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2023.07.16 日曜日


▶︎DeNA・山崎康晃がクローザー剥奪 三浦監督が配置転換決断「チームとして戦っているわけですから」代替の守護神は明言せず(デイリー)

※崎は「大」ではなく「立」

僕は、起床し、ベッドから体を起こした後、ルーティンである「スポーツナビアプリのTOP記事のタイトル一覧をチェック」を行なった際に、そんな文字が目に入って来た。

今回取り上げたいテーマは「山崎康晃はやっぱり守護神で起用するべきだ!」だとか「今年の山崎康晃の成績では守護神は任せられない!2年続けて安定した投球を披露している伊勢大夢に抑えを任せるべきだ!」だとか「伊勢大夢が計算出来る投手なのは間違いないがセットアッパーを動かすのは危険だ!それよりも主に7回の勝ちパターンで投げて来たウェンデルケンにストッパーを任せるべきだ!」などといったことを議論したいわけではない。

ていうか、そもそも、選手起用に関する話は、そのチームのファンが行うべきである、と僕は思う。今回のケースであれば、ベイスターズファンが、お酒の席などで「誰を守護神に据えるべきか?」とテーマを設定して、各々、忌憚ない意見をぶつける方が、いっそう正しい。あくまでも「僕はそう思う」という話だけれども。

それで言えば、カープファンを自称している僕が、わざわざ「ベイスターズの抑えは〇〇〇〇が良いと思います!」などと出しゃばるのはお門違いだろう、と僕は思う。もちろん、野球観は人それぞれなので、もし、そんな方(カープファンがDeNAの選手起用について物申す)が居ても、全然気にしないし、気にも留めないのだけれども。

「じゃあいったい、何を取り上げたいわけよ?」

今にも聞こえてきそうな疑問の声にお答えしよう。僕は、この記事の内容、ではなく、記事のタイトルを見た際に「何をもって『決断』と呼ぶんだろうな?」と、考え込んでしまったわけだ。該当する部分を抜き出すと「三浦監督が配置転換決断」の「決断」ということになる。

もちろん、考え方・感じ方は人それぞれなので「決断とは〇〇のことです」などと言った風に、簡単に定義出来るものだとは思っていない。それを踏まえた上で「僕は『決断』という言葉をこう捉えているよ」といった話を展開していきたい。

そんなわけで、結論から述べよう。

”やると決めるのも決断、やらぬと決めるのも決断”

僕は、そう心得ている。

今回のケースに照らし合わせて話を進めた方が分かり良いと思われるので、そのまま行かせてもらうと、僕の解釈だと「配置転換」を「敢行する」と決めるのも「敢行しない」と決めるのも、立派な「決断」である、ということになる。

ただ、僕の経験則を振り返る限りでは、世間一般では、決断の意味を「敢行する」ことにしか当てはめないな、と感じる瞬間が、たびたびあるのだ。もっと言うと「敢行しない」という選択を取ると「決断することが出来ないダメな人」だとか「即断即決即行動の能力に欠ける人」などと罵られるケースも、ままある。

今回、敢えて「敢行しない選択」という表現で書いたわけだが、前述した通り、これも僕の解釈で行けば「敢行しないと決断した」ことになるのだけれど、どうも、世の中の人、と言い切って良いのかは微妙だが、おそらく、僕が知り得る限り、過半数の人は、そう捉えないようだ。

そして、今回の記事のタイトルの一部である「配置転換決断」という書き方を見ても「ようやく山崎康晃をクローザーから剥奪することを三浦監督は決断した」というニュアンスが言外に込められている気がしてならないのだ。

これはつまり「今年の山崎康晃はクローザーに不適格だと多くの方が思っていたにもかかわらず、三浦監督は今日に至るまで決断することが出来なかった」という、一種の采配批判とも取れる書き方なのではないか、とも、僕には思えるのだけど、これはまぁ、生来の悪癖と言える「裏読み・深読み」が過ぎる、とも言えるので、単なる戯言として受け取ってもらえれば幸いである。

コホン。

冒頭で述べたように「三浦監督の決断は正しい/間違い/どちらともいえない」だとか「三浦監督の決断は速い/遅い/どちらともいえない」などと論じるつもりは一切無い。

ただ、そういった類の話を度外視したとしても、まず間違いなく、三浦監督は、本人の弁でも述べていたように「誰をクローザーに据えるのがチームにとって最も良い選択なのか?」という自問自答を、日々繰り返していたであろうことは、想像に難くないわけで。

その結果、考えに考え抜いた末に「いや、やはりこのチームは、投手キャプテンでもある山崎康晃が、守護神としてマウンドに仁王立ちしてくれるのが、一番おさまりが良いのだ」と結論を出すことも沢山あったはずだ。というよりも、起用法から物申せば、その結論に毎回辿り着いていた、そんな言い方だって出来ることだろう。

仮にそうだったとして、苦心に苦心を重ねて導き出した「クローザーは山崎康晃のままで行く」という答えを「決断することが出来ないダメな人」と、一刀両断してしまって良いのか、と、僕だったら考えてしまうわけだ。

一方では「山崎康晃への情が強いあまり配置転換という非常な決断が出来ない」だとか「三浦大輔は根が優しい人だからここぞの場面で冷徹な判断を下すことが出来ない」などと、プロ野球チームの監督としての資質に欠ける、といった声を発する人も居ることだろう。

もちろん、それも立派な一意見だと僕は思っている。ただ、繰り返し述べているように、そういった類いの話は一切抜きにして、と言った上で、今回、このテーマを僕は取り上げているわけだ。そこだけは、勘違い無きよう。

最後に、一つ。

「変化」は目に見えるが「決断」は目に見えない。目に見える部分、つまり、山崎康晃が配置転換されたという変化に意識が引っ張られて「三浦監督が決断した!」と驚いたりする行為は、僕からすると、少々、短絡的にも思えてしまう。

「決断」の話に限らず、常に「観察(目に見える部分をもとに類推する)」と「洞察(観察をもとに目に見えない部分を推量する)」の習慣を怠らないようにしたいものだ、と再度思い直した、そんなキッカケを与えてくれるネット記事だった。

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