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【日記】2024.08.21(水)|タラレバを誰よりも真剣に考えてしまう変な人

昼夜逆転

昨日、あれだけ惰眠を貪(むさぼ)ったのだから、そりゃそうだろう、の一言しか出て来ない。

目覚ましアラームの4時間後に目が覚めた。

生活リズムというものは、一度崩れたら、修復するのは一筋縄ではいかないものなんだよ。万人が痛感していることを、今更、したり顔で書いたところで、いったい、何になるというのか。失敬、失敬。

まぁ、いいや。そんなことは。

まったく寝付けそうな感じもないまま、朝を迎えて、なぜだか明るくなると、眠気を催すような感覚が出て来て、そろそろ寝床に入ろうか、といったタイミングで、僕が漠然と考えていたことは、「夏の甲子園の準決勝を見れる気がしないなぁ・・・。」だった。

日程を確認すると、1試合目が8時プレイボール、2試合目が10時半プレイボールの予定になっていた。その時点で、確か、時刻は、6時を過ぎたぐらいだったか。普通に寝て起きたら、2試合とも終わっているか、あるいは、2試合目の最後だけ、少し見れるか、そのどちらかだった。

僕は野球が好きだ。だが、昼夜逆転状態の就寝前の思考は、全てが散漫になるというのか、好き嫌いを超越するレベルの、「どうでもいいですよ~」のフレーズが流れて来る。「だいたひかる」の歌声で。そう。全てが、もう、どうでもよく感じられるのだ。

僕は、そのまま、寝た。「遅寝早起き」だなんて、無理なマネはしない。眠たくなったから寝るのだ。起きたくなったから起きるのだ。野球のことは知らないし、先のことだって知らない。もう、どうだっていい。

生理的本能に従って、僕は、眠りについた。それなりに寝付きも良かったと思う。「破れかぶれマインド」が、功を奏したのかもしれない。

起きたら、まず、夏の甲子園の試合状況を、確認した。

「2試合とも終わったんだな・・・。」

試合時間は、1試合目が1時間56分、2試合目が1時間46分だったようだ。クーリングタイム等の時間も考慮すると、比較的、スムーズに進行したと言えるのではなかろうか。夏の甲子園の平均試合時間は良く分からないので、的外れなことを言っていたら、ごめんなさい。

高校野球

毎年甲子園が大盛り上がりの高校野球。高校野球の試合時間の平均は2時間から2時間半となっています。高校生の試合は攻守交代のときも走って素早く移動する上に、複雑すぎるサイン交換も行われないため試合時間がプロよりも短い傾向にあります。

ちなみに、クーリングタイム等が実施されていないと思われる(といってもグラウンド整備は行われるので大差無いのかもしれないが)記事によると、2時間から2時間半とのこと。だとしたら、平均よりは短い、とは言えそうだ。

明後日、8月23日(金)に、決勝戦のカードが組まれている。10時プレイボールとのこと。このままの生活リズムで行けば、まず間違いなく、見れない。起きた頃には、既に試合が終わっていることだろう。

「かといって、リズムを変える努力をするのもなぁ・・・。」

どこまでいっても、自堕落な人間らしい。何をやるにしても、モチベーションが湧いて来ないみたいだ。「高校野球への愛情はその程度なのか!」、と一喝されたら、「どうやらそうらしい。僕は僕自身に失望している」と答える他は無い。

「失望」と書いてみたが、「そもそも失望出来るぐらい自分自身に期待していたのか?」と、もう一人の自分が、嫌らしい顔で詰問してきた。僕は、「それを言ってくれるなよ・・・。」と、バツの悪い表情を浮かべながら、曖昧に返事をした。

僕は、「僕は僕自身に期待していない」と、口で言うことはあっても、心の奥底を覗けば、誰よりも熱心に期待していたりする、自己矛盾の塊みたいなところがある。


タラレバ

昨日のプロ野球、【巨人-広島】の試合で起きた出来事が、いつまでも、頭の片隅から離れないで、困っている。話し出すと長くなるので、僕なりに要点をまとめた上で、記事の引用をもとに、私見を述べてみたい。

<要点>

  • 「間を空けるタイミング」の是非を問う

  • 「行ったら良かった|行かなきゃ良かった」

  • ことわざ「やらない後悔よりやる後悔」

  • 「結果論」が絶対悪だとは思わない

まず、野球評論家・宮本慎也の見解を見て欲しい。

無死満塁から秋山、野間をフォークで連続三振。マウンドの山崎伊も、気合が入っていた。しかしベンチから杉内投手コーチがマウンドに向かい、絶対的なピンチを切り抜けられそうな「勢い」を消してしまった。

