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【エッセイ】エッセイは難しい

今日も僕はネタがなくて困っている。かれこれ二週間ほど今のスケジュール(分からない方はこちら)で執筆をしているけれど、一番きついのはまあ当然月曜だとして(映画か読書をやりきる必要があるので)、その次につらいのはというと実は日曜なのである。

もちろん小説もきついことにはきつい。話が未だに畳めていない連載中の短編が四つに、新作のショートショートが一つ。週に計五本も小説記事を書くというのは、中々に苦しいものがある。

けれども、エッセイよりはマシだ。これは別に小説が簡単だとかそんな極端な話をしているのではなくて、どっちも大変だというのは認めつつ、あくまで僕にとってエッセイの方が筆が進まないというだけの話である。

じゃあ、どうしてエッセイの方がきついのかという話なのだが、そもそもエッセイっていうのは何か自分の中に書きたいもの(それは出来事でもいいし、幸せとか憎しみとかつらみとかヤバみとか感情でもいい)がないと書けないものなのである。

何かこう自分で表現したいもの、何かこう誰かにボソッとでも伝えたいもの、何かこう自分の中で整理をつけて納得したいもの、そういうものを話のいわばコアとして、エッセイは生まれる。

別にそのコアは大きい必要はない。そりゃあ自分の身に、まるで「すべらない話」にでもできそうな滑稽なことが起こったり、逆に「ゾッとする話」にでもできそうなくらい恐ろしいことが起こったりしたら、それに越したことはない。

でも、まあ、そんなもの滅多に生まれるものではない。というのは完全に僕の甘えだけど、やはり人間、意外と平凡に毎日を生きるものである。ハライチの岩井さんも言ってたじゃないか。『僕の人生には事件が起きない』って。芸人さんでもそうなのだから、僕みたいな一般人にポンポンと印象深い事件なんて起こるはずはない。

けれど、たとえそうだとしても、エッセイは書けるものなのである。なんなら、そっちの方が共感もできて何倍も面白くなることだってある(岩井さんのようにね)。どんなに些細なことでも、その本人に書きたいと思わせる何かさえあれば、エッセイは書けるものなのだ。

こう書くと、まるでエッセイが簡単なもののように思われてしまうかもしれないけれど、そういうことを言いたいわけではないのは分かってほしい。まあ、最初にエッセイが難しいだなんて愚痴を恥ずかしげもなくこぼしているのだから、そんな勘違いしてる人なんていないかもしれないけれど、こういうものは一応言っておくものである(この世の中どこに火種があるか分からないんだから)。

逆に考えてほしい。「コアがなかったら?」って。そりゃ、当然、書けない。大気中にホコリとか砂つぶとか塵が無いと水が凝結できないのと一緒である。コアがないんだから、話なんて生まれるわけない。

でも、そのコアが見つかんないのだ、意外と。そりゃ具体的な出来事はたくさんある。でも、できれば僕はそれらを抽象化して、メッセージ性を持たせてから世に放ちたいのだ。平たく言えば、オチをつけたいのである。

だって、つまらないでしょ?「今日は不幸続きだと思ったけど、考えてみると楽しいこともたくさんありました!」だけじゃ。「今日は不幸続きだと思ったけど、考えるてみると楽しいこともたくさんあって。意外と幸せって身近にあるのかもしれませんね。」の方が断然面白い。

この例を他の人がどう感じるかは分からないけれど、僕はやっぱりどうしても発信される情報には何かしらの意味がないといけないと思っている節があるみたいで、だから、僕の場合話のコアはこの抽象部分になってしまうのである。

こうなると、なかなかコアは生まれてくれないのだ。そんなわけで僕は何となく毎日コアを探してみるんだけど、見つからなくてずっとさまよっている。すると、気がついたら日曜日になっていて、僕は困ってしまう。

マジで、一行も書けないのだ。本当にピクリともしない。

これがエッセイの厄介なところである。その点、小説はいい。なんとかストーリーさえひねり出してしまえば、あとはなんとか書き進められるのだから。まあ、そのストーリーがひねり出せないから苦しいんだけど。

