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決行⑺

二週間は信じられないほど早く過ぎた。自分が何をしていたのかも思い出せないほど、どうでもいい毎日だった気がする。それでも太一はしっかりと「決行」について調べてきたし、今日は集合時間の十分前にはオブジェの前についていた。

彩香は珍しく、集合時間ぴったりにきた。「珍しいね。どうしたの?」と聞くと、彩香は「何となくかな。」とだけ答えた。

二人はまたいつものカフェに入って窓際のテーブル席に座った。太一はブラックコーヒーを頼むと、彩香も同じのを一つ頼む。いつもはここでミルクとガムシロップを大量に頼むのだが、彩香はそこでオーダーをストップした。

「ミルクとガムシロはいいの?頼み忘れてたけど。」
「あー、いいの、いいの。何だか最近、甘いのが苦手になっちゃって。」

そう言って彩香はいつものような快活な声で、淋しそうに笑った。

頼んでいたコーヒーがくると、彩香はカバンからノートパソコンを取り出し、テクストファイルを開いた。簡潔にまとめられた六千字のレポートが画面いっぱいに現れる。太一も負けじとノートを取り出し、ミミズのような汚い字でアナログに書きなぐった資料を見せた。二人の調べた内容は主に次のようなものだった。

・「決行」は「理性の尊重」を謳っているが、その最終的な目的は「感情の排除」である。
・「決行」は決まった教えを持たないが、一定の共通方針は有しており、その方針を概略すると次のようになる。
 「人が動物と袂を分かったのは理性を獲得したことによる。その理性こそが人を人たらしめるのであり、本能は人を動物たらしめる悪の根源である。本能のままに情欲に流されしものが、昨今の諸問題を生み出している。性差別、女性蔑視、金銭問題、政治問題も全て本能に基づく感情によるものである。感情は人を原始時代へと退化させ、ホッブズの恐れたリヴァイアサンの崩壊を招きかねない。人は感情を持ってはならなない。高等な進化の結果、生物の究極形態として理性のみを身につけた時人は真に人になりうるのである。」
・「決行」には教祖や預言者など統率者に当たる人物がいない。また、明確な教典は存在せず、神性を感じさせるものではない。したがって、「決行」は厳密には宗教ではなく、ある種の市民団体である。
・「決行」に提唱者はおらず、突如として発生した自然現象である。

興味深いのは最後の項目だった。「決行」は思想でも宗教でもなく、「現象」。そんなことがありうるのだろうか。

もしそうではないとしたら、すなわち「決行」に提唱者がいるのだと仮定したら、太一の見た最初の「決行」の構成員の中にその人物がいることになる。提唱者は裏に隠れていたとしても、少なくともあの中に統率者はいたのではないか。普通に考えれば、この考えの方が筋が通っている。

しかし、もしそうだとすると、ぬぐいきれない違和感がある。リーダーとするには、彼らは全員あまりにも小さすぎた。そんな大層な方針を掲げるには、彼らは器ではない。明らかに彼らはなにかの支配下にあったのである。それは間違いない。問題はこのなにかが何かということである。

お互いがお互いの資料に大体目を通し終わったのがわかると、太一は改めて彩香に質問した。

「なあ、彩香。『決行』についてどう思う?」
「なに、このあいだの再現?そうね、何から話そうかしら。」

太一は何故か、ふとある疑問を抱いた。

「あのさ、彩香。話に入る前に聞きたいんだが、そういえば実際に『決行』を見たことあるか?」
「あー、それねえ、ないのよ、実は。直接遭遇したことはないし、ほら私ネットに疎いじゃない?だから、『決行』の主張のこともよく知らなかったのよね。この前は話し合わせちゃったけど、本当は報道されていることくらいしか知らなかったの。」

そうだったのか。太一は自分の知っていることは彩香は知ってて当然のように話を進めてしまったことを恥じた。思ったより、自分は彩香のことを知らないのかもしれない。

「なんか悪いな。変なことに付き合わせちまって。」
「ううん。調べてて楽しかったし、全然いいよ。そろそろ始めよっか。」

彩香はノリノリで調べてきた内容を発表する。変わらず声は快活なのに、どこか空ぶかしのようなテンションだった。彩香が一通り話し終えると、次は太一の番だった。太一も同じような内容をのっぺり話す。あらかた二人が調査結果を話し終えたところで、今度は彩香が切り出した。

「それで、太一は『決行』についてどう思うの?」
「なんだよ。俺の真似か?」
「茶化さないで。さっきまで話してたのは事実だし、太一の意見を話してよ。レポートのまとめの参考にしたいし。」

太一はさっき抱いた提唱者の不在の謎を話した。すると、彩香は目を輝かせ、よりテンションをあげて話出した。

「なにかが何か、か。実はね、私、『決行』を調べてて思ったことがあるの。突拍子も無いって思うかもしれないけど、笑わないで聞いてね。」
「笑うもんか。随分とハードルを上げるね。それで、どんな考えだ?」