絶体絶命のピンチを迎えながら連続三振で2アウト。ここで油断しないように、一呼吸置きたかったのだろう。しかし、マウンドの山崎伊は開き直って腕を振っていたし、逆に追い込まれていたのは広島ベンチと打席に立つ小園だったと思う。一呼吸置いたことで、打席の小園はすっかり落ち着いてしまった。それまで2度、空振りしていたフォークをフルカウントから見極め、押し出し四球で貴重な追加点を奪った。気落ちした山崎伊は、この後、連打を浴びてマウンドを降りた。

この回、ベンチが一呼吸置くとしたら、無死満塁となった時点で叱咤(しった)激励するか、小園に押し出し四球を与えたときだっただろう。勝負の流れに乗れなかった巨人と、そこに付け込んだ広島。その差が重要な1戦の勝敗を分けた。

宮本慎也は、「間を空けるタイミングを間違えた」という見解を述べた。試合を観戦した後、この記事を読んだ僕は、「100%悪手だったと言い切れる事案なのか・・・?」と、深く、深く、考えさせられた。

これは、正直、難しい。「難しい」と言ってしまえば、もうそれで終わってしまうので、なるべく避けたいワードだとは思いながらも、やはり、難しい。ただ、「間を空けた後に一挙5失点の大量失点を喫した」のは、厳然たる事実なのである。

僕は思う。もしも、間を空けた後に山﨑伊織が抑えていたら、野球ファン、並びに、評論家諸氏は、どういった反応を示していたのだろうか、と。

先ほど、僕は「100%悪手」という表現を用いたが、これは、言い換えれば、「仮に結果が良かろうと悪かろうと」ということを意味する。つまり、今回のケースで言えば、「山﨑伊織が打たれようと抑えようと」ということになる。

それを踏まえた上で言う。僕は、あのタイミング、杉内コーチが間を空けたのは、「100%好手とも言えなければ100%悪手とも言えない」と感じた。ゆえに、山﨑伊織が、その後、打たれようが、抑えようが、「あのタイミングで杉内コーチが間を空けに行ったから打たれた(抑えた)」とは、僕には、言えないと思った。

なお、この話は、あくまでも、僕の野球観に基づいて、並びに、僕の価値観や言語感覚でいえば、という意味であって、「宮本慎也の言っていることは間違えている!」と糾弾したい意図は、サラサラ無い。むしろ、個人的には、「なるほど、そういう見立てをするのか・・・。」と考えを深める一助になった、と表現したいぐらいだ。

というか、僕は、YouTubeチャンネル『野球いっかん!』も見ているし、『解体慎書』も見ている。つまり、宮本慎也がメインコメンテーターを務めているチャンネルを2つ見ている、ということになる。そんな僕が「宮本慎也は間違えている!」なんて、口が裂けても言うはずなかろうて、といったところだ。

余談だが、野村克也と宮本慎也の共著『師弟』は、お気に入りの書籍のみを揃えた自室の本棚に収納しているぐらい愛読している、とも付け添えておきたい。

そんなモヤモヤを抱えたまま過ごしていると、試合が終わった翌日(宮本慎也の見解は試合後の当日に記事がUPされていた)に、間を空けに行った張本人(と言っても監督の指示や首脳陣での話し合い等もあった可能性はあるが)である、杉内コーチのコメントが紹介された記事もUPされていた。

杉内コーチ自身も悔やまれる場面があった。4回無死満塁から秋山、野間と連続三振。絶体絶命のピンチから2死までこぎつけたところでベンチから飛び出した。山崎伊へ声をかけるためだった。

「俺のミスだね。行かなきゃ良かったって正直思います。流れを止めてしまったわけではないけど、向こうに間を置いてしまった、与えてしまったかなというのはあるんでね。行かなきゃ良かったかなぁって正直に思います」

「伊織には『欲を出すなよ』って言ったんですよ。三振三振(と抑えたの)でね、あそこも三振取ろうと思って投げているはずだから『欲は出すな。バッターと勝負してこい』って本人には言ったんですけど……。(投手本能として)三振を取りにいきますよね、それはね」

 ピンチを切り抜けるために取ったタイム、そして投手への声がけ。ほんの少しの“間”が結果的に大量失点につながってしまう。改めて野球の難しさを感じさせた。

杉内コーチは「行かなきゃ良かった」と述べている。当たり前と言えば、当たり前かもしれない。なぜなら、結果だけを切り取れば、自分が間を取りに行った後に、5失点を喫することになったのだから。ダグアウトから、山﨑伊織が打ち込まれる姿を見ている時は、苦々しい思いで一杯だったのではなかろうか。想像するだけでも、胸が苦しくなってくる。

僕は、宮本慎也の見解と、杉内コーチの反省の弁しか、チェックしていない。不特定多数の野球ファンの見解は目にしていない、いや、意図的に目に入れないようにしている、と言った方が正しいだろうか。

