捉え方が9割
物事の「捉え方」についてじっくり考えてみたことはありますか?
例えば「失敗」をどう捉えるかとか・・・そんなイメージです。
昨日、私は春に続いて夏の甲子園も中止となったことについて記事を書きました。
記事を殴り書きながら、ふと思ったことがありました。
「あれ、物事の『捉え方』ってあんま意識したことなかったけど、これで人生の幸福度の9割が決まるといっても過言ではないのでは!?」と。
何でそんなことを思ったのかというと、記事にもある通り、私の野球での経験からです。
私は大学まで約10年、生活のほとんどの時間を野球に費やしていました。選手としての能力は低いと言わざるを得なかったのですが、思い返せばそれなりに充実していたし、「能登隆太」という人間は野球で学んだことで形成されていると強く実感します。
そんな私が10年間で、背番号のあるユニフォームをつけたのは中学3年時の1回でした。それ以外は大学野球部引退まで1度も背番号をもらったことはありません。いわゆる「メンバー外」です。
唯一の機会である中学3年でさえも裏話があります。
中学3年の最後の夏の大会、それまでベンチ入りすらしたことのない私は、調子を上げ続け、ドンデン返しでエースナンバーを背負うことになりました。
その時の嬉しさといったらもう・・・。ずっと家でエースナンバーがついたユニフォームを握っていました笑 ドヤ顔で写真撮ったり・・・笑
が、本番となる夏の大会初戦。
3点リードの4回に同点に追いつかれ、私はマウンドを降ります。その後の投手も打ち込まれ、初戦で敗退しました。
エースナンバーをつけていた時間は2時間だけ笑 みじかっ笑
そんな私でしたが引退後、進学予定だった高校の硬式野球部への入部を決めていました。当時、その高校は県内でも力をつけていた高校であり、私が中学3年時には甲子園にも出場していました。
「甲子園に出れるかもしれない、あの声援を浴びたい・・・」
そう思ったわけですね。
セレクション(選抜)がなかったのも運がよかった点でした。
が、当たり前ですがそれくらいの高校ですから入部してくる選手が上手いこと上手いこと・・・。見たこともないくらい速くて美しいボールを投げる同級生のプレーに見惚れてしまう程でした。(今でも目に焼き付いている)
この瞬間、普通だったら自分の実力を踏まえ「ああ、こりゃ試合に出るのは無理だ」と本心では諦めてしまったかもしれません。
ただ、この状況に対する私の「捉え方」は少し違っていました。
苦しくても少しでも可能性を高められる方法は何か
こう考えていました。
確かに私が推薦入部の選手を抑え、試合に出ることは難しいと自分自身感じていました。私の当時の実力・身体的発達度・これからの成長角度を現実的に予想した時に高校3年間だけでは彼らを超えることが難しいと感じたからです。(高校3年時にようやく身体能力が追いつくイメージをしていた)
でもだからと言って諦めたら「自分の可能性を信じられなくなる」。
そう思い、弱気にならないよう物事の「捉え方」を変えていきました。
・圧倒的に厳しい環境だが、全国でも有名なあの選手と一緒に練習できるということは、間近に良いお手本がいると考えて見聞きして技を盗めるのではないか。
・練習しても中々上達しないな・・・。でもこの練習・状況から学べることは何だろうか。今の苦しい環境から人として学べることは何か。
正直、しんどいからこそ、このように考えないとやっていられないという側面もあったと思います。当時は自分が抱える問題に真正面から向き合う勇気も足りなかったのかもしれません。
(努力量は周囲からも認められていましたが、上手くなる速度が遅かったことから、努力の方向性がずれていたと社会人になってから気づきます。)
結局、高校3年間も一度もベンチ入りすることはありませんでしたが、物事をどう「捉える」とポジティブな感情を維持できるのか、どうすれば環境を有効活用してパフォーマンスを向上させられるかを学ぶことができました。
大学野球部での経験を通じた感じた「捉え方」の重要性
大学野球部での経験を通じて今の私の考え方の中心となる「捉え方」が確立されました。
既にお伝えした通り、高校3年間試合に出場できなかった私ですが、その時点での自分の実力や身体状況を踏まえ「あと4年間あれば、死ぬ気で練習すれば1試合登板するくらいには成長できる可能性がある」と本気で考えていました。
高校野球部の同期からは「え、お前まじで考えてんの?」「お前の実力じゃ試合出れないと思うよ。サークルで楽しもうぜ」との声が。しまいには大学野球部の先輩から「お前がくると部が迷惑する」とも言われました笑
