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超越論哲学めちゃくちゃおもしろいな、、、というか哲学かくあるべきという感じだとも思う。「もはやその先に回れない、それが存在すると言わざるをえない」という存在の探究。
なぜ哲学書は読みにくいのか
一流の哲学書がどれもこれも読みにくいのは、そもそもにしてみれば、それぞれの世界把握のしかた、「問題意識」の哲学的なレベルが、常識から考えれば全く非常識的でおおよそ考えくようなものではないからだと思う。
逆にいうと、ウィトゲンシュタインの「哲学探究」は、その内容がそれぞれ端的で、疑問を残す形であり、つまり問題意識がその文章そのものから掴み取ることが読み取りやすいことから、取り扱う内容自体はもちろん
重力が存在している場合、木に登った猿は、木から落ちる可能性がある。
「必ずしも言える」かどうかの区別
「責任」と「期待」についてのメモ
接客業をしていて気をつけているのは「親切にしすぎたゆえのつけあがり」の防止であり、つけあがらない程度の親切のバランス感覚は重要だと考えている。つまり期待に対する免責のバランスとも言える。ここを無思慮な善意で思いっきり親切にしようとしすぎると相手が「つけあがって」しまい、逆に後からクレームや責任外のサポート繋がったりする(期待させておいて「それはできません」と言うと"むしろ"お客様の不満になる)。
ヘーゲルの「エンチクロペディー」
ヘーゲルの「エンチクロペディー」は、
・純粋理念を論じた「論理学」
・理念から諸科学を解する「自然哲学」
・社会や人間心理などを取り扱う「精神哲学」
という3つのカテゴリーからなり、ヘーゲルで最も有名な「精神現象学」は、このカテゴリーにあてはめれば、大雑把に言えば3つめの「精神哲学」にあたる、が、一番最初の「意識」の章がガチ深淵すぎる(精神現象学の語り全体をつらぬく、普遍的な概念の
「〈私〉の哲学」のYouTube動画台本を作っているが、原著がそもそもおもしろすぎて構成に悩む、、、 労力や時間も限られているので、具体的な内容そのものよりも、まず問題意識をちゃんと伝えられるような動画にしたい。
かばんの中身、、
哲学するとは、自らのロゴスに問いかけることである。
論理的であることは、存在条件として2次的である。また、であるがゆえに、「それ自体」でないものは存在しないし、存在しえない。
論理的であることが存在条件として二次的な位置を占めるという命題は、まず何よりも「それ自体」として存在しなければならないことを含んでいる。
これは、実在やその本質または基本的な性質を具現化しなければ存在として認識されないということでもある。この概念は、物体や概念の存在がそれ自体の固有の品質と目的によって確立され、それを感知可能な世界に位置づけることと合致している。
また同様に、全く逆の言い方をする
数えれる理由
''ある対象を指して、ただ単純に''
「ある」と、その他のものとの区別にすることに成功するのであれば(その事に成功したならば、これをaとする)、aがaであることを破棄せず(保持しつつ)、それとは別の対象を「ある」とみなすこと(そしてこれに成功したならその対象をbとする)、そしてさらに、、という反復可能性が『''数える''ー数(数える数)』という概念作用が可能である理由である。
その問に適応する事を想定して元々意味使用されている語ではない
「束縛」「制約」から、それと比して、そこから逃れることが「自由」と言うとする。そして「自由」を「意志」する、と言う。このことは非常にわかりやすい。しかしそして、''真に「自由」なのであるか?''や、''このことを私は''意志''しているのか?''と仮に考えるとする。しかし、この問い方がある種の知的麻痺を起こさせる理由として、『その問に適応する事を想定して元々意味使用されている語ではない』ということ
もっとみる過去や未来にありえることは、現在とどう関わるか。