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私は結婚できない

「今度、夫と子どもを連れて家族で集まろうよ」

来月で私は35歳になる。周りは結婚をしていて、子どもがいる友人ばかりである。それに比べ、私は子どもはおろか配偶者すらいないのが現状だ。世間一般が求める幸せの尺度に当てはまらない私は、今日も友人たちの会話に馴染めないままでいる。

恋をした経験もあるし、結婚を申し込まれた経験もある。でも、家族を持つことにそれほど魅力を感じられなくて、結婚の申し出を断った。「結婚できないなら別れる」と言われ、当時お付き合いをしていた恋人とは、3年前に疎遠になった。

「知子はさ、結婚しないの?」

「うーん、どうしても私が結婚してるイメージがつかないの」

「家に帰ったら家族が待っている生活はとても幸せだし、子どもの顔を見ていたら1日の疲れがすっ飛ぶよ」

今日もまた幸せの押し付けに苦しめられる。里美に悪気があるわけではないのは知っているし、幸せな家庭を築いているのは事実だ。でも彼女の本心はいつも私の心をえぐり取る。「私には私の幸せがある」といくら彼女に伝えたところで、きっと理解してもらえないのだろう。

「誰か紹介してあげよっか」

歩美のまわりには結婚願望の強い男性が多いらしい。歩美の提案にイマイチ乗り気になれない私は、彼女の提案をずっと丁寧に断り続けてきた。提案を断るたびに、2人から「変わってるね」と言われる。私は変わり者なんだろう。それを否定はしないし、肯定もしない。彼女たちの一連の会話を、私はいつも作り笑顔でやり過ごしている。

家に帰るたびに誰かが待っている生活を、私は窮屈だと思ってしまう。誰もいない家に帰り、部屋の電気を自分でつける。スーツを脱いで、ソファへ投げ込む。なにかをするタイミングは自分で決めたい。ご飯を作るタイミングも、お風呂に入るタイミングも、全部だ。

結婚してしまえば、1人の生活ではなく、2人の生活になってしまう。楽しいこともたくさんあるんだろうけれど、それよりも楽しいことは人生にはたくさんある。1人の方が自由で気楽だし、世間一般の幸福論はいまのところ私には当てはまらない。

子どもはかわいいけれど、育てる自信もなければ、友人の子どもだからかわいいと思えるのかもしれない。夜泣きにはきっと耐えられないし、夫に当たり続けるだろう。そういった苦しみを乗り越えるから子どもの成長が見られることも理解している。でも、子どもの成長を見届けるだけなら友人の子どもで十分だと思っている自分もいる。

家族を持つこと。それ自体を否定する気はないし、私自身両親に育てられてここまで生きてきた事実もある。でも、家族を持つことが、自分の幸せであるかどうかは定かではない。いざ家族を持てばそれなりに自覚を持てるのだろうけれど、その自信もないまま私は35歳を迎えた。

いつかは結婚したいと思える日がやってくるのだろうか。それともこのまま一生独り身のままで死んでしまうのかはわからない。たとえ独り身だろうが、独り身には独り身の幸せはきっとある。これは強がりではなく、本心であり、どんな人生でも楽しんでみせるという決意でもある。

人にはそれぞれの幸せがあり、その幸せを追いかけることに必死になればいい。他人の幸せの尺度はいまのところ私には当てはまらない。それは揺るぎようのない事実だ。

彼女たちとの会話のあと、1人で帰路に着く。電車に乗り、駅員さんのアナウンスと電車のガタンゴトンという音だけが響き渡る。最寄駅に着いて、改札を1人で出て、自転車を漕ぐ。このまま家に帰ったっていいし、どこかへたびに出かけたっていい。やっぱり人間は自由だ。でも、この世界は少し窮屈すぎる。

夜の公園。ブランコを漕いで、まんまるい月にそっとキスをする。すべり台に乗って、どこまでも落下するのも悪くない。砂場で自分だけの城を築いて、誰も見つけられない王国を築いたっていい。1人ならすべて自由だ。誰からも支配されることなく、好き勝手生きていられる。

この世界は自由なはずなのに、世間一般の幸福論が、今日も誰かを苦しめている。世間に当てはまらない私はきっと異物で、世間に当てはまる歩美と里美は正常なのだ。

幸福の数は人間の数だけあるのに、誰もが一般の幸福論叶えるために、恋をして、結婚をして、家族を築いていく。子孫繁栄は生物の本能だと言えば、そりゃそうなのかもしれないけれど、そこに当てはまらない人間だってここにはいる。

だから私は私の幸福論を定義して、それを追いかける人生にしたい。いつか方向転換して、誰かと一緒になると決めたっていい。それが私の幸福論なのだし、誰かが文句を言う権利なんてないはずだ。

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