ハッキリ言う。僕は、見たくないのだ。「なんであのタイミングで間を空けに行ったんだ!」だとか「あれこそまさに『水を差す行為』以外の何物でもない」などと、杉内コーチを糾弾するようなコメントの数々を。

真実は、分からない。もしかしたら、僕が考え過ぎなだけで、「あのタイミングで間を空けに行った意図は伝わって来た。それよりも一挙5得点のビッグイニングを作ったカープ打線を称えるべきだ」などという、温かなコメントもあるのかもしれない。

だが、僕は、これまでの経験で、そういった、温かなコメントを密かに期待しながら、野球ファンの見解をチェックするも、見るに堪えない罵詈雑言の数々を目の当たりにして、吐き気を催して(誇張抜き)、しばらくの間、ベッドに突っ伏すことしか出来なくなったのを、沢山味わってきている。

そんな僕にとって、いわゆる、「勝敗に直結する采配ミス」だとか「勝敗に直結するエラー」等が起きた時に、野球ファンはどう思っているのか覗いてみよう、といったマネは、一切、出来なくなってしまったわけだ。

そういう意味では、「スポーツナビ」でまとめられている「ヤフー記事」のコメント欄に「非表示機能」のオン/オフボタンが設けられたのは、僕にとって、とてもありがたかった。そのおかげで、「見たくないのに視界に入ってしまった」という状況を、完全に避けることが出来るようになった。

そう考えると、「非表示機能」が実施されたということは、僕のような、「ヤフコメは見たくないがヤフーでまとめられている記事は見たい」といった層が、多数居られるのかもしれない。これも一つの「デジタルデトックス」と言えるのかしら。あるいは「情報の断捨離」とでも言うのかな?

正式名称は良く分からないが、とにかく、現代社会は、情報量が、多過ぎて多過ぎて、「いかに情報処理の総量を減らせるか?」が、より良く生きる上での重要なミッションのように、僕には思われるのだ。

・・・失敬、話が逸れた。本題に戻る。

コホン。

杉内コーチは、確かに、「行かなきゃ良かった」と述べている。であるならば、本人がそう言っているのだから、宮本慎也の見解は正しくて、「あのタイミングで間を空けるのは間違ってる!」と糾弾している野球ファンの見解もまた正しくて、「100%好手とも100%悪手とも言い切れない」と述べていた僕の見解は間違っていた、ということになるのだろうか。

自分の発言を自分で擁護するようで恐縮なのだが、僕には、そう思えない。というか、たとえ、僕が杉内コーチの立場だったとしても、自分が間を空けに行った後に5失点を喫していたら、「行かなきゃ良かった」と述べていると思う。

それでも、100%悪手だとは言い切れない、と思うのだ。

冒頭に記した「要点」の欄で、僕は「やらない後悔よりやる後悔」と書いた。杉内コーチの真意は、僕には、測りかねる。ただ、コレだけは言える。

「間を空けようと思ったけど結局行かずに5失点を喫した」
「間を空けようと思ったため空けに行くも5失点を喫した」

この場合、「後者」よりも「前者」の方が、強い後悔の念が湧いて来るのが人間である、と。

だとするならば、杉内コーチの「行かなきゃ良かった」と悔いるコメントは、「行けば良かった」と悔いるコメントと比べると、精神的ショックは軽い、ということになる。(無論、どちらも、甚大なダメージを受けるのは言わずもがなとして、相対的に見れば、という意味で書いている)

ココで一つ、別の事例も持ち出してみたい。

青柳監督が悔やんだのは9回表の守り。

先頭打者に四球を与え、嫌な流れだったが、一死一、二塁のピンチで捕手前の打球を箱山 遥人捕手(3年)がジャンピングスローでフォースアウトに仕留める。ビッグプレーで勢いに乗ったかに見えたが、二死一、二塁から智辯学園佐坂 悠登内野手(3年)に投じた初球のスライダーが高めに浮いてしまい、適時打を浴び、決勝点となってしまった。

青柳監督は「佐坂くんを迎える前に伝令を送って、しっかりと間を取るべきでした。智辯学園で一番警戒していた打者でしたので」と悔やんだ。

僕がこの記事を目にしたのは、宮本慎也の見解を読んで、杉内コーチの反省の弁を読んだ後だった。それだけに、尚更、何とも言えない気分になったものだ。

状況こそ違えど、「間を空けるタイミング」という意味では、僕には、同じ場面に思えた。これは野球観の違いで意見が分かれるところであろうが。少なくとも、「間を空けるべきか?間を空けないべきか?」と葛藤状態が起こりやすい、という点においては、同じと言えるのではないだろうか。

