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〈愛〉とは何か〜ギフト・対話・ナラティブへの考察〜

ぼくは小さなバーを営んでいます。

今は現場を離れていますが、実際にカウンターの中でカクテルをつくり、お客さまをおもてなししていた時期が数年間ありました。店は今年で十二年目を迎えます。それは人間の身体と同じように時間を重ねることで衰える部分もありますが、日々の小さな蓄積が豊かに、丈夫になっていく部分があることも事実です。

お店のことを考える時、それは同時に〈愛〉について考えることを意味します。それはお客さまに対するおもてなしに限りません。酒に関する知識やカクテルづくりの技術。道具の扱い方、言葉の選び方、行き届いた掃除、心遣い。「清々しく、より良く」を体現しようと思えば、そこには数えきれない吟味と工夫を重ねていくことになります。

うまくいくこともあれば、いかないこともある。仮説と検証、挑戦と反省、伝統と革新。それらに敬意を抱き、行動していく。その中で変わらないものは〈愛〉。細かく言えば、時間を重ねるごとに豊かになっていくものこそ、〈愛〉であるように思います。お客さまに対する〈愛〉、スタッフに対する〈愛〉、カクテルに対する〈愛〉、道具に対する〈愛〉、それらは総じて店に対する〈愛〉なのだと。

DONNA店 (2)

〈愛〉とは何か?

感情的、あるいは、身体的に紐づいた物語の結晶だと考えています。わかりやすい例が、母から子への愛情です。母親は胎に生命を宿すことにより、身体性の伴った物語を紡ぎます。その物語を通して、「かけがえのない存在」という認識へと至る。

母と子の関係性は最も極端な例です。パートナーとの〈愛〉、家族との〈愛〉、ペットとの〈愛〉。それらを解析していくと、そこにはまとまった量の「時間」が存在することに気付きます。つまり「記憶(思い出)」が深く関係している。それは共に過ごした空間、揺れ動いた感情、巡り巡った思考、もっと言うと触れ合った感覚。それらを集積したものが、互いの間に流れるナラティブ(物語)であり、圧縮したものが〈愛〉なのではないでしょうか。

当然のことながら「時間」だけが全てではありません。最も重要な点は、「愛おしい」と思える関係性の構築です。〈愛〉は関係性によって育まれ、より豊かにしていくものが「物語」なのです。「愛が深い」とは、その物語をたくさん持ち合わせていることだと思うのです。それは、特定の「誰か」に限った話ではなく、複数の「一対一」の関係性の間で生まれた物語の総量。

〈愛〉は欠点をも「愛おしさ」に変えてしまう力があります。ぼくはこれを「物語の発酵」あるいは「物語の熟成」と呼んでいます。長所に惹かれることは自然な傾向ですが、〈愛〉は短所をも「愛おしい」と感じさせます。そこに時間や感情の蓄積がなければ、短所は単なる「欠点」に過ぎないのですが、互いのナラティブ(物語)を保有することによって、短所が「かけがえのない個性」として映ります。

ぼくの店に対する〈愛〉は、十二年の吟味と工夫の中で育まれました。お客さまとの物語、スタッフとの物語、道具との物語、それらの関係性の構築とナラティブ(物語)によって豊かになっていったのだと思います。店のある部分が老朽化したとしても、それを「愛おしい」と思えるのは、ぼくと店の間に十二年という時間と物語が存在するからです。

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〈ギフト〉

基本的に〈愛〉はギフトの概念で機能します。

つまり、それは「贈与」という形式であり、「交換」の対象ではありません。無償で授かるものであり、報酬を期待せずに渡すものです。「交換」の概念しか頭にない人は、〈愛〉を循環させることはできません。膨大な物語の結晶を持ち合わせていても、それを渡す方法を知らなければ、扱うことはできないのです。

わかりやすい例が、やはり母と子の関係性です。母親は胎の中で育んだ生命に報酬を求めません。栄養を与え、世話をし、親密なコミュニケーションを積極的にとります。それは、まさしくギフトです。