だから、連載はまだなんとかなるのである。辻褄を合わせたり、展開を面白くしようとしたり、人物の特徴を際だたせようとしたり、やることは多くて、それでいていい作品になるかどうかは保証されないのだから、めちゃくちゃ苦しいのは確かなんだけど、そんなことよりピクリとも筆が進まない方が数段ヤバい。小説は道筋が決まっているんだから、詰まったらとにかくなんでもいいから書き出せばいいのだ。

人間、案外、手を動かせば頭は勝手に回り出すように作られている。無理やりにでも書き出して、俗に言う筆が乗ってきた状態になればこっちのもんである。あとは最初にバッと書き出しためちゃくちゃな駄文を修正するなり、スカスカのプロットを手直しするなりやりたい放題すればいい。時間はかかるかもしれないけれど、その間はノリノリだし、何より創作しているんだから、苦しさもまた一興として、なんとか乗り切ることができる。

だけど、エッセイは無理だ。筆が乗りもしないんだから。結局、僕はコアが見つかるまでずーっとパソコンとにらめっこする羽目になる。その時間はアイデアが出ないというだけできついのに、一切創作は進まない。本当、ただ苦しいだけの無駄な時間が流れて行くのみである。

あんな軽いノリでスケジュールなんて組むんじゃなかった。正直、一週間もあるんだから一つくらいはネタ浮かぶんじゃね?くらいに考えていたあの頃のも甘い自分をぶん殴りたい気持ちに駆られている。

実を言うと、まだネタは浮かんでいない。これを書いている間もずっと考えていたんだけれど、情けないことに何にも思い浮かばなかった。今はただ、コアもなしに、無闇やたら勢いまかせに書きなぐっているのである。

......とここまで書いて行き詰まってしまったので、流れを確認しようと読み返してみたところ、僕は大きな矛盾に気がついた。

ネタないのに書きはじめてるじゃないか。

しかも、よくよく読んでみると、なんだかエッセイっぽくなっている気がする。だとすれば、それは非常にまずい。だって、「コアがないとエッセイは書けない」というエッセイをコアがないまま書いちゃっているんだから。とんだ自己矛盾である。

ああ、やっぱり僕にはエッセイの才能がないのかもしれない。




...... なんて逃げ出すわけには行かないだろう。

せっかくここまで書いたことだし、この未完成なエッセイにオチを見つけて、どうにか完成させてみようじゃないか。

これは結局、閾値が高い人間は損をするってことを言っているんだ。何かを成し遂げたいなら、まずどんな風に成し遂げたいか考えて丹念に準備しなければならない。ここで言ったら、コアを考えてしっかりと構成を練るといった具合に。

確かに、それは事実だ。

だけど、それで行き詰まるようなら考えてたって仕方ない。立ち止まるくらいなら、動いたほうがマシである。動かないやつに、成功は決して訪れないのだから。

寺田寅彦も『科学者とあたま』の中で言っていた。「頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならない」と。

本当に成功するのはコアが見つからないからといって動かず、二の足を踏むやつじゃない。たとえ見つからなくても、コアが見つかることを信じて闇雲に動き続けるやつだ。そして、本当にコアがなかったはずなのに、まるでそこに存在していたかのように見つけ出すやつだ。

人は本気にならないと始められないんじゃなくて、始めてからじゃないと本気になれないものである。壁にぶち当たったら、色々理屈をこねてやらない理由を探すより、手を動かした方がよっぽどいい。そうしているうちにきっと打開策が見つかるだろう。

私は来週も、その先も、またその先も、きっと同じような課題にぶつかる。恐らく、何度も、コアを捉えられずに立ち尽くしていることだろう。けれども、その度に今日のことを思い出し、私は動き続ける。

限りある時を無駄にしないために。そして、その先にある真の栄光を掴むために。


........ほら、「コアがないとエッセイは書けない」というエッセイをコアがないまま書いてたら、いつの間にかコアが見つかってエッセイになっているだろう?

覚えておいてほしい。動き始めてみれば、打開策はいつか見つかるものなんだ。

ちょうど、このエッセイのようにね。

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