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ことばの空論

言葉の強弱を、気遣いすぎる癖がある。じぶんが言われたくない言葉は、なるべく投げかけないスタンスだ。この言葉なら傷つかないだろう。この言葉なら喜んでもらえるかもしれない。そんなことばかりをいつも考えている。言葉は相手を傷つけるために、使うものではなく、相手を温かい気持ちにするために使うものだ。自身の言葉に対するスタンスは、ずっと崩さないままでいたい。

人は人を変えられない。これは普遍的なことで、じぶんのことは、じぶんでしか変えられないのだ。じぶんが相手を変えたなんて、ただの傲慢である。そんな傲慢な思いは、引き出しの中にでも閉まっておけばいい。言葉がきっかけで、じぶんの足で立ち上がったに過ぎない。言葉は相手がじぶんで、立ち上がるための一躍を担った。あなたが変えたわけでも、僕が変えたわけでもない。

言葉を受け取るのであれば、肯定の言葉のほうがいいとよく思うときがある。肯定の言葉は、じぶんを救う。そして、その結果、前向きな状態へと変わる。ここでひとつの矛盾に気づいた。人は人を変えられないはずなのに、なぜ人は人の言葉によって変わるのか。これは人の行動によって変わったわけではない。あくまで言葉によって変わったのだ。間違ってもじぶんが変えたなんて、思ってはいけないのである。

肯定の言葉は確かに気持ちがいい。でも肯定の言葉に頼ってばかりじゃ、ダメな人間になってしまう。人間はすぐに優しさに甘えてしまうのだ。優しさと厳しさを飼いならすためには、いい塩梅が必要なんだけど、このさじ加減が本当に難しい。28年経ったいまでも、よく優しさと厳しさのさじ加減を間違え続けている。

優しさを求めすぎると、それはやがて依存へと化ける。依存状態になれば、そこから抜け出すのに、かなりの時間と労力がかかってしまう。依存状態にために、じぶんのことは、じぶんでできる自立した人間になる必要がある。

肯定の言葉ばかり受け取っていると、甘えが生じて、成長がストップしてしまう。だからこそ、ときには痛い言葉も受け取りたい。痛い言葉は、棘がチクチクと刺さった感覚がある。痛い言葉は、相手の優しさでもあるのだ。だからこそ、相手の優しさを、両手で掬い取れる器量をなるべく持っていたい。

でも、人間とは非常にめんどくさい生き物で、痛い言葉が痛気持ちいいときもあれば、拒絶してしまいたいときもある。ああ、なんてめんどくさいんだろうか。痛い言葉を拒絶してしまいたいときは、大抵が自身の心が疲弊しているときだ。だからこそ、相手に痛い言葉を投げかけるときは、相手の機微をよく観察した上で、GOサインを出さなければならない。

正論ばかりの人が嫌われやすいのは、相手の気持ちを考えた上での発言を考慮していないためだ。言葉の受け手は、相手の感情など微塵も介さず、そのまま額面通りの意味で受け取ってしまう。その結果、相手の優しさを拒絶し、優しさを厳しさだと判定する。精神状態が悪いときは、じぶんがすべてだ。視野の悪さは、群を抜いていると思っていい。じぶんの都合の悪い人は、全員敵だと思ってしまう。普段ならスッと入る言葉も、この状態になってしまうと、スルーされるだけ。

こういう相手とは時間をかけて、向き合う必要がある。これには忍耐力が必要で、大抵の人は途中で投げ出してしまう。めんどくさいのだ。なんどもなんども「でも」「だって」が返ってくると、勝手にやってろという気持ちになるのも無理はない。

ぼくは「繊細な人」とよく言われる。これが褒め言葉なのかどうかは、わからないけど、この性格のおかげで、人生を楽しめていることは間違いない。言葉を紡ぐを生業としていられるのも、繊細さがあるためだ。言葉を扱うには繊細さが必要となるため、この性格で良かったと思っている。

言葉は一音を切り取ると、ただの音だ。一音は羅列することで、意味を為し、音が羅列した瞬間に、言葉になる。音の羅列が人を救ったり、殺したりする。言葉の恐ろしさは、言葉を悪い方向に扱えば、誰かの感情を簡単にコントロールしてしまえることだ。言葉を巧みに扱い、いい方向に導くのであれば、それはいいことなのかもしれない。でも、言葉で相手を悪や破滅に貶める行為は卑劣でしかない。

言葉は人を選ばない。でも、人は言葉を選ぶ。言葉の選び方は良くも悪くも自由で、千差万別である。じぶんの扱う言葉が、絶望につながらないよう細心の注意を払っていたい。そして、文章で希望を届けられるよう今後も努力していく。

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