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どうせ死ぬなら二度寝で死にたいわ

夜中にふと目がさめる。「どうせ死ぬなら二度寝で死にたいわ」と、あいみょんが言っていたことを思い出す。二度寝は人生の中で、3本の指に入る幸せのひとつ。そのほかにも幸せだと感じる瞬間はあるけど、考えるのもめんどくさいし、幸せだと感じた瞬間にちゃんと幸せを味わえればそれでいいや。そして、ぼくもあいみょんと同じように、どうせ死ぬなら二度寝で死にたいと思っている。

あるフォロワーさんが、「言葉は口にした途端、空虚なものと化す。まるでじぶんのものではなくなった感覚」と言っていた。その感覚に共感した。じぶんが紡いだ言葉はじぶんで、その想いも本物なのに、形になった時点で、空気として消えてしまう。どれだけ影響力があろうと口にした途端、消えてしまうのだ。言葉なんて誰かの借り物でしかない。でも、そんな言葉に20数年間も救われ続けている。だから、言葉もバカにならない。

言葉は口に出すのではなく、文字にしてしまえば、残り続ける。紙のノートがなくならない限り、WEBページがなくならない限り、ずっとそこにあり続ける。だからこのように文章として、言葉を残し続けているのだ。「言葉が文字として残る」が幸せなのか不幸なのかはわからないし、細かいことを気にしている時間はないから、そんなものはどうでもいい。

人生なんて「どうでもいい」の連続で、どうでもよくないを探す旅でもある。そして、どうでもいいやつばっかりが存在していて、そんなぼくもどうでもいいやつの1人だ。どうでもいいやつにも大切な人はいて、大切な人の中にも、どうでもいいやつがいる。誰もが生きてきた証を残すために、必死にもがいていて、もがいている様は滑稽そのものだ。でも、笑われようが、賞賛されようが、じぶんの生き方は簡単には変えられないところが、人間の可愛くて醜いところなんだろうね。

生きている間に、人間は誰かに勝手にカテゴライズされる。最初は赤ちゃん。そして、子ども、そのあとは大人。最後は老人。学生、社会人。年金暮らし。言葉の羅列に意味を添えて、勝手にカテゴライズしてしまう。自身は社会人の大人である。仕事をして、お金を稼いで、じぶんの幸せのために生きている。僕たち人間は、カテゴライズの範疇の中でしか生きられない。

そもそもこの世のすべては、人間の身勝手からはじまったものだ。そもそも仕事なんてする必要がないし、お金なんて稼ぐ必要もない。土地は誰のものでもないし、植物や食べ物も誰のものでもない。すべてが自由なはずなのに、制限という鎖を人間が生を永らえさせるために、勝手に作ったのだ。

地球の大地を勝手に私物化し、勝手に紙幣制度を作って、勝手に国を作る。この世は身勝手な事象ばかりで、言葉も勝手に人間が作ったものだ。本来、地球の大地は誰のものでもない。草木、食べ物もぜんぶ誰のものでもない。生を永らえさせるために、誰かが勝手に国を築き、土地を私物化し、紙幣制度を作り、平等を謳い、不平等に嘆くようになった。そして、何かを為した人が人々から賞賛を浴び、悪事を働いた人は批判されるようになった。

法が国を守り、秩序が人々の暮らしを守る。国境も土地の所有も地球からすれば、迷惑そのものかもしれない。でも、我々人間は身勝手だから、人間を永らえさせるために、様々なものを作った。そして、その恩恵をずっともらい続けているのが、我々人間で、その仕組みを作ったのが我々人間だ。

暮らしは日を増すごとに、便利になる。でも、不便がたまに恋しくなってしまう。家から徒歩圏内にコンビニがあって、なにかを食べたいと思ったときに、コンビニに足を運べば、すぐに食べ物が手に入ってしまう。渇きを簡単に癒せるぼくは、幸せ者でしかない。そして、その幸せに不満を持ってしまう行為は、贅沢でしかないんだろうね。

簡単にだれかと繋がれるようになったインターネット社会。インターネット社会は取り残された人と人に囲まれている人の格差を、いとも簡単に生み出してしまった罪を背負っている。SNSには大切なことは何も書かれていないのに、インフルエンサーの言葉を鵜呑みして、人生を棒に振った人をたくさん見てきた。

やれ宗教、やれ養分など、心許ない言葉で誰かを誹謗中傷する些末。騙す方は完全に悪だけど、それに乗じて悪を懲らしめる正義が、今日も世界のどこかでひしめき合っている。勧善懲悪、悪は正義には勝てない。でも、好きな人が悪人に染まったら、味方ではなく、敵に回ってしまうんだろうか。ぼくはきっと悪人だろうが、好きな人の味方でい続けてしまうと思う。いや、わからない。いざその場面になってからじゃないと、じぶんがどうするかはわからない。そして、好きな人が悪人に染まらないよう祈り続ける。

歪んだ愛に苦しめられている人もきっとたくさんいる。愛はお互いが愛し抜くことで、完成形になる。1人では愛は完成しないし、愛は落ちるものではなく、誰かと育んでいくものだ。そして、愛の形は死ぬまでわからない。だから、真実の愛ってやつを、大勢の人が求めては彷徨う形になっているのだ。

この世の事象の何もかもが、何が正解で、何が不正解なのかはわからないし、この文章のオチの付けどころも既にわかっていない。今後、どう生きるかはわからないけど、二度寝で死にたいという事実だけはずっと変わらないままだ。二度寝で死ねたらきっと満足して死んでいける。でも、たぶん二度寝では死ねないから、納得のいく生き方をして死んでいきたい。

いつも行き着く結論が一緒なのは、じぶんが変わっていない証拠か。それとも成長していない証拠か。その結論はもはや不明だし、もうこの際、細かいことはあまり気にせず、生きていたい。

また主語の大きい話をしてしまった。2021年は主語の小さい話をたくさんしようと思っていたのに、また同じ失敗を繰り返し続けている。まあそれもご愛嬌ってことにするとしようか。以上、言いたいことと思いついたことをただただ並べただけの散文でした。

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