ここで、「〈愛〉はお金で買えるのか?」という問題について考えてみたいと思います。ぼくの定義した〈愛〉とは、「愛おしい」と思える関係性の構築に伴う、感情的、あるいは、身体的に紐づいた物語の結晶です。ゆえに、これはお金では買えません。お金がきっかけとして機能することはあっても、それ自体を買うことはできない。

また、授かった〈愛〉に対して対価を支払う、あるいは、渡した〈愛〉に対して報酬を求めた途端に、それは「交換」となります。〈愛〉はあくまでギフトであるとぼくは思うのです。

さて、ここからが複雑です。

「それでは金銭の伴ったコミュニケーションは〈愛〉ではないのか?」という疑問を抱く方は少なくないと思います。実際に、お店でお客さまへおもてなしをする場合は〈愛〉なのか、そうではないのか。「お客さまへの〈愛〉と言いながら、対価が支払われているではないか」という指摘が起こることは自然でしょう。

〈愛〉は付加価値である

これは非常に繊細な部分ですが、捉え方によって認識に揺らぎが生まれます。「報酬を求めたサービス」と捉えた場合、〈愛〉は「交換」の対象になります。「見返りを求めないサービス」と捉えた場合、それは「ギフト」となります。

それは、もてなす側の心持ちと、受け取り手の抱いた印象に任せる部分になってきます。いずれにせよ、〈愛〉は付加価値として機能するので、互いの心持ちに関係なく影響が生まれます。結果的に「あの店のサービスが好き」「行き届いた心遣い」という点で評価の対象となり、どうしても購買を判断する上での基準にはなってしまう。

ただ、神経を研ぎ澄ませて観察すればわかるはずです。「交換」を前提としたもてなしなのか、「ギフト」を前提としたもてなしなのかということは。目には見えない領域ですが、肌やこころで感じることができる。だから、「もてなす側」としては、前提にある捉え方を明確にしておくことは重要であると考えます。

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〈ダイアログ〉

〈愛〉とは「愛おしい」と思える関係性の構築に伴う、感情的、あるいは、身体的に紐づいた物語の結晶であると先ほど述べました。その関係性の構築をなめらかに導入する方法が〈対話〉です。つまりは、物語が生まれるきっかけとなる行為。

〈対話〉とは、「一対一」の関係性を構築する営みです。〈会話〉には関係性を構築する力はありません。その関係性は互いの間に流れるナラティブ(物語)となります。「ストーリー」と「ナラティブ」は、同じ「物語」という意味で訳されますが捉え方が異なります。「ストーリー」は誰もが共有できる大きな物語。「ナラティブ」はきわめて個人的な小さな物語。

たとえば、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』という小説の物語が「ストーリー」だとすれば、それを読んだ人の中で生まれた物語が「ナラティブ」です。『銀河鉄道の夜』という物語は一つしかありませんが、それを読んだ感想は、読んだ人の数だけあります。その人の環境、背景、立場、コンディション、経験、知識、あらゆるものが関係して、一つの小さなナラティブが生まれます。

〈対話〉は互いの関係性の間に「ナラティブ」を生みます。物語の集積、結晶化したものをぼくは〈愛〉と定義しました。つまり、〈対話〉は〈愛〉の種になり得るのではないかと考えています。「愛おしい」と思える関係性を構築し、それぞれのナラティブを紡ぎ、合わせ、編み上げることで〈愛〉の結晶を精製できるのではないでしょうか。

そのようなことを考え、〈対話〉を通して、〈愛〉について考え、〈ギフト〉という手段で、日々実験しています。

お客さまとの〈対話〉、スタッフとの〈対話〉、カクテルとの〈対話〉、道具との〈対話〉、そして店との〈対話〉。そこで生まれるナラティブを集積し、結晶化させて〈愛〉を精製していく。その豊かな〈愛〉を、ギフトにして贈る。その循環が、店という一つの生態系をより強く、美しいものにしていくのではないかと思うのです。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。