現実と解釈について

車の広告が表しているのは、その車そのものではなく、付与された意味である。そうなると、哲学的な認識によって「その車そのものに装飾されたものに'すぎない'」というのは、本当に現実を表しているのだろうか?もちろんこれは白か黒かきれいにわけられるわけではなく両義的なものでもある。「神」とは現実の一解釈である以上、その意味で「神」は存在する。

現実とは何か?カントの物自体のように停止することも出来ればヘーゲルやニーチェの解釈論のように進行していくこともできる。われわれの認識は、脳内物質であり、クオリアの問題があるように脳内物質だけでもない、という現代における分断もある。


大きく書かれた注意書きと小さく書かれた注意書き。意味や、表現、イメージは認識に直結する。

哲学的認識はそれ自体が解釈的である。だから、洞窟の比喩やイデア論による認識のように哲学が「より正しい認識をしている」と考えるのは少し傲慢な考えでもある。

特に商品と広告の関係は、言葉と物が、マーケティングによって恣意的にある程度それが誇張か装飾された状態で存在しており、商品イメージを下げるような言葉などは出来るだけ使わないように配慮される。

それは、では現実を表していないことになるのか?それは違う。我々が受けと売る商品は意味も含めて商品である。

それが乖離しすぎている時、「詐欺」と呼ばれたりもするが、その範囲に当たらないものは数多い。

ファッションブランドの広告のモデルは他人だし、写真の撮り方、店内の雰囲気、音楽、色々な要素が混ざっている。そのアパレルブランドで買ったその服は、自分のクローゼットにある時、自分の持っている服とコーディネートコーディネートした時、それはその時店頭にあった服と同じものなのか。

もちろん物質的には寸分の狂いもなく同じものだが、自分が来た時それはすでにそのプロモーションのブラフィックや、店内の雰囲気とは切り離され、自分の日常に入り込み違うものになっている。

つまり付与された意味や印象がその存在を本質的に左右しているのであり、この心的作用は脳科学でも現在はブラックボックスになっているし、もし解明されたとしても脳科学が日常的に因果関係そのものを把握することは出来ない。※1

※1 脳科学は歯車にすぎず、人間を車に例えるとするなら、脳y科学物質はエンジンに当たるとしても、ドライバーとハンドルの関係、タイヤと地面との摩擦、変わりゆく景色はその外部にあるからで、脳科学物質はプロセスとして必ず関わりあってくるものではあってもそれ自体が因果関係を掌握している訳ではない。脳科学物質を全ての感覚の因果だと捉えるのは、車が走るのはエンジンがあるからだと答えるのに等しい。もちろんエンジンは車が走る過程において必ず作用するが、それそのものが車の動作全てを支配している訳ではなく、むしろエンジンは従属している機関だ。


哲学的な認識は正しいものを見ているのか?違う。正しいものなど存在はしなくても、哲学的な認識がより現実に近いものだとは思えない。

スポーツの中での判断は哲学的な判断などしてる余裕はなく、練習の過程で哲学的な思索が役に立つことはあっても(※2)哲学的認識は方法の一手段であって、「全ての」認識を包括する万能的認識ではない。

優秀な会社員となるにはむしろ哲学的な思索は邪魔にすらなることが多く、与えられた、あるいは求められた意味の辞書の中から判断する方がよっぽどスムーズに事は進む。

※2 ヨガや武道と禅の関係にあるように。楽器の演奏法にも禅的なイメージや思想、身体感覚を用いる場合もある。小学校のお遊戯会での「観客は全員ナスだと思いなさい」というのも現実のイメージによる異化だ。軍事演習の仮想敵などもそうである。彼らはそこに虚構の敵、兵器を作り出し、虚構の敵がどういった行動をすれば合理的に自軍を壊滅させれるかを想像し行動する。


だから、何かを批判するという訳でもなく、単純にその都度の認識が、その合理性はともかくとして支配的になっている以上、それらはその「文化」や「雰囲気(!- "雰囲気"は文化の根源なのか)」の影響を受けているという事である。

イデア論や洞窟の比喩は、「真実的なものがある」という、見方によってはある種の誇大広告、哲学のセールストークである。

その都度その都度の認識の価値はどのように決定する?もちろんその都度による、である。これはその都度にはっきりさせなければならない。「問い」とは無意識的に「Yes/No」かを要求してくるからだ。だから「Yes/No」のその都度注釈を与えなければならない。私の観点としてはあくまでもプラグマティズムに基づく。

この文章の目的は結論にない。あくまでも思考過程を言語化することによって残すことにあって、結論を伝えることにない。(その意味で言えば現代人は結論というものにあまりに重点を置きすぎである。それは、セールスライティングの勿体ぶった文法がそうさせているからである。)


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