少し間をおいて彩香は切り出した。

「私、『決行』は世界の意志だと思うの。」

驚いた。その答えは、太一の辿り着いた結論と全く同じだった。とすると、彩香はどこまで気づいているのだろう。太一は黙って彩香の意見の続きを待った。

「こう考えれば『決行』に提唱者や統率者がいないことも、『決行』がなんの前触れもなく突如始まった自然現象だってことも頷ける。形而上的な考えで、私も俄かには信じられなかったけれど、でも、それ以外に考えられなかった。一応、根拠はあるのよ。『決行』が最初に始まったのはどこ?」
「ここ、昂理市だ。」
「そう。昂理市なの。理性を昂らせると書いて、昂理市。理性を重んじて、感情を忌避する主張をする『決行』がこの街で、突如として始まったのは偶然とは思えない。」

流石の洞察力だった。ここまで気づいているのか。

「そこまでは、俺も彩香の意見に賛成だよ。流石だな。」

彩香は褒められたことが少し嬉しいのか、喜びを隠しきれず窓の方を見てストローで真っ黒いコーヒーを掻き回している。太一は核心に迫るように、彩香に質問を投げかけることにした。

「じゃあ、肝心の世界の意志の目的については、どう思う?」

ミルクもガムシロップも入っていないコーヒーを混ぜる彩香の手が止まった。一拍置いて、彩香は意気揚々と話し出した。

「『決行』は人類の進化だわ。やっぱり、こんなに非力な人間がここまで文明を発達させてこられたのって理性のおかげだと思うの。感情は確かに大事だけど、今までのあらゆる犯罪や戦争を引き起こしてきたのも事実よ。理性を強めることこそが人間としての極致だわ。世界はそうして私たちの精神をより高次の次元まで高めようとしている。そう、世界の意志は人間精神の救済を目的としている、私はそう思うわ。」

耳を疑った。そんなの「決行」の考えそのままじゃないか。太一はすぐさま反論しようと思ったけれど、彩香の自信に満ち溢れた澄んだ目を見ると、どれも彼女をひどく傷つけてしまうような気がして、言葉が出なかった。

しばらく沈黙が続いて、ようやく太一は話し出した。

「彩香の考えはよく分かった。ただ、何か気がつかないか?感情がなくなると人類はどうなる?俺たちは、どうなる?」

自分でも驚くほど声が震えていた。一度決壊した川はせき止めることはできない。

「『決行』は表向き理性を崇拝しているが、それは裏を返せば感情の排除だって話はさっきしたよな。感情を失うと、何が起こるか。色々なことが起こるだろう。そりゃあ、いいことだってあるかもしれない。でもな、俺たちはそれで少なくとも愛を失うんだ。愛を育むことはできなくなるんだ。すると、どうなる?答えは簡単さ。人類は滅亡する。誰も人を好きにならなければ、子どもは生まれない。テクノロジーで繁殖はできるかもしれないけれど、少なくとも、愛し合った夫婦からじゃなきゃ『人』は産まれない。そうだろ?今、世界の意志は、ウイルスのようにはびこってこのほしを破壊し続ける俺たちを消し去ろうとしているんだ。」

まるで自分を納得させるかのようにまくし立てている自分に気づいたが、あの頃のようにとぼけて舌を出せる空気ではなかった。太一は、彩香がまた、いつものように「何で私、そんな簡単なことに気づかなかったのかしら。」と首をかしげてくれるのをおぼろげに期待して彼女の方を見た。

彩香は下唇を噛んで、ただ、下を向いていた。あのくりっとした澄んだ目は、太一ではなくカップに向けられ、コーヒーに浮かぶ闇が彼女の大事なものを吸い取っているような気がした。

彩香は身体を小刻みに揺らし、必死に深呼吸をして、また窓に目を向けて鉛色の空をじっと眺めた。静寂が続く。ストローでかき混ぜられてクルクルと回っていたコーヒーの水面は、もう少しも動いていなかった。

「そう、分かったわ。もうこの話はやめましょう。これ以上続けてもお互い感情的になって、議論にならないと思う。また今度、頭を冷やして話しましょう。」

彩香の言葉は信じられないほど冷たかった。その言葉に悲しみを必死に押し隠しているような健気さは少しも感じ取れなかった。それどころか、その言葉からいつもは透けて見えるはずの感情は全く透明で、まるで感情がないみたいだった。

「さ、時間がもったいないわ。お開きにしましょう。今日は私が払うわ。」

一切無駄のない動きで、すっと立ち上がった彩香は、伝票を手に取りレジに向かっていった。太一は一歩も足の動かない自分がひどく情けなくて、お会計の終わった後もグラスに残った氷を噛み砕きながら、独り窓の外を眺めていた。

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