彼らに悪気は全くないし、私自身もそういった声に対して「そりゃそうだな」と思い、気分を害することはありませんでした。
「常識的」に考えたら私と同じ状況なら普通は大学まで野球を続けないです笑
(事実、過去実績がなく、推薦入部でもない、かつベンチ入り経験もないという三拍子揃った選手で大学野球部に入部した同期は確か私1名くらいだったのでは)
ただこの時、物事の「捉え方」は人によって異なる、そこに良い悪いはないが「捉え方」次第で自分を如何様にでもコントロールできることに気がつきました。
ジョッキに残るお酒が少ない時、「もうこれしかない」と考えるか「まだこれだけある」と考えるかという感覚に近いです。
(実際は「あ、次のお酒頼もっ」なんて思って飲み過ぎますが笑)
何か事象が発生した時、当然ですが人はリアクションします。
ですが、どうリアクションするかは自分で決められます。発生した事象とリアクションとの間には「捉え方」が存在します。
だから、仮に「お前には無理だ」と誰にどれだけ言われようと、自分がやると決めたらやる。「自分ならできる」と捉えて努力を続けるためのモチベーションを生み出し続ける、そんなことを続けてきました。
実は無意識にコントロールしていた「捉え方」
思い返すと他にも様々な場面で「捉え方」をコントロールしていました。
中学受験の時です。
小学校5~6年時に塾に通っていました。毎月模擬テストが開催されるのですが、第一希望の中学の偏差値に全く届きません。確か、毎回偏差値が10弱くらい足りていなかった。それでも1回だけ、その中学の偏差値を超える結果を出せたことがありました。
その経験があったからこそ、受験本番も「自分はそれだけの力があるはず」だと自分を信じ「倍率何倍だろうが結局は受かるか受からないかの2択。つまり50%」だと考え試験に臨みました。余計な緊張をすることなく集中力が増し、いつも以上のパフォーマンスを発揮できたと感じた記憶があります。
就職活動の時も同じ捉え方をしてました。
一般的に学生から人気と言われる企業は内々定に至る倍率が非常に高い。ですが倍率がどんなに高かろうが、倍率そのものは自分がコントロールできる範囲ではありません。
「今自分ができることに集中する、結果的に内々定か祈られるかのどちらか。やっぱり50%だ」と考えていました。
統計的に考えると意味不明なロジックですが笑
仕事でも同じような考え方で物事を捉えていました。
会社を自分が働く「箱」と捉えた時、会社のリソースを最大限活用することでどのように自分を成長させることができるか。それによって結果的にどのように会社に貢献できるかを考え、会社と自分を「雇用関係、主従関係」と捉えるのではなく「並列関係、共存関係」と捉え、会社を使い倒す(悪い意味はない)発想が大切と感じました。
それ以外にも様々な物事の「捉え方」を意識してきました。
「ピンチ」→「チャンス」
「変化」→「新たな成長のきっかけ」
「他者からの指摘」→「盲点だった自分の伸び代への気づき」
「サラリーマン」→「会社のリソースを活用してインパクトの大きいことを実現できる」
捉え方に正解はありません。
ですが「捉え方」を自在にコントロールできるようになれば、余計なストレスが減り、結果的に幸福度も増すと思います。
「どうしよう! 成功確率10%らしいぞ。10回やって1回か・・・。これは厳しいぞ、大丈夫かな・・・」
と考えるより、
「成功確率は10%か。確率は低いけどできることは限られているから、今やれることに集中しよう。きっと成功確率は上がるはずだ」
と考える方が結果は良くなる気がしませんか?
「捉え方」は自分の物事に対する心の向き合い方を整える、ある意味「安定して物事に取り組める状態」を生み出すツールだと考えています。
「捉え方」だけでは人生は変わらないかもしれません。
それでも私たちが物事に対する「捉え方」を変えることで、発言が変わり、それによって行動が変わることで習慣が変わり、人生が変わることもあるかと思います。
日々遭遇する様々な事柄に対する「捉え方」を自在にコントロールできるようになった時、私たちの人生は大きく変わるのではないでしょうか。
自分だけでなく、周囲の人との信頼関係も圧倒的に築きやすくなるはずです。
「捉え方」侮れません…
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