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又吉直樹『劇場』は男女の恋愛の瑞々しさを綺麗に描いた物語だった

「ここが一番安全な場所だよ」

「いつまでもつのか」

街の画廊を覗いている売れない劇作家である永田と俳優を夢見て上京した沙希が出会うシーンで、又吉直樹原作の『劇場』は動き出す。これはずっと安全な場所にいられると信じていたい女とそれがいつまでもつか不安になる男の物語だ。

最初はそれぞれの生活を過ごしていたが、売れない劇作家が女性の家に転がり込んだところで、物語は一変する。「ここが一番安全な場所だよ」と沙希は言う。「いつまでもつだろうか」と永田は言う。2人の生活はずっと続くと信じたいが、それは永田が劇作家として売れない限りはずっと続くものではない。

一般的に大半の人間は大学を卒業後は、会社で働くようになる。そして、結婚して、家庭を築く。しかし、夢を追いかける人間に世間の常識は通用しない。永田は沙希の家に転がり、脚本を書く。沙紀は会社員にならず、アルバイトを掛け持ちする。お金が不安になった沙紀は、光熱費だけでも払ってくれないと永田に問いかけるが、「自分の家ではないから光熱費を払うのはおかしい」と永田は逃げてしまう。

デートは公園で高菜おにぎりを買って、公園で話すだけ。お金がないからという理由で、晩ご飯は家で食べる。普通の社会人であれば、街に出てランチをして、夜は居酒屋か素敵なディナーに行くのだろう。世間一般の常識がまるで通用しない2人は「ここが世界で1番安全な場所」と言って、次第に2人だけの世界を作り上げる。その様は世間に馴染めない2人を肯定するための場所のようにも思えた。

思えば、2人の出会いも奇妙なものだった。画廊を見ていたときにたまたま隣で見ていた女性を追いかける永田。それに恐怖しながらも、一緒にカフェに行ってしまう沙希。カフェで「並んでいるお酒のなかで、どのお酒が1番強そうな殺し屋か」という会話で盛り上がる。殺されるかもしれないと逃げた女性が嬉々として、1番強そうな殺し屋を答えるなんて奇妙そのものである。この瞬間に、2人だけにしかわからない世界は出来ていたのだろう。

一度きりで終わると思った2人の関係性だったが、最初の出会いの際に、2人は連絡先を交換していた。とんとん拍子で同棲が始まり、沙希は永田が書いた脚本の舞台に出ることに。舞台は大盛況だったが、沙希のあまりにも巧い演技に嫉妬した永田は2度と舞台の上に立たせなかった。永田は沙希の才能を殺したと言っても過言ではない。嫉妬心が強すぎる永田は沙希が2人だけの安全な場所から離れる可能性を危惧したのかもしれない。沙希の成功の数だけ永田の不甲斐なさが露呈する。そんな光景を見ることに恐怖した。きっとそんなところだろう。

人間の優しさの裏には必ずたくさんの傷跡がある。怒りに身を任せて、感情をぶつける永田。最初はとびきりの笑顔で迎えていた沙希の笑顔は次第に減っていく。そして、酒がなければ、夜も眠れない生活へと沙希は堕落する。

それでも献身的に支える沙希は、自分が諦めた夢を永田に託していたのかもしれない。いつか永田が有名な劇作家になって、幸せな家庭を築く。叶いもしない幻想を必死で追い続けるその様を滑稽に思えた人もいるかもしれないし、あんなダメ男はやめた方がいいと思った人はきっと多いだろう。

永田にとって沙希が支えであったように、沙希にとっても永田は支えだった。俳優を目指して東京に上京した沙希にとって、夢を追い続ける永田は眩しく見えた。永田がいる東京だからこそ、沙希は東京にいた。もしも永田がいなかったら、もっと早く東京を離れたと沙希は言う。それが何よりも証拠である。

「いつまでもつだろうか」

自分たちがお金のない生活を続ける中で、周りの友人が結婚していく様に焦りを覚える沙希。普通の男と出会っていれば、沙紀は結婚できていたかもしれない。永田は自分が沙希の可能性を殺している事実に最初から気づいていた。しかし、嫉妬心が強く、不器用な永田はその事実を素直に認められない。沙希のために別れてやってほしいという友の助言を無視して、一緒にいることを選び続ける。気づいているのに、気づかないふりをしている時間は、想像以上に耐え難いものだ。それでも沙希との別れを選べなかったのは、2人の世界からの脱出に怯えていたからなのだろう。

東京にいることを選びたい沙希だったが、母親の助言によって、実家に帰省することに。夢見た東京を捨てることは、すなわち永田との別れを意味する。前に進みたいが、なかなか前に進めない永田とは裏腹に、母の助言を素直に受け止めて、自分の足で前に進み出した沙希。どちらかが降りないと永遠に終わらないこの生活から抜け出したのは。夢を追い続ける者ではなく、夢を託した者だった。

「ここが1番安全な場所だよ」と言っていた家で繰り広げられる最後の会話。最初は台本どおり進んでいた物語が、途端にアドリブへと切り替えられる。演劇を通して繰り広げられるアドリブでの本音のぶつけ合い。舞台は家から劇場に変わる。永田と沙紀の最後の物語を客席で「ごめんね」と泣きながら見守る沙希。永田がアドリブで話した沙希との夢は永遠に叶わない。離れ離れになったとしても、それぞれの物語は続いていく。

一見救いのない物語に見えたかもしれないが、2人があの場所で共にした時間は無駄ではなかったと思いたい。2人の最後の演劇の途中で、舞台は何度も暗転を繰り返す。最終的に舞台は暗転した状態で終わってしまった。だが、演劇が終わった瞬間に、ふたたび舞台に明かりがついた。舞台の終演は、2人が安全な場所から脱出した証拠でもある。最後の灯火が2人にとって、希望の灯火だったと僕は信じたい。

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