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平和を抜かれた平和の祭典について

 「神様なんて当の昔に阿佐ヶ谷のボロアパートで首を吊った」――それは一つの悲劇的な事実を意味している。だが、いつだろうか? いつから世界はこれほどまでに悲惨なことになったのだろうか。いや、我々はそれを知っている。我々がその手で殺したのだから。「いつ神は死んだのか」と問い、その時期を推し測る我々こそが、もっとも怠惰で傲慢な不信心な人間に他ならない。



 見せかけの「寛容」の名の下に、一つの無言の、しかし耐え難い暴力が蠢いている。色鮮やかにライトアップされたパリの市街に立つ町の人々、華やかな音楽、劇的な演出。それらの全てが素晴らしいものだった。だが、掲げられた承認と寛容の名の下に集う人々の笑顔には、どこか作り物のような感じさえあった。エッフェル塔がそうであるように、すべての所作が人間によって作られたものであるように。
 テレビは次の画面へと移った。ガザの戦争と悲劇がセーヌ川の上で国旗と共に手を振ったとき、私の家族の間に流れた一瞬の沈黙の間に、悲惨さを忘れたいという無意識の欲求を、私は感じずにはいられなかった。死者の数を口にしたとて、いったい何人がそれを思い起こすだろう。「祝祭の時くらい、戦争のことなんて忘れよう」。確かにその通り、だがその祝祭は、クリスマス休戦の時のそれのように、前線の塹壕で行われているわけではない。今この瞬間、戦場にいるのは正義の執行人と、駆除されるべきウジ虫だけだ。彼らを表すシニフィアンの間に、抗いがたい規範的な距離があってよかったと、私は心の底から安堵している。

「見たくないものは見ないままでよいのだ」祝祭の執行人は声高に叫ぶ。「我々は知ろうともしなければ、知る必要もない」 ―――思い出してほしい。常に死刑執行人は無罪である。彼は常に「真理」の側に立っている。



 人間。この傲慢なる者――それが何かと問う事が出来ることが、彼らの一つの可能性であるところの傲慢な存在者――我々は改めて人間の定義を思い出すべきだ。人間とはユダヤ人でも、ヨーロッパ人でも、黒人でも、白人でも、アジア人でもない。人種的諸カテゴリの集合にそれは与えられているわけではない。人間とは、ひとつの獣である。見たいように見て、知りたいように知って、聞きたいように聞く、巨大な怪物である。人間は眼を開くことの出来ぬ生き物である。開いた瞼には、すべて意味がこびりついている。意味の無い世界を我々は見ることが出来ない。
 思い出してほしい。初めてガザの子供たちに対して「彼らは悪魔の子だ」と言ったのは、ただの街の誰でもない誰かだった。今や、我々はそんな無名のデマゴーグも、自爆特攻を仕掛ける兵士という名目さえも必要としない、一義的で徹底されたヒステリーを目にしている。大手を振って街を歩く“ヨーロッパの人権思想”は、もはや無用の長物であるどころか、理由もなく人を傷つける格好の道具となっている。「ガザの空に、ヨーロッパの人権思想が落ちてくる」のだ。



「オリンピックの間はすべてを忘れよう」 平和と友好を謳う平和の祭典は、平和を抜かれた平和の祭典である。スロヴェニアの哲学者ならば、「カフェイン抜きのコーヒー」とさえ言うだろう。そして彼はさらに続けるだろう。現代オリンピックの公式はこう言われるべきである。「戦争の間はすべてを忘れよう。そしてオリンピックの間に思い出せ」。まるでこの祝祭が、中立の絶対的価値を持っているかのように振舞うのは、こうした巧妙な言葉の差し替えがあるからである。私たちは戦争を忘れている。忘れることが出来ている。否、忘れなければ、生きていくことなど出来ないのだ。

 それでも、あるいはそれだからこそ、思い出さねばならない。

 理性主義の文明が秘めた暗黙のメッセージを、我々はどう受け取るべきだろうか。かつて生きたまま焼かれた聖女の灰が捨てられた川の上で、燃え盛るピアノに乗せて、ジョン・レノンの「イマジン」が流れたとき、私の脳裏に移ったのは、ガザで実際にとられた子供の死体の姿だった。私はそれを見たことがある。セーフティー・ネットという名前の、残虐さと事実から目をそらすための装置によって隠されたおぞましい現実を、私は見たことがある。どこかから飛んできたミサイルで破壊された建物の残骸に頭部をつぶされて、両手両足はあらぬ方向にねじ曲がっていた。赤々とした血肉が裏返っている。そこに灰色のパイプが突き刺さっていて……墓標。生きた人が墓標となっていた。それが墓標ではなくて、墓標の下に眠るべき一人の人間だということが分かるのは、彼が、スーパーヒーローの大きく印刷されたシャツを着ていたからだった。何たる悲劇か。――最後の最期まで、彼のもとにスーパーヒーローは現れなかったのだ。「思い出して、すべての人々のために Imagin all the people」という彼のメッセージは、今や歪曲されて伝えられる。思い出されるべき「人々」は常に「正義」の側についているのである。
 名前も知らないどこかの誰かの為に歌う事。私は曲に罪は無いと思うし、この曲は歌うべきものを謳っていると感じている。我々は思い出さねばならない。だが、思い出すべき人々は、我々の創造の及ぶ人ではなくて、墓標となった人々のことである。灰色の爆弾と火炎の雨が、今もこの瞬間を、漆黒の空を染め上げている。地下施設の底で片方の睾丸を潰されている。眼玉がつぶれ、歯が砕け、爪が裂けている。我々はそれを忘れていることが出来る。背後につく巨大な力のことさえ考えていれば、立派な人間だと思っている。

 墓標はそれでも、生々しく現実を告げている。我々はそれを遠い異国の地だと思うことが出来る。出来てしまうのだ。それが境界(メディア)の力である。

 戦場の墓標は我々の現実の下で沈黙によって語り続ける。「沈黙は語りの一つの様態である」。その叫び声に耳を貸すべきだという知識人や活動家たちに対する冷ややかな視線は、パリの祝祭における空虚な催しの裏側に隠されている。遠い異国の出来事は、もはや我々の前に、現に現れてはいないのだ。すべては仮の姿であり、仮面である。では、真実を伝える「本当の」瞳はあるのか。「本当の」瞳? ああ、笑ってくれ。本物の正義が無いと言うのは簡単だし、本物の祝祭なんて無いと言うのは簡単だ。だが、そんな本物がない世界で、最も力を持つのは「本物の」言葉なのだ。



「すべての人々の為に思い出して」 ――私はまだ、歌の力を信じている。あの歌が、誇張され無意味化されないことを祈り続けている。

 私はもはや、素直に祝祭を見ることが出来ない。おそらくこの文章を見た人のうちの幾人かは「祝祭は政治化されてはならない」と私に反論するだろう。なるほど、確かにその通りだ。だがその祝祭こそが一つの政治なのだとすればどうだろうか。祝祭は我々を現実から引きはがして、享楽の内に巻き込む。しかしこの享楽こそが現実をつくりだしているものに他ならない。その仮初の快楽の下で、永遠に口を閉ざしたままの死者に、我々は耳を傾けるべきではないだろうか。


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