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女、妻、母、そして何よりも人間であるために  

永眠した親族の家から見つけた文章です。性別・年齢・時代を問わず学べることがあるのではないかと考えました。

※いくつか読みづらい文や漢字/ひらがなの使い分け・語の省略がありますが、そのままの文章を載せています。


第1節 チャンネルを変える人生

みなさんは、高校を卒業したら大学へ進みたい、就職したい、あるいは、専門学校へ通いたいなど、さまざまに、これからの自分の進路を考えたと思います。

進み方はちがっていても、それぞれ将来に夢を描いているという点では、皆同じだといっていいでしょう。けれどもその夢が実現するかどうか。現在では男性でも自分が希望する進路に進むのは至難のわざですから、ましてや女性の場合には、夢を実現させることは不可能に近いという現実があります。つまり人生を自分なりに設計し、そのとおりに生きることは、人間にとって、女性にとって、たいへんむずかしい問題です。

しかし女性にとってより大きな問題は結婚によってすっかり人生が変わってしまう場合があるということです。それまではピアノを習ったり、絵が好きだったり、あるいは文学の研究がしたいなどと考えていた女性が結婚と同時に人生の目標をすっかり変えて、それまで自分が蓄積してきたものは、どこかへやってしまうことがよくあるのです。ちょうどテレビのチャンネルが切り替わってしまうように。そうです。女性にとって結婚とは、このチャンネルの切り替えにも似て、それ以前の人生となんらかの関係をもちながら、妻なるのでなく、すっかり妻になってしまうことを意味する場合が多いのです。

男女分業論はまことにつごうよく、女性のこの生活の変貌を合理化してしまいます。「男は外ではたらき、女は家を守る」この考え方は、結局、女性を男性に隷属させ、こまごました家事仕事に妻を追いこんで人間としての発展の芽をつまみとってしまうことになりかねません。なぜなら、夫ははたらくことによって家庭生活を維持する経済力を手にし、妻はその庇護のもとでしか生活できなくなること、また夫は社会とのつながりの中で生活するわけで、人間関係や文化的教養が外に開かれ、その中でみがかれていくのに比べ、妻のそれはともすれば閉じたものになりがちだからです。つまり分業といいながら、その実、主なるものと従なるものという関係がどうしても生ずる基盤がここにあるのです。

愛してさえいればそれでいいではないかと、みなさんは考えているかもしれませんが、ちょっと待ってください。

結婚してしばらくすると、だいたいの人が、赤ちゃんが生まれます。すると妻は同時に「母」にもなります。母になることは、夫が「父」にもなることとは全くといっていいほど違った意味をもっています。

子どもを育てるというこの誇り高い、しかし身を削られ時間を丸ごと奪いとられる養育の仕事は、とりわけ妻にとって想像をはるかにこえて、その生活を激変させるのです。あんなことをやってみよう、こんな勉強もしてみたいという妻の期待はひとつひとつ遠のき、子どものためにあと五年は、三年は、とがまんしているうちに、いつの間にかそんなエネルギーはなくなってあとに残る疲労感、夫はその間に会社などの仕事も忙しくなり、しだいに帰宅時刻もおそくなる。こうして考えることも関心のあることも日一日と隔たっていく中で、二人の間に生まれてくる空疎感、それらのむなしさを埋め合わせするかのように、母子一体感を求めて子育てにのめりこんでいくーーーあまりに悲観的な図式と思うかもしれませんが、結婚した女性のたどるパターンのひとつとしてこうした事実が確かにあることは無視することができません。

第二節 後半生をどう生きるか

かつて日本人にとって子育てのあとは、文字どおり「余生」であった時代がありました。明治の終わりごろには、男女ともに平均寿命が四十二歳前後でしたし、"人生わずか五十年"となったのは、大正時代に入ってからのことでした。もっともそのころは、いまのようにだれもが高校に行くということはなく小学校を出てすぐにはたらきにでるのが、むしろ普通であったわけで、親が晩年を迎えることにはもう子供達は独立しているという、いまでいうライフサイクルはもっとずっと早く回転していたのです。

ところが現在では、平均寿命は八十歳に届こうとしています。明治時代と比較すれば、実際に二人分の人生の長さを生きられるようになったのです。

たとえば二十五歳で結婚し仮に七十五歳で死亡するとしても、結婚後五十年の年月があります。結婚前の二十五年のうち十年程度は男か女かは外形とのちがいがあるにすぎませんから、異性を意識するのはせいぜい十五年間くらいです。そうすると、異性を意識してから結婚までの(十五年の)後に三倍以上の人生が結婚後に控えているわけです。ところがみなさんは異性を意識し、結婚を考える場合、いったい結婚後何カ年ぐらいまでを連想するのでしょうか。

結婚式まで、最初の赤ちゃんが生まれるころまで、子どもがよちよち歩きをするころから幼稚園に通うころまで、アパートを引きはらって団地住まいをするころまで……そのとき自分は何をしているのか、それから自分は何をするのか、子どもが中心に入って、そろそろ親をうるさがりはじめる。子どもの生活や行動にあまり干渉しすぎると、かえってその成長を損なうことさえある。

つまり、子が親から離れてひとりだちしはじめるころ、親は子どもから離れられるのか、離れたらいったい自分は何をするのか、何を目あてにして生きていったらいいのだろうか。それはそのときになってみつけようとしても、なかなかみつけられるものではありません。結婚前からいや若いうちから継続してとりくみ続けること、それが育児のため中断せざるをえなくとも自分の中にしっかりと根づかせること、そうした人生を築く努力があってはじめて後半生がいっそう充実したものになるのです。それは妻としてでなく、母としてでなく、まさにひとりの人間としての生きる目あてにほかなりません。そしてそれぞれが生きる目あてをもち、それを認め合ったうえで、おたがいに力をだし合いつつ共同の生活をつくりあげること、これこそがこれからの結婚でなければなりません。

どうぞ妻となり母となることをのぞむ皆さん、妻はどうにかなりましても母としての事業は大変なものです。母になる、母となる資格、その母を子供から、世の中の人々から、たたえられる母は子供の成長のよし・わるしに母の価値観が出てきます。

今若い内にしっかりとした教養を根性をたたきこんで下さい。

私の指導理念はここにあります。

いつも申し上げていることを今回は筆をとりました。

子供の成績ではありません。素直な心そしてその子のしつけにあります。


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