕の故郷とは真逆だな、と思いながら彼は語り始めた。



 彼の故郷は長野県にある山沿いの村だった。
そこは都心から離れているため、時代とともに人が流出して、今となっては残った住民だけで村を形成していた。
いわゆる過疎地域の生まれだった。

そうした環境の中で自分と同じ年頃の友人を見つけることは難しかった。
腰を下ろして話さなければならない子供達しかいなかった彼にとって唯一の救いは、『彼女』がいたことだった。
少なくとも彼は今もそう思っている。

 水澤千尋。木嶋より2歳年上で向かいの養鶏場の娘。
木嶋の家が農家だったこともあり、家族間の交流も多かった。

 千尋は好奇心と優しさが同居しているような人だった。
小学の頃は、幼児たちの面倒を見ながら勉強をして、休日は木嶋を誘って近くの山や小川へ連れ出しては迷い、泣かせていた。

 しかしそれでも木嶋は彼女に不快感を抱いたことはなかった。
千尋は、数少ない歳の近い友人であったし、本では知りえないような発見を体験させてくれていた。彼にとってのエンターテイナーだった。
彼女は木嶋を弟のように接し、彼は千尋を姉のように想っていた。

 千尋が中学へ上がると下校のあとは2人で木嶋の実家でだらだらと過ごし、そのまま夕食を食べて泊まることが増えた。
おそらく持て余した好奇心の行き場がなかったのだろう。
受験期に入ると流石に泊まることはなかったが、それでも関係は続いた。

彼女の受験がひと段落すると、再び2人の日常が戻ってきた。
彼女の通う高校は県内ではそれなりに優秀な生徒が集まるところで山を下ったところにあった。

 日常が崩れたのは、千尋が高校2年の夏に入るころだった。
木嶋の自宅に訪れる頻度が少しずつ減り、帰宅する時間も遅くなった。
彼は受験の年だったので深く考えず、気を使ってくれていたのだと思っていた。

 恋人が出来た、と聴いたのは夏の終わり頃だった。
あぁ…だからか、と納得した部分と同様に自分の中で何か「濁った感情」が残った。同じ村にいる唯一無二の友人が遠くへ離れてしまったように感じられた。

 木嶋の受験が落ち着いた頃、彼女は泣きながら彼の自宅を訪れた。
ひとつの恋愛が終わったのだと感じた。
自室で彼女がとめどなく流す涙に動揺しながら、彼は温かいお茶を渡してなだめてから相手との出会い、告白、積み重なった思い出の数々、そして別れを静かに聴いた。吐き出し切って横で眠る彼女を眺め、自分もいつかこうしてひとりの人を想う日が来るのだろうかと漠然と感じた。

 横になった彼女から零れた涙が綺麗だった。

 木嶋が入学したのは、千尋と同じ高校だった。
何となく彼女がいるからという理由だけで決めたのだった。同い年の友人がいなかった彼にとって上手くやっていけるかは不安だった。そういう意味で同郷の友の存在は有難かった。困ったら姉に助けて貰おうと思うくらいに。

実際は同じクラスの友人たちと打ち解けることは簡単だった。冗談を言える相手が出来たこと、不毛な恋愛話、他愛もない世間の流行り…そうしたものを話せる関係がこうして手に入ったことに感激を覚えた。
彼女も最初は嬉しそうに話していたことを思い出した。

「木嶋、お前さ。水澤先輩の幼馴染なんだろう」
「え?そうだけど。なに?」
「水澤先輩、うちの部活の先輩と付き合い始めたらしいぜ」
「聞いてないな、それ……。ってか最近話してないな」

入学後、自分の環境は目まぐるしく変わった。最初こそ千尋は家に来ていたが木嶋の帰りが段々遅くなり、帰宅すると自室で彼女が寝ているということが多々あった。そのうち彼女が家に来る回数は減り、今に至る。

「そう言ってもうすぐ受験勉強だからなぁ……」
「やっぱそう思う?」
「その辺はちゃんとしてるから…。まぁよくわからんけど、今度は上手くいくといいね」

 夏蝉の季節が過ぎた。校舎から見える山々は連なる木々の葉を朱く染め始める。夕暮れは、赤々とした木々の隙間に深い影を作っていた。
彼は再び沸き上がった『濁った感情』をカゴに乗せたまま、朱と影に塗られた道を自転車で駆け上がっていった。

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