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11月の終わり

11月、霜月。それは僕の人生の中で1,2を争う辛く、そして、苦しい月だった。難病が悪化し、病院で担当医から「失明するかもしれない」と告げられた。そして、それに加え、「あなたの視力はもう戻りません」と告げられた。事実上の戦力外宣告だ。あの日から自分の中の何かが泡のように消えたような気がする。たとえ失明したからといっても、別に死ぬわけじゃない。死ぬわけじゃないけど、目が見えなくなるかもしれない事実が迫っていることは怖い。ねえ、1度目が見えなくなる生活を想像してみてよ。とてもじゃないけど、僕には到底耐えられっこない。嫌だ。無理だ。想像しただけで辛いし、涙が出てくる。

毎日寝るのは朝の7時。悪夢に魘される毎日。3時間睡眠が当たり前になり、疲れが全然取れない。でも、眠ることはできなくて、どうすればいいかわからなかった。病気と向き合うには、規則正しい生活を送るのが1番効果的だ。とはいえ、体が言うことを聞いてくれないんだから今の自分の状態は末期と呼ぶに値するのであろう。生活は重く、そして、その先に光もない。もしかしたら光はあるかもしれない。でも、どこにあるかわからない光を探す旅に、僕はもう疲れてしまっていた。

「生きていればいいことがある」

その言葉は真理だと思う。とはいえ、あまりにも前向きな言葉はどん底にいる人間にとっては、とても重い足枷となる。前向きな言葉を浴びれば浴びるほど足元はおぼつかなくなる。良いことが明確ではない限り、その言葉をどん底にいる人は信じられない。むしろ他人のかざした暴論を聞かされているような気がする。それに加え、正論を言われたところで、なにも響かないし、「そんなことはわかってんだよ!」と拒絶したくなってしまう。もちろん悪意がないことは理解している。自身も落ち込んでいる人に前向きな言葉を掛けてしまうこともあるし、そこには悪意ではなく、相手の力になりたいという善意が込められているから、相手を無下にするような行為はしたくない。

でも、どん底に落ちている人間には前向きな言葉は毒だ。じわじわと神経を蝕む毒は、やがて猛毒となって体を襲い掛かるのがオチ。相手が求める言葉を相手に伝えるのは困難だと思う。だって、自分でもなんと言ってももらえたら嬉しいかわからないでしょ?だから、相手の掛ける言葉には悪意はないと理解した上で、話に耳を傾ける必要だある。その上で取捨選択を行う。善意のある言葉に対して、決して相手を責めないことが、人間関係をうまく築く要因だと僕は考えているのだ。

仕事もままならない状態が続き、稼働時間は通常の半分以下だった。当然の如く収入も半減した。そのため12月の忘年会の数が減って、安堵している自分がいる。1月の新年会はぜひとも開催したいものだね。そのためには12月は、無理のない程度に仕事を、きちんとして取り戻さなければならない。

海に連れて行ってくれた友人。くだらない話で笑わせてくれた友人。仕事を一緒にしてくれた友人。仕事を調整してくれたクライアントさん。ご飯を食べさせてくれた父親。いろいろな人に迷惑を掛けたし、お世話になった人には頭が上がらない。

苦しく、そして、辛い11月がやっと終わった。ビハインドから始まった12月。失ったものを取り戻すには、僕1人の力では難しいのかもしれない。でも、僕は1人じゃないから、きっと大丈夫だ。そして、前向きな言葉も今はちゃんと受け止められるようになりました。

「生きていればいいことがある。」

この言葉を胸に僕は、自分の人生を自分で生きていく。

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