りゅうたろKindle『哲学を使うとはどういうことか』発売中

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りゅうたろKindle『哲学を使うとはどういうことか』発売中

【著書】『哲学を使うとはどういうことか』➡︎https://amzn.to/3mIz9uu 哲学に関する発信をしています!(メイン活動はkindle執筆やYouTubeです)

最近の記事

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現実と解釈について

車の広告が表しているのは、その車そのものではなく、付与された意味である。そうなると、哲学的な認識によって「その車そのものに装飾されたものに'すぎない'」というのは、本当に現実を表しているのだろうか?もちろんこれは白か黒かきれいにわけられるわけではなく両義的なものでもある。「神」とは現実の一解釈である以上、その意味で「神」は存在する。 現実とは何か?カントの物自体のように停止することも出来ればヘーゲルやニーチェの解釈論のように進行していくこともできる。われわれの認識は、脳内物

    • 超越論哲学めちゃくちゃおもしろいな、、、というか哲学かくあるべきという感じだとも思う。「もはやその先に回れない、それが存在すると言わざるをえない」という存在の探究。

      • なぜ哲学書は読みにくいのか

        一流の哲学書がどれもこれも読みにくいのは、そもそもにしてみれば、それぞれの世界把握のしかた、「問題意識」の哲学的なレベルが、常識から考えれば全く非常識的でおおよそ考えくようなものではないからだと思う。 逆にいうと、ウィトゲンシュタインの「哲学探究」は、その内容がそれぞれ端的で、疑問を残す形であり、つまり問題意識がその文章そのものから掴み取ることが読み取りやすいことから、取り扱う内容自体はもちろん難解であるが、(少なくとも論理哲学論考に比べれば圧倒的に)”読みやすい”本ではあ

        • 重力が存在している場合、木に登った猿は、木から落ちる可能性がある。

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          「必ずしも言える」かどうかの区別

          「責任」と「期待」についてのメモ

          接客業をしていて気をつけているのは「親切にしすぎたゆえのつけあがり」の防止であり、つけあがらない程度の親切のバランス感覚は重要だと考えている。つまり期待に対する免責のバランスとも言える。ここを無思慮な善意で思いっきり親切にしようとしすぎると相手が「つけあがって」しまい、逆に後からクレームや責任外のサポート繋がったりする(期待させておいて「それはできません」と言うと"むしろ"お客様の不満になる)。 多分この構造は恋愛や子育てや政治などもおそらく類似的で、もっと言えば人間関係一

          ヘーゲルの「エンチクロペディー」

          ヘーゲルの「エンチクロペディー」は、 ・純粋理念を論じた「論理学」 ・理念から諸科学を解する「自然哲学」 ・社会や人間心理などを取り扱う「精神哲学」 という3つのカテゴリーからなり、ヘーゲルで最も有名な「精神現象学」は、このカテゴリーにあてはめれば、大雑把に言えば3つめの「精神哲学」にあたる、が、一番最初の「意識」の章がガチ深淵すぎる(精神現象学の語り全体をつらぬく、普遍的な概念のみを取り扱う)。 ここを読み飛ばして「主人と奴隷の弁証法」とかからヘーゲルを

          「〈私〉の哲学」のYouTube動画台本を作っているが、原著がそもそもおもしろすぎて構成に悩む、、、 労力や時間も限られているので、具体的な内容そのものよりも、まず問題意識をちゃんと伝えられるような動画にしたい。

          「〈私〉の哲学」のYouTube動画台本を作っているが、原著がそもそもおもしろすぎて構成に悩む、、、 労力や時間も限られているので、具体的な内容そのものよりも、まず問題意識をちゃんと伝えられるような動画にしたい。

          かばんの中身、、

          哲学するとは、自らのロゴスに問いかけることである。

          哲学するとは、自らのロゴスに問いかけることである。

          論理的であることは、存在条件として2次的である。また、であるがゆえに、「それ自体」でないものは存在しないし、存在しえない。

          論理的であることが存在条件として二次的な位置を占めるという命題は、まず何よりも「それ自体」として存在しなければならないことを含んでいる。 これは、実在やその本質または基本的な性質を具現化しなければ存在として認識されないということでもある。この概念は、物体や概念の存在がそれ自体の固有の品質と目的によって確立され、それを感知可能な世界に位置づけることと合致している。 また同様に、全く逆の言い方をするだけだが、これらの不能は、その存在を否定し、それゆえに論理的な議論や考察の対象か

          論理的であることは、存在条件として2次的である。また、であるがゆえに、「それ自体」でないものは存在しないし、存在しえない。

          名に関して

          「特性辛味噌ネギチャーシューメン」という文字列は、何がしかの知覚的対象を想起させるかもしれないが、私はこの時点でこの文字列が意味するところのものを示してはいない。 しかし、この文字列が想起させるところの知覚的対象は、この文字列と対応してその「意味」と呼ばれうるだろう。 * ある対象に「自分から」名を付けることと、「誰かから」その名を教わることとでは、その対応関係に関して言えば事情は変わらない。 なぜなら「消防車が全て''緑''に見える!」となったとしても、その色の差異

          総称可能と同一

          「美しさ」は「美しさ」であり、「聖なるもの」は「聖なるもの」であり、「粋なもの」は「粋なもの」であり、それらが仮に全て「善いもの」として''総称可能''であったとしても、「善いもの」と''同一''であるわけではない。 「真」であることは、必然的に「価値ー非価値」と結び付けられない。「善」は、''あるものが善いと言われるところにおいて''「価値」である。

          数えれる理由

          ''ある対象を指して、ただ単純に'' 「ある」と、その他のものとの区別にすることに成功するのであれば(その事に成功したならば、これをaとする)、aがaであることを破棄せず(保持しつつ)、それとは別の対象を「ある」とみなすこと(そしてこれに成功したならその対象をbとする)、そしてさらに、、という反復可能性が『''数える''ー数(数える数)』という概念作用が可能である理由である。

          その問に適応する事を想定して元々意味使用されている語ではない

          「束縛」「制約」から、それと比して、そこから逃れることが「自由」と言うとする。そして「自由」を「意志」する、と言う。このことは非常にわかりやすい。しかしそして、''真に「自由」なのであるか?''や、''このことを私は''意志''しているのか?''と仮に考えるとする。しかし、この問い方がある種の知的麻痺を起こさせる理由として、『その問に適応する事を想定して元々意味使用されている語ではない』ということは、どの程度が重要な示唆がありえる気がする。

          その問に適応する事を想定して元々意味使用されている語ではない

          過去や未来にありえることは、現在とどう関わるか。

          過去や未来にありえることは、現在とどう関わるか。