青柳監督の反省の弁にあるように、このケースでは、「しっかりと間を取るべきだった」と悔やんでいる。つまり、杉内コーチのケースとは、逆のパターンということになる。

僕は、既に、宮本慎也の見解を読んだ時点で、「もしも逆の展開になった場合を考えれば・・・。」と思いを巡らせて、何とも言えないよなぁ、となっていた。だが、こうして、タイムリーな事例として見させられると、尚のこと、何とも言えない、としか、出て来ないのだ。

したがって、僕は、「ほら!杉内コーチも反省の弁を出してるじゃん!やっぱりあのタイミングで間を空けるのは間違ってたんだって!」とは、言えないのだ。

もしかしたら、間を空けたタイミングの時点(山崎伊織が5失点を喫する前)で、「ココで間を空ける意味ある?逆効果じゃない?」などとツイートしていた人は、この展開を受けて、鬼の首を取ったように、「ほうら!俺の言った通りだろ!?」「ほらほら!俺は5失点を喫する前に、ちゃんと見抜いていたんだよ!『逆効果じゃない?』ってなぁ!」と、これ以上ないドヤ顔をもって、ツイートを連投している野球ファンも居られるかもしれない。

もしも、そういう人が居たら、僕は問いたい。「山﨑伊織が無失点に抑えていたら、何もツイートすることなく、ダンマリを決め込んでいたのですか?」と。

・・・失敬、また、話が、おかしな方向に飛んでしまった。

僕は別に、争いごとを起こしたいわけではない。むしろ、争いごとは避けたいと考えるタイプだ。ゆえに「お前の主張はいつも八方美人と美辞麗句じゃないか」と受け取られることも多い。ただ、僕としては、「誰からも好かれたい(嫌われたくない)」という心理よりも「100%言い切れるのか?」と自問自答を行なった時に、「いや、100%言い切れるとは思えない」という結論に至ることが多いために、どうしても、他の人からすれば、毒にも薬にもならない発言に聞こえるケースが多くなる、少なくとも、僕はそう解釈している。

ウダウダと述べて来たが、僕の結論としては、あのシーンの是非を問うことは出来ない、敢えて言えば「結果論」で済ませるしかない、と捉えている。「散々考えて『結果論』で終わらせるのかよ(笑)」と言われたって良い。僕には是も非も下すことが出来なかった。それが真実なのだから。

僕は、いわゆる「タラレバ」について考えている時に、いつも、思うことがある。「もしかして、別の選択肢であれば、100%上手く行ったに違いないのに、と思い込んでいるのかな?」と。

「野球にタラレバは禁物」という言葉が存在するぐらい、野球に触れていると、日常茶飯事レベルで、「タラレバ」に出会う。具体例を挙げ出すとキリが無いので割愛するが、僕が特に疑問に思うのは、「打つ・打たない」のタラレバである。

例えば、「あの場面でA選手を代打に送るなんて誰がどう見てもおかしい。なぜB選手を代打に送らなかったのか」というもの。余談だが、このタラレバは、「C監督は過去の実績しか見ていない」といった批判コメントと共に展開されるケースが多い。見ていてあまり気持ちの良いものではない。

野球ファンなら周知の事実であろうが、バッターは「打率3割で1流」と呼ばれる世界である。つまり、100回中30回成功すれば1流、というわけだ。

そして、「代打」とは「代打成功率2割5分で1流」と言われる世界である。これは「打率3割で1流」と比べると聞く機会は少ないかもしれないが、プロ野球OBの話で、代打の切り札(代打の神様)の話題になると、度々用いられる数字なので、概ね間違いではないはずだ。

ということは、代打は、100回中30回成功どころか、100回中25回成功すれば、1流と呼ばれる世界なわけだ。それはつまり、100回中75回失敗する、とも言える。

にもかかわらず、「あの場面の代打はA選手じゃなくてB選手を送るべきだった」といった類いのタラレバを展開する人は、まるで、「B選手が代打に送られていれば100%打っていた」と言わんばかりの剣幕で熱弁している気がしてならないのは、僕だけであろうか?

・・・今、自分で書いていて、「A選手よりもB選手の方が出た結果に対して納得が付く」という考え方もあるかもしれないな、と思った。それは、自分の考えが至らなかった部分だと思う。ソコに関しては反省したい。なんでもかんでも、斜に構えた態度でいるのは、不当に敵を作るようなものだ。改めよう。

以上とする。

昨日今日と、この、一連のテーマ、「杉内コーチの間を空けるタイミング」に関して、ずうっと、引っ掛かりを覚えていたのもあって、途中、ヒートアップして、僕自身、何を書いているんだか良く分からなくなりながらも、何はともあれ、スッキリした心持ちにはなれた。そういう点では、良かった。

乱筆乱文、失礼致